第5話 夏の夜、大会本番
真夏の夜、川沿いの花火大会会場は、熱気に満ちていた。屋台の焼きそばの香ばしい匂いと、カキ氷の冷たい甘さが混じり合い、観客のざわめきが、まるで生き物のようにうねっている。
仁は、河川敷に設置された打ち上げ場所で、最後の準備を進めていた。
今日のこの日のために、一冬、そして春、初夏と、すべてをこの一発に込めてきた。
ふと、上空を見上げる。風が、普段よりも強い。花火師にとって、風は最大の敵だ。風が強すぎれば、玉が流され、危険な場所で開いてしまう。最悪の場合、大会は中止になる。
仁の胸に、嫌な予感がよぎった。
案の定、宮坂沙織が慌てた様子でやってきた。ショートカットの髪が風になびいている。
「榊原さん、風が強すぎます。観客もざわつき始めていますし、スポンサーからも中止を…」
宮坂の声に、仁は静かに首を振った。
「待つ」
「ですが…!」
「待つんだ。花火は、自然に逆らっちゃいけねぇ。風が和らぐのを、待つ」
仁は、泰然とした態度でそう言い放った。観客席からは、ざわめきが大きくなっていた。
「おい、中止か?」
「風が強すぎるって、さっきから言ってるだろ」
「せっかく来たのに、どうしてくれるんだ!」
罵声にも似た声が聞こえてくる。
スポンサーらしき男たちが、苛立った表情で仁の方を睨んでいた。仁は、それでも動じなかった。
父から教わった、花火師としての「間」と「余韻」が、今、仁の判断を支えていた。
「大丈夫です」
横にいた光が、仁に声をかけた。
「社長の花火は、絶対に夜空に咲きます。俺が、信じてますから」
その言葉に、仁は光を見た。光の顔には、何の迷いもなかった。その自信に満ちた眼差しに、仁の心に、静かな勇気が湧き上がった。
それから、五分、十分…風は、少しずつ、少しずつ和らいでいった。それはまるで、仁の頑なだった心が、少しずつ解き放たれていくようだった。
「…今だ!」
仁は、光に合図を出した。
光は、パソコンのキーボードに指を置く。そして、仁の合図と共に、ある一曲が流れ始めた。
それは、光の母親が好きだったという、懐かしいメロディだった。ゆったりとした、そして優しい音色。
そして、その音楽に合わせて、花火の筒から、一本の光の線が夜空に昇っていく。観客は、息をのんだ。
今までの花火とは違う、音楽と同期した演出に、皆、静まり返っていた。
ドォォォォン…
夜空に、大輪の花が咲いた。
それは、二重の牡丹。
内側から、淡いピンク色の光が、ゆっくりと広がっていく。そして、その花が消えかかる寸前、外側から、鮮やかな青と、深みのある赤が、幾重にも重なって開いた。
「…二重の昇り牡丹…」
誰かが、そう呟いた。
それは、父の「昇り牡丹」の玉に、光のアイデアが融合した、仁の新作だった。伝統と革新、二つの心が一つになって生まれた花火は、夜空に圧倒的な存在感で咲き誇った。
音楽のクライマックスに合わせて、花火は、さらに大きく、鮮やかに開いた。観客の胸に、高揚感が広がる。
「…すごい…!」
誰かが、そう叫んだ。それが合図だったかのように、観客席から、大歓声が沸き起こった。
その歓声は、仁の耳に、まるで天国からの調べのように聞こえた。仁は、打ち上げの成功を確認すると、静かに涙をこらえた。それは、喜びの涙であり、そして、感謝の涙だった。
観客席では、泰三が、静かに涙を流していた。
「あれが…榊原の花火だ…」
泰三は、そう呟くと、そっと目を閉じた。それは、息子が、自分の花火師としての道を、見つけ出したことへの、静かな祝福だった。
宮坂は、観客の大歓声を聞きながら、静かに、そして深く頷いていた。数字では測れない価値。この光景が、まさにそれを証明していた。
光は、打ち上げ成功後、仁と目を合わせて笑った。その顔には、花火師としての誇りと、仁への深い信頼が満ちていた。
そして、新作花火は、伝説となった。
それは、花火師の頑ななプライドと、新しい時代の感性が融合した、新しい花火の誕生を告げる、静かな夜明けだった。
花火は、すべてが終わり、静寂が戻ってきた。だが、観客の心には、いつまでも、あの花火の余韻が残っていた。それは、仁と光が、花火に込めた「魂」が、確かに観客の心に届いたことを示していた。