予
リルは丘の反対側を下り、川床から離れた。
風が背中を押し、足取りをわずかに速める。
胸の脈動は、男の影が遠ざかった後も、完全に収まらない。
熱は引いたが、微かな振動が残っている。
それは、断片がまだ繋がりを失っていない証拠だ。
リルは唇を噛み、歩みを続けた。
日が傾き始め、空の灰色が濃さを増す。
前方に、低い丘の連なりが見えてきた。
その麓に、ぼんやりとした灯りが点在している。
集落だ。
煙の匂いが、風に乗って強くなっている。
焚き火の臭い、焼いた木の香り、かすかな肉の焦げた臭い。
人間の生活の痕跡。
リルは立ち止まり、距離を測った。
丘の頂上から見下ろせば、集落の輪郭がはっきりする。
小さな家々が十数軒、粗末な柵で囲まれ、中央に井戸がある。
人影はまばらで、動きは緩やかだ。
夕餉の準備をしているのだろう。
水が必要だった。
食料も、残りはあと一日分。
リルはフードを深く被り、集落の外縁へ近づいた。
直接入るつもりはない。
井戸の近くに、捨てられた桶や水溜まりがあれば、それで足りる。
人間に近づかず、触れず、視線を交わさず。
丘の斜面を下り、枯れた灌木の陰に身を寄せる。
集落の灯りが、ぼんやりと彼女の顔を照らす。
リルは息を潜め、井戸の位置を確認した。
石組みの縁に、水が少し残っている。
桶は置かれていないが、手で掬えそうだ。
胸の鼓動が、再び速くなった。
今度は、集落の方向から。
リルは目を細め、井戸の近くを観察する。
人影が一人、井戸のそばに立っていた。
小さな影。
子供か、少女か。
ぼろ布をまとった細い身体が、井戸の縁に寄りかかっている。
動かない。
倒れているようにも見える。
リルは視線を逸らした。
関わらない。
近づけば、呪いが動き出す。
しかし、胸の熱は増すばかりだ。
断片が、反応している。
少女の近くに、何かがあるのかもしれない。
少女は、ゆっくりと身を起こした。
顔は見えないが、髪が白く抜け落ちているのが分かる。
病弱な様子で、井戸の縁に手をかけ、息を切らしている。
リルは歯を食いしばった。
見なかったことにする。
水を掬い、すぐに去る。
だが、足が動かない。
少女が、こちらを見た。
いや、見たわけではない。
視線が交わったわけではない。
ただ、少女の身体が、わずかにこちらへ傾いた。
まるで、何かに引き寄せられるように。
胸の脈動が、痛みに変わる。
リルは後退しようとしたが、灌木に足を取られ、わずかに音を立てた。
少女の頭が、ゆっくりとこちらを向く。
リルは息を止めた。
少女の瞳は、淡く濁っている。
病のせいか、それとも──。
少女は、かすれた声で呟いた。
「…誰か…いるの…?」
声は弱く、風に消えそうだった。
だが、リルにははっきりと届いた。
胸の鼓動が、最大限に速くなった。
神の心臓が、少女の存在に反応している。
それは、終わらせるためのものだ。
リルは目を閉じ、深く息を吐いた。
白い霧が広がり、灌木の葉を薄く覆う。
まだ、終わらせたくない。
だが、世界は、静かに彼女を試し始めていた。




