縁
リルの足は、動かなかった。
少女の声は、風に混じって消えかかっていた。
かすれた、弱い響き。
「…誰か…いるの…?」
それは、問いかけというより、ただの吐息のように聞こえた。
リルは灌木の陰から身を引こうとしたが、胸の鼓動がそれを許さない。
熱が皮膚を焼き、指先まで伝わってくる。
神の心臓は、少女の存在に強く反応している。
少女は井戸の縁に寄りかかったまま、ゆっくりと顔を上げた。
白く抜け落ちた髪が、夕暮れの薄光に透けて見える。
肌は青白く、輪郭がぼやけている。
病のせいか、それとも──すでに呪いの兆候か。
リルは目を細め、少女の瞳を捉えた。
淡く濁った灰色の瞳。
それは、どこか自分の瞳に似ていた。
リルは息を詰め、選択を迫られた。
このまま去れば、少女は井戸のそばで倒れるかもしれない。
誰も助けに来ない。
集落の灯りは遠く、人の気配は薄い。
だが、近づけば、呪いが動き出す。
触れれば、終わらせる。
近づけば、少女の記憶を、存在を、霧のように溶かしてしまう。
胸の脈動が、痛みに変わる。
リルは唇を強く噛んだ。
血の味が口に広がる。
終わらせたくない。
終わらせたくない。
その言葉が、頭の中で繰り返される。
少女が、再び呟いた。
「…助けて…」
声は弱く、しかしはっきりとした。
それは、絶望の底から絞り出されたものだった。
少女の身体が、井戸の縁から滑り落ちそうになる。
細い手が石を掴み、指が白くなる。
リルは、動いた。
灌木を抜け、集落の外縁へ一歩踏み出した。
足音を殺し、影のように近づく。
少女の視界に入らないよう、井戸の反対側へ回り込む。
水の気配が、冷たく鼻を突く。
リルは井戸の縁に手をかけた。
少女は気づいていない。
ただ、息を切らして、井戸の底を見つめている。
リルは、ゆっくりと手を伸ばした。
少女の肩に触れようとした瞬間、胸の熱が爆発的に増した。
指先が震え、再生の力が暴走しそうになる。
彼女は手を引き戻し、歯を食いしばった。
触れてはいけない。
触れれば、すぐに始まる。
少女が、ふと顔を上げた。
今度は、視線がリルに絡まる。
灰色の瞳が、ぼんやりと彼女を捉える。
少女の唇が、わずかに動いた。
「…あなた…エンダー…?」
その言葉に、リルは凍りついた。
少女は、知っている。
呪いの継承者だと。
どうして。
なぜ。
少女は、弱く微笑んだ。
それは、痛みを堪えるような、儚い表情だった。
「…予言に…あった…」
声は途切れ途切れ。
「エンダーを…終わらせる…鍵…」
リルは息を止めた。
予言。
古い石碑や、放浪中に聞いた噂。
「最後のエンダーを終わらせる鍵」
それは、救済の幻想だ。
殺せば呪いが終わる、という嘘。
実際には、新たな断片を生み、連鎖を強めるだけ。
少女の身体が、再び傾く。
リルは、反射的に手を伸ばした。
指先が、少女の腕に触れる。
一瞬の接触。
少女の肌は、冷たく、透けそうに薄い。
その瞬間、胸の鼓動が止まったように感じた。
熱が引く。
代わりに、奇妙な静けさが訪れる。
少女の瞳が、少しだけ澄んだ。
彼女は、リルの顔を見上げた。
「…ありがとう…」
リルは手を引き、すぐに後退した。
少女の腕に、わずかな霧が残る。
色が、薄く失われ始めている。
呪いが、動き出した。
リルは井戸の陰に身を隠し、息を荒げた。
触れてしまった。
助けてしまった。
終わらせてしまった。
少女は、井戸の縁に座り込んだ。
力なく、しかし穏やかに。
「…名前は…ミラ…」
かすれた声で、少女は言った。
「あなたは…?」
リルは、答えなかった。
ただ、胸の脈動が、再びゆっくりと動き始めた。
今度は、少女の存在に寄り添うように。
神の心臓が、終わらせるためのリズムを刻み続ける。
リルは、静かに立ち上がった。
この出会いは、間違いだった。
だが、もう、引き返せない。
世界は、静かに、次の終わりを始めていた。




