回帰 ―幸せなあなたとそうじゃないわたし―
大学のカフェテラス。公煌と治臣は、いつものように勉学に勤しんでいた。
公煌はあの日以来、視線が本当になくなったことに戸惑い半分喜び半分を感じていた。20年、ずっとあったことがなくなったが、大きな変化はないし、誰にも話したことのないことだった。気持ちの問題は大きい。つまり、今まで出来なかったことができるということ。抑制されていたすべてが叶うことになるのだ。
「最近、お前浮かれているよな?」
公煌の変化に気付いたのは、毎日一緒にいる治臣だ。
「そうか?」
公煌の顔が思わずにやける。
「何か、良いご縁でも?」
「まだないけど、そういう系統のこともこれからは追々と」
「おいおい、誰だよ」
「だから、まだ別に特定の人はいないけど? そういう方向に行けそうな?」
「ん? んん?」
「詮索するなよ、ないないない」
「まだ?」
「まだな」
「興味ないのかと思っていた」
「あるよ、あるけど、なんだか今までは萎えるようなことばかりで」
「金持ちは大変だな」
「そっくりそのままお返し」
2人はモテないわけではない。しかし、どうにもこうにも家柄や資産が邪魔をして女性を信じられないことが多い。今までは、視線が気になって恋愛どころではなかったが、今からは、治臣に心から共感できるようになるだろう。
「それで、浮かれて見えるからてっきり美咲ちゃんに良いことあったのかと思ってさ」
「ああ、そうだな」
先日、美咲が夜間練習の成果として全国大会に出場していた。
「結果はベスト8だったけど、決勝を泳いだことは自信になったんだと」
「すごいな」
「水泳は高校でも続けていけばいいさ」
「まぁ、結局は俺らと同じような感じになるってことだろう」
「進路は同じだからな」
医者になることは、3人の共通の目標だった。
小さい頃から親たちを見てきたのだ。治臣の母が多忙で、父は病床の身だ。幼馴染の3人は公煌の家で過ごすことが多かった。公煌の家はこの地で一番大きな病院。仁稲家の敷地の中に住居スペースも含まれていた。栄美子の両親と幸一の両親である祖父母4人と公煌と美咲の両親の大人6人で、3人は一緒に面倒を見てもらった。治臣が含まれていたのは、改めえて振り返ると不思議だったが、治臣の母、翠の多忙と父の入退院が大きな理由だったのだろう。翠自身も積極的に育児に関わっていたし、家族ぐるみの付き合いだった。生まれた時から治臣が居るのが、当たり前の環境で疑問はなかった。
治臣が公煌と美咲と一緒に育った理由は、先日プールで見た「あの子の記憶」に多くのヒントがあった。
治臣はこめかみをトントンと指で叩いて、目を細める。
「俺たちが、おばけに会ったのって、結構貴重な経験だったよな」
「おばけって」
死んでしまった人の記憶を、水の中で見たことを言っているのだろうか。しかし、あの記憶を口にすることはできない。妹も見てしまったかもしれない。あえて、美咲からその話題は出ていない。
***
あの日、水に閉じ込められた後のことだ。
「ああ、美咲ちゃん、公煌くん。ごめんなさい」
取り乱す翠。ずぶ濡れで泣く女性は混乱の中にいた。水が異常な状態だったことを、彼女も見てしまったのだろう。
「今、すぐに救急車を」
「大丈夫だよ、私たち、肺活量は小さい時から鍛えているから。ね?」
美咲の言葉に公煌と治臣は頷いた。
「そんなことより、翠さんもぬれちゃったね。私たちは水着だから平気だけど」
バスタオルで翠を包んだ。翠はさっきは必死だったが急に怖くなったようだ。異常なプールを震える手で指さす。
「こんな危険なことになっていたの?」
「もう、大丈夫でしょう。ねぇ、公美ちゃんは天国にいったのかも」
「そうだな、もう、ここにはいなさそうだ」
プールに漂う緊張感や不穏さはなくなった。そうはっきり感じた。
「公美、公美ちゃん」
また翠は声を震わせた。
「栄美子ちゃんからは、聞いてないと思うけど、実はね」
翠は公煌と美咲の手を取った。
「あなた達の名前に、公美は生きているの」
栄美子と幸一は、公美から一文字ずつ取って、兄妹の名前を付けてくれた。
泣き笑いで、翠は二人を抱きしめた。
「公美が居なかったら、公煌くんが産まれて来られなかったからって。私も、あなた達の成長をそばで見守って良いって。それに、治臣ともずっと一緒に居てくれて。何度も、何度も、救われてきたのよ。だから」
言いたいことはわかった。
公煌と美咲がこのプールに来たから、公美が怪異として現れたのだろうか。知らない間にピースはそろっていった。
「怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
3人は何度も翠に「大丈夫」と繰り返す。翠の気が済むまで謝罪は続いた。
***
治臣の父、佳山家当主は治臣が翠のお腹にいた時から精神病棟へ入院していた。
病状はあまり良くなく、錯乱状態は常駐化していた。20年、入退院を繰り返し、実質佳山家の事業は全て翠1人が取り仕切っている。
一応、生きてはいるが、社会人としては役に立たない名ばかりの当主。
それが治臣にとっての父だった。見たことは数回しかないし、覚えている姿は化け物みたいに錯乱している恐ろしい人だった。もはや人間なのかも怪しいものだ。
「父は一生、精神病棟から出て来られないだろうって話だ」
治臣の希望医局は「脳外科」だった。治臣の父の精神状態が悪化したのは、あのプールの怪異がなくなってから。なにかを察してしまう。
「おばけはいるんだって」
「わかったよ」
治臣の「おばけは父のそばに行ってしまったのだ」という仮定を公煌は肯定した。そういうことにしておかないと、治臣も公美も救われない気がしたからだ。
「もしもさ」
公煌は、今はもう居ない視線の存在を思う。カフェテラスの窓ガラスに、映る2人の姿に幻を思い浮かべてしまう。翠に良く似た女子大生が2人の間に笑顔で座る。
「もし、産まれていたら、3人目がいたら、今ここで一緒に勉強していただろうな」
「もちろん」
名前もない、公美のお腹にいた命。20年間、公煌の傍にいたのはきっと。
(終)




