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遭遇 ―ごめんね―


バシャ、バシャ、バシャ――延々と続く水音。


少女は手を止めることなく泳ぎ続けていた。


息が苦しい。


もう、自分の呼吸と心臓の鼓動と、水音だけがずっと耳を占めている。水の外に気配は何もないみたい。世界には、自分と水しか存在しない錯覚。

50mプールを何往復しただろう。今日のメニューは2000m。ひたすらターンを繰り返す。


呼吸が、鼓動が、水音が。

バシャ、バシャ、バシャ――


「!?」

足にまとわりつく水が重くなる。水底に引きずり込まれるのではないか、と思うほど。おかしい。まるで。

……誰かに引っ張られている?

そう気づいたときには、水面に顔を出せなくなっていた。

疲労で足がつったのか? いや、確かに自分以外の存在を感じる。

必死に水面を仰ごうとする。手足が水を掻く。

だが、もう無理だ。

息が――。

そのまま、少女は沈んでいく。50mプールの底へ。


「ごめんね」


***


「美咲!」


バサァッ!

ひっぱりあげられて、美咲みさは呼吸を、空気を肺に必死に取り込んだ。生死を彷徨ったのは一瞬で、自分がしがみ付いている人を見た。

「お、おにいちゃん」

美咲は涙目、咳き込みながら兄の公煌こうきに抱きついていた。

「大丈夫か? つったのか? 溺れていたように見えたけど」

美咲は水泳部のエースだ。夏の大会のため、泳力アップの特別訓練を兄に申し出て、兄の友達の親がオーナーの室内温水プールを夜間に貸してもらうことになった。

「おぼ、れた」

「おいおい」

妹のピンチにとっさに飛び込んだため、公煌も焦っていた。衣服が纏わりついて泳ぎにくい。それでも、必死に青い顔の妹をプールサイドへと引き上げる。公煌は妹の付き添いできたので、普通の服だった。びしょびしょのTシャツを脱ぐと、絞る。ビタビタと盛大に滝を作る。すぐに全て脱ぎたいが、妹の前で脱ぐことは出来ない。

「あー更衣室でズボンとパンツは絞るか」

「公煌!」

プールに響く声。

「治臣」

近くにいたのだろうか? 騒ぎに気付いて兄の友達、治臣はるおみがプールサイドに様子を見に来てくれた。

「なんだ騒ぎだ? なんでお前が飛び込んだ?」

びしょ濡れの友人に異常を察知していた。

「今、美咲が溺れて助けた」

「美咲ちゃんが?」

水泳部の美咲が溺れるわけがないだろうと鼻で笑う。


パチャ――


不自然な水音に3人ともプールの水面を見た。


「ひぃ」


3人とも、似たような悲鳴を上げた。人の腕ほどの水が、水の塊が不自然に持ち上がる。


パチャ、パチャ、パチャ


音のリズムは、人が泳いでいるときのものと酷似している。その腕のサイズの水の塊は、まるでクロールを泳ぐときの腕の動きのように3人の方へ向かってくる。

「な、なんだ!?」


パチャンッ


水の塊はプールサイドに当たって弾けて消えた。しばらく呆然と3人で水面を眺める。もう、水の塊が出てくることはなかった。

「……み、み、見た?」

「「あ、ああ」」

治臣と公煌の声が美咲の質問に答える。

「あのさ、さっきわたし聞いたの。水の中で、女の子の声」

「な、何?」

美咲が水面を見つめた。


「ごめんね、赤ちゃんって」


プールに沈黙が漂う。

「幽霊? おばけ? 初めて。ハル君、知っていたの?」

このプールに精通しているであろう治臣に解決を求める。この現象を説明してほしいと兄妹は見つめる。治臣は首を横にぶんぶんと振って否定した。

「し、し、知らないよ。こんなの、俺たちも初めてだ」

「お、おう」

小・中・高と水泳部だった公煌と治臣はこのプールで夜間練習を日課としていた。怖いと思ったことのない、馴染みの場所でまさか怪奇に遭うとは思いもしない。

「足を」

美咲の話は信じがたいものだったが、今見た水の動きは完全に「おばけ」のようなそれだった。

「足を引っ張られたの。水面に上がってこられなくて、怖かったけど、怖くなかったっていうか。寂しいっていうか、不思議な感じ。ママの声もしたような」

どんどん怖い話になっていくのに耐えきれず、公煌は声を荒げる。ここにもう居たくない。

「と、とにかく! 今日は帰ろう。マッ――お母さんが事情を知っているかもしれないし」

「俺も、母さんに聞いておくよ。俺の生まれる前から、このプールこと詳しいから」

帰り支度を始める兄妹に治臣がタオルを投げる。

「公煌、俺の着替え貸してやるよ」

「助かる。車をびしょびしょにするところだった」

どんなに服を絞っても、それを着て運転して帰ればシートは濡れてしまい、明日も不快な思いをすること間違いなしだった。

更衣室の前で妹と別れる。

「美咲、また変なことあったら大声で呼べよ?」

「うん、その時は。てか、怖がらせないで」

恐る恐る女子更衣室へ1人消える妹。


公煌は久しぶりに男子更衣室へ入る。オーナーの息子特権の治臣専用ロッカーから、着替えをもらう。

「Tシャツと、ジャージしかない。パンツはないぞ」

ちらっと、更衣室の端へ目線を向ける。

「自販機で買うしかないな」

「……うう、買う」

「よし、ださパン奢ってやるよ」

背に腹は変えられない罰ゲームのパンツ。子供の時から笑っていた自販機のこいつを買う日が来るとは。この柄のチョイスは何とかならないのかと、ずっと思っていた。3パターンから治臣が購入したのは「キャプテンアメリカ柄」と呼んでいた、白星と赤と青の派手ださパン。高速で履いてすぐにジャージを着て隠した。

「もっと見たかったのになぁ」

にやつく治臣に脱いだ濡れたパンツを投げつける。

「絞れ!」

公煌はズボンを絞った。律儀に手伝ってくれる幼馴染に、気を紛らわせてくれたことに感謝もしていた。

「ほい」

水分のなくなった布切れを、パンツが入っていた袋へ突っ込んだ。

「まぁ、いろいろとありがとうな。なぁ、このプールはもう危険なのか? もう来ない方が良いかもな」

寂しさを感じる。ここは二人の青春そのものだ。妹の泳力アップのために、二人で作った練習メニュー。夜間練習なんて、別の施設ではなかなか出来ないことだった。


公煌は仁稲にいな家の長男、治臣は佳山かやま家の長男。2人は同じ年に生まれ、生まれた病院も主治医も同じ。未就園児から保育園、小学校、中学校、高校、大学までずっと一緒。ほぼ兄弟みたいな関係だった。

仁稲家は地元の大病院一族で、代々医療従事者を輩出し、現在公煌も医学生だ。治臣も同じ道に進んでいる。将来、妹の美咲も医者という進路に進むと言っていた。

佳山家は大地主だ。この地域で知らぬものはいないほどの不動産を所有している。いずれは長男である治臣が全て継ぐ。そんな曰くつきの家に生まれ育つ境遇から3人は話が合うのだ。


妹の夜間練習に、公煌は反対だったが、治臣は違った。

「いや、明日からさ。俺とお前の二人で待機したら良いんじゃない? アレが襲ってきても、美咲ちゃんを助けたら良いわけだし」

「簡単にいうなよ。本当に溺れていたんだぞ」

「でも、夜間練習を中断するのは得策じゃない。美咲ちゃんの泳力アップの時期は今しかない。この夏しか、もうないんだぞ」

「そうだけど」

妹を危険に合わせたくないが、中学三年生で夏の大会に向けた追い込みは必要だ。友達のよしみで借りられる貴重な場所を、あんな水の塊に邪魔されて失うなんて、酷すぎる。

「明日、またおばけが出ても良いように準備して、練習を続けてもらおう。な、公煌」

「でもなぁ。美咲がやりたいっていうか」

心配は杞憂だった。


「やりたい。練習したい」


美咲の決断は早かった。

「でもなぁ。あのプールにはおばけがいるんだぞ?」

「またお兄ちゃんが助けてくれるんだよね?」

「まぁ、助けるけどさ」

「怖い?」

「……う」

ドン。治臣が肩を組んできた。

「俺も一緒にいるぜ」

「じゃ、大丈夫だ」

楽観的な2人に公煌はため息しか出ない。

「あれが何なのか、気にならないのか? 危険なんだぞ」

「もう、居なくなったかもしれない」

「そうだな、成仏したかも」

「塩まくか」

「いいね!」

明日の対策を安直に決める妹と友達。自分が心配し過ぎなのか。嫌な予感しかしなかった。


公煌には誰にも打ち明けていない重大な秘密があった。

生まれつき、誰かに見られている感覚がするのだ。それは、誰かわからない。声も聞こえないし、姿も見えない。ただただ、感じるのは見られているということ。視線。だけど、これを誰かに説明することは今までしてこなかった。無駄に心配させるだけで、何の解決にもならないと、知っているからだ。幼い時、困って誰かに、多分母か父に相談したかもしれない。その記憶すら曖昧で、誰にも言っていないかもしれない。物心つく頃には、この誰かに見られていると思うのは、自分の勘違いや思い過ごしだと決定づけていた。一度そう思い込めば、こういうのが自分の日常だと受け入れて生きてこられた。

今回の水の塊の怪奇は、その誰かに見られている感覚と酷似しているのだ。姿を見たのは初めてで、ましてや妹を水底へと沈めたという「実害」を受けたのも今回が初めてだ。

これは、重大な自分の過失だろうかと、公煌は後悔している。自分がもっと早く手を打っておけば、美咲を怖い目に合わせずに済んだのではないか。自責していた。

「おにいちゃん、明日、塩とファブリーズ買いに行こうね」

「なんで?」

「聞いてなかったのか? 除霊の常識だぞ?」

知らない。目をぱちくりさせる兄に、妹は笑顔を向けた。

「やっぱり、一番怖がっているのはお兄ちゃんだね!」

いつも守ってもらう存在がビビっていて面白がっている。

「準備は大事だ。しっかり備えて明日も夜間練習がんばろうぜ」

「おー!」

本当に、これでいいのだろうか?



***



兄妹が帰宅すると、両親が夜間練習の成果について聞いてきた。美咲は矢継ぎ早に先ほどあった「摩訶不思議な体験」を伝える。

「それって」

母、栄美子えみこは真っ青になった。妻の体を支えて父の幸一こういちは4人でリビングのソファーに落ち着いた。

「実は、私」

栄美子は言い淀んだ。

「ママ?」

娘を見つめる。意を決したように父を見てから、母は美咲の手を握る。


「私、あなた達に言わなくてはいけないことがあるの」


いわゆる秘密の暴露だ。公煌は全部が腑に落ちた。生まれつきある不可解な感覚にも説明がついてしまった。20年間悩んでいたことは、母が解決してくれた。


公煌の母の話は20年ほど前のこと。




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