焦
リルは川床の窪みに身を沈め、息を殺した。
影は動かない。
丘の稜線に留まったまま、風に揺れる枯れ草のように静止している。
しかし、胸の鼓動は嘘をつかない。
熱が指先まで伝わり、再生の力が皮膚の下で蠢いている。
それは、近づくものを終わらせるための準備だ。
彼女はゆっくりと後退し、川床の曲がり角へ移動した。
土壁がわずかに身を隠してくれる。
視線を上げ、丘を観察する。
影はまだ一つ。
先ほどは複数に見えたが、錯覚だったのかもしれない。
風が強く、埃が舞い、輪郭をぼやけさせている。
リルはフードを深く被り直し、左手を胸に当てた。
脈動を抑えようとするが、無駄だった。
断片は、宿主の意志など関係なく反応する。
神の最後の意志が、そこに宿っているからだ。
遠くから、低い話し声が風に乗って届いた。
言葉は聞き取れないが、焦りを含んでいる。
「…脈が…」
「…近い…」
断片同士の共鳴。
彼らも、エンダーだ。
少なくとも、一人は。
リルは歯を食いしばり、選択を迫られた。
このまま隠れていれば、見逃される可能性がある。
だが、胸の熱は増すばかり。
逃げても、追われるかもしれない。
彼女は深く息を吸い、吐いた。
白い霧が広がり、川床の土を薄く覆う。
その霧は、呪いの最初の兆候だ。
近づく者がいれば、すぐに色が失われ、記憶が薄れる。
リルはそれを望まない。
だからこそ、誰も近づかせない。
影が動き出した。
ゆっくりと、丘を下り始める。
一歩、また一歩。
足音はまだ聞こえないが、土を踏む気配が伝わってくる。
リルは体を低くし、川床の奥へ移動した。
曲がり角を抜けると、そこに古い崩落跡があった。
岩が積み重なり、狭い隙間を作っている。
彼女はそこへ身を滑り込ませ、息を止めた。
隙間から外を覗く。
影は川床の対岸に到達していた。
ぼろ布をまとった男だ。
顔はフードで隠れ、手に長い杖のようなものを握っている。
杖の先端に、何かが輝いている。
断片か、それともただの金属か。
男は立ち止まり、周囲を見回した。
視線が、リルの隠れた方向へ向く。
胸の鼓動が、最大限に速くなった。
熱が痛みに変わる。
リルは唇を噛み、目を閉じた。
終わらせたくない。
終わらせたくない。
繰り返す言葉が、頭の中で響く。
男は動いた。
杖を地面に突き立て、膝をついた。
何かを探しているようだ。
やがて、低い声で呟いた。
「…ここか」
リルは息を詰めた。
見つかった。
再生の力が、皮膚を熱くする。
傷ついても、すぐに癒える。
だが、それは同時に、相手を終わらせるための力でもある。
男は立ち上がり、再び歩き出した。
しかし、方向はリルの隠れ場所とは逆。
川床を上流へ向かっている。
リルは目を細め、男の背中を見送った。
胸の熱が、ゆっくりと引いていく。
去ったのか。
それとも、迂回しているのか。
リルは隙間から身を抜き、反対側へ移動した。
丘の反対側へ回り込み、距離を取る。
足音を殺し、風に逆らって歩く。
だが、胸の脈動は、完全に止まらない。
まだ、どこかで繋がっている。
断片は、互いを引き寄せる。
神の意志が、終わりを求めている。
リルは歩みを速めた。
日常は、もう少しだけ続く。
だが、世界は、静かに動き始めていた。




