5-01:交差する過去
春も近いというのに、氷山地帯に接する第一学領ディアバーグは雪深かった。
氷竜は勿論寒さに強い生き物で、夜会巡りをしなければならない主を載せて、飛んでくれるが…………乗っている方は、たまったものではない。
防寒具まで凍りつき、学領主の館に着いてからは脱げないどころか、騎乗姿勢のまま動けなくなっていた。
「風邪引かないでね?」
「引きっこな、クックション!」
「もう、休んでいていいよ」
「馬鹿野郎、護衛が休めるか!」
当時、十七歳のオルヴェールと言えば、言葉選びは優しいものの、ひねくれた性格が隠しきれていない頃だ。ナンシスは三十五歳だった訳だが、おちょくられる事も暫しある。口では勝てなくなっていた。
思い返せば、オルヴェールの可愛らしさは三歳頃には逃げ出していったのだ。皇族とは末恐ろしいなと、思わされた出来事である。
そんな護衛対象のオルヴェールは、さっさと着替えて椅子に座り、氷に四苦八苦しているナンシスを観察していた。
「案外、解けないものだね」
「氷ですからね!」
ナンシスはキレかけながら、答えを返す。オルヴェールに怒りを向けても、氷が解ける事はない。分かっているが、自分の氷ならばどうにか出来てしまう主が、それなりに恨めしい訳だ。
「剣でも突き立ててあげようか?」
「なんでだよ!?」
クスクス笑われる。どうしてこんなクソガキみたいな性格に。お前のせいだろう、と同僚にも陛下にも言われ、ナンシスはそれなりに落ち込んだ。自分はそんなに酷い性格では無いと、思っているからだ。
「さて時間もないし、僕は行ってくるよ?」
「だぁぁっ、駄目だって!」
「解けてないだろう?」
「俺のせいじゃ」
「…………まぁ、ゆっくりしていてよ。きっとそういう巡りなんだ」
「いやまて、そういう問題じゃ、待て! 待てコラー!」
騎乗姿勢で固まったままのナンシスを、オルヴェールは部屋に放置した。まさか、ちょっと悪戯しただけなのに、こうも解けないとは思わなかった。陰で小さくほくそ笑む。
彼が一緒だと、何処へ行っても目立ってしまう。
こうした夜会巡りは、将来の伴侶探しが目的であって、人脈づくりではないのだ。目立つと夜遅くまで話し相手をさせられるので、心底辟易している。
「まさか気づかない、とはね?」
面白い姿で固まっているナンシスを思い出すだけで、今日の夜会は乗り越えられそうだ。バレたら叱られてやってもいいし、次は気付いてね、と言い返せば絶句するだろう。
夜会会場への廊下を一人歩いていると、視線が庭に縫い留められる。
雪降る庭に、赤い何かがあったのだ。
「…………!」
気付いた時には窓を開け、庭に飛び降りていた。それしか見えていなかった。赤髪の少女だ。
雪の中を、足を取られながら歩く、小柄な姿を追いかける。顔も声も、名前すら知らない相手。後ろ姿を見ただけで、オルヴェールの血は沸き立つようだった。
恐ろしいとも、何処かで思う。
軍属の身として、勘は大切にしているが、ここまで鮮やかな勘もないだろう。彼女が相手だと分かった。伴侶を見つけた瞬間だった。
「待って、待ちなさい、君!」
オルヴェールの声に、少女はビクリと身を震わせて、雪の中でつまづいた。慌ててに駆け寄り、抱き上げる。銀の瞳に、僅かな紫と水色の虹彩がを持つ丸い目が、泣きだしそうに見あげてきた。
「どうして、こんなところに」
夜会用のドレスは厚地だが、肌全てを覆う物ではない。しかも靴など、見た目重視の絹製だ。
「中に戻ろう?」
「いや」
少女はハッキリとそう言った。
夜会会場には、未成年の子ども達が遊べる部屋が幾つもある。そこへ行けない理由があるのなら、叱られでもしたのだろう。オルヴェールは溜息をついた。
「じゃあせめて、屋根の下だ。これ以上は妥協できないよ」
「だきょう?」
ポカンと聞き返されて、力が抜けそうになる。面白そうな子を見つけた、と言うよりも、困った事になった、という気分だ。少女の持つ加護は、あまりにも複雑である。これが何を意味するか、皇族が知らないはずもない。
つまり彼女は、何らかの理由をつけて、寒空の下に出された可能性すらあるのだ。
テラスの一角に結界を張り、内部の時間を春まで戻す。それから少女をベンチに降ろすと、オルヴェールは膝をついた。
「僕はオルヴェール。君は?」
「…………マリスタ」
何故かしょんぼりとした雰囲気で、彼女は名を告げてきた…………マリスタ・ディアバーグ。学領主の養女でありながら、他の学寮へと進学した変わり者。そして加護は「不明」である。
「隣、座ってもいい?」
小さく頷くので、遠慮なくベンチに座る。表情の乏しい少女は、そんなオルヴェールを一瞥すると、ベンチの隅にやや逃げた。近寄られる方が圧倒的に多いオルヴェールは、雷に打たれたような衝撃を受ける。
しかも、彼女が震えているのを見て、怖がられているのだと悟った。
「飴、食べる?」
ナンシスが街でやっていた事を思い出し、キャンディの包みを差し出してみる。銀の瞳が、やっとオルヴェールを見てくれた。
「あめ?」
「甘くて美味しいよ」
「…………」
そのまま少女は動かない。まるで不思議なものを見るような視線が、オルヴェールと飴を行き来する。確かにディアバーグ家の人々は、氷面などと揶揄されるくらい、表情に乏しい一族なのだが…………なんで養子にまで。
オルヴェールは、飴の包みを無理やりマリスタに握らせて、その手の冷たさにゾッとした。
「まだ寒い?」
「さむい?」
聞き返してくる少女が、怖くなる。加護が強すぎて、感覚まで失っているのかもしれない。それに、赤い髪で分かりにくいが、僅かに呪いの気配を感じた。
それに内心、憤る。ディアバーグ家は、この少女を隠していたのだ。養子として、加護不明として、そして髪色を変えてまで。
「ちょっと待ってて」
上着を脱いで、ポカンとオルヴェールを見上げるマリスタの肩に掛けてやる。それから急いで控室に戻った。暖炉の前では、騎乗姿勢のままイビキをかいているナンシスがいる。まさか寝るとは思わなかった。
「起きろ、ナンシス!」
「あぁ? なに抜かしてんだ、このクソ皇子!」
ギラリと灰色の瞳が睨んでくる。狸寝入りとは恐れ入った。
「妻を見つけた」
「はぁ?」
「色々マズいから、学領主を連れてこい」
「ちょっと待てよ、お前! まさか十歳にもならないお子様に? ウソだろう!?」
「歳は十一だよ、今まで隠してたみたいでね」
「は?」
「僕も、そういう気分なんだよ」
そもそもオルヴェールの一族が、皇族なんて面倒な仕事している理由と言えば、全国民から妻を選べる、という一点しかない。
先祖に少し竜の血…………と言えなくも無いものが混ざったせいで、婚姻相手に苦労する家系となってしまった。つまるところ、対の相手で無ければ子が生まれない。
恐らく、淘汰されるべき血筋なのだが、そうとう先祖は割り切れなかったのだろう。
一番高い身分について、妻探しに勤しんだのだ。事が事だけに、対象は成人以降の年齢としているものの、幼い皇子が赤子を連れ帰った事もある。年齢差は十五歳前後らしいので、まあ範囲は広いわけだ。
そんな事情なので、各領では数ヶ月おきに夜会を開き、未成年の少女達を同席させる。皇族は圧倒的に男が多いのだ。それを真似た庶民の宴も似たようなもので、帝国には由来を忘れた祭りが多く残っている。
貴族の夜会とは本来、皇族が妻を探すためのものなのだ。
八歳以上の女児には、可能な限り出席の義務ある。だというのに、マリスタはもう十一だ。
「僕は、外回廊のテラスに居るよ。縛り上げてでも、連れてきてくれるね?」
「分かった、分かったから、怒りで加護をばら撒くな!」
そう言われて、部屋が凍り付いている事に気が付いた。慌てて手を払い、部屋の中を片付ける。
「ナンシスが風邪を引いてしまうね…………」
「引いたら有給貰いますから。今回の悪戯は、俺も相当、怒ってますからね!」
「いいよ、休みくらい。僕も仕事が増えそうだから、政務室に缶詰だ。何処から手を付けてやろうか、ふふ」
このままオルヴェールと話していると、ナンシスはもう一度氷像にされかねない。怒れる主をどうにか宥め、菓子箱を持たせてから送り出す。
「ディアバーグ卿、命日が早まらなきゃいいけどな」
悪戯好きのオルヴェールだが、怒ることはあまりない。それがさっきは、沸点を振り切っていたのだ。
男子皇族は皆、一騎当千では足りないくらいの強力な加護を持っている。当然、制御もピカイチの実力なのだが…………無意識にそれが外れたらしい。
あれ程オルヴェールを怒らせるとは、とんだ命知らずも居たものだ。命日は今日かもしれないな、と思いながら、ナンシスはレンド・ディアバーグ学領主を探しに行った。
じゃなくても寒い夜会は、身も心も寒々としたものになりそうだ。
「有給じゃ、割に合わねぇな」
ナンシスのつぶやきは、白い雪へと消えていく。吹雪はまた、勢いを増したようだった。
ガバリと掛布をはぎ取られ、マリスタはぎょっと目を開けた。
「…………っ!」
ニッコリとほほ笑む、無口な女官との再会だ。昨晩はパン粥で盛り上がっていた部屋も、今は淡い朝日に包まれている。
「おはよう、ございます」
「…………」
頷きだけが返ってきた。彼女はマリスタから寝間着をはぎ取り、浴室へと連れていく。初回よりは大分優しく洗ってくれるようになったのだが、香草焼きを思わせる香りの油は、拒否も空しく塗りたくられた。
「ど、どうして…………!」
これのせいで、竜に美味しそうとだと思われている。しかもまた窮屈な服を着せられて、上から防寒具まで付けられた。
「もう出かけるの?」
コクコクと頷かれる。ここまで無口だと、逆に諦めて受け入れらそうな気分になった。そのまま護衛の騎士二人に付き添われ、屋上に連れていかれる。
「おはよう、マリスタ。早くからごめんね」
オルヴェールは既に、竜の上だった。下から抱き上げられ、オルヴェールに引き上げられて、あっという間に竜の上に乗せられてしまう。
「あ、あの、何処へ?」
「帝都に帰ろうと思ってね」
「…………」
どう頑張っても、逃げられそうにない。皇子妃なんて無理だと、どうしたら分かってくれるのか。
「まだ眠い? 実はね、昼前に寄りたい所があって、朝食は空の上で食べようと…………まだ眠いかい?」
するりと頬をなぞられて、マリスタ後ろを振り向いた。
「眠くないですっ」
「じゃあ、おはようだね?」
頬に唇を寄せられて、ゾクリとした震えが走る。顔に熱が集まった。この皇子様は、マリスタの外堀を埋める事に余念がない。人の視線も、竜の視線も強く感じる。たまらず両手で、顔を覆った。
「は、はやく、出立して…………っ」
消え入りそうな声で頼むと、意地悪な皇子様は耳元で囁いた。誰も見てないと。
「そんなはず」
「見ないように言ってあるから」
「えっ!?」
「ふふ、元気はあるみたいだね。ほら、もう前向いて」
「き、聞いて、ください」
元気かどうかを、反応で確かめないで欲しい。俯いたまま抗議すると、君の顔色は当てにならない、なんて苦情がきた。
「いじわる。オルヴェールさまの、いじわる」
「心外だな、今日は長く飛ぶから、確かめただけだよ」
「長く?」
「氷竜の巣に寄る」
「巣」
「見た事はない?」
「…………そ、その、一般人の立ち入は」
せめてもの抵抗として、言ってみる。竜の巣は軍事施設の中枢だ。それに、竜など心底どうでもいい。どうでもいいが、流石にそうとは言えそうにない。
「マリスタ、君はもう一般人になれないって、理解した方がいいよ」
「…………」
「ごめんね、君じゃなきゃ駄目なんだ」
「…………でも」
竜の婚姻。帝国民なら、誰もが知っているおとぎ話だ。単なる一目ぼれくらいに思っていたのに、それが自分に回ってくるなんて、考えもしなかった。
そもそも初めて会った時は、ひたすらお菓子ばかりを渡してくる、困った大人でしか無かったのに。一目ぼれだなんて、絶対に違うと思う。もしかして、誰かの代わりなのでは。
「三年待ったんだ、もう駄目だよ、マリスタ」
「…………」
「思っているより、きっと楽な暮らしだよ?」
オルヴェールはそう言って、氷竜達に浮上の合図を出した。あの時から、マリスタを好きだったとでも、言うのだろうか。今以上に可愛げの無かった、無表情なマリスタを。
実は、初めてオルヴェールに出会った夜会を、マリスタはよく覚えていない。
人の顔すら、見るのが怖くなっていた頃だ。掛けられた上着のぬくもりと、膝の上いっぱいになった、綺麗なお菓子の包み紙。話しかけてくる低い声が、穏やかな事。どうしたら良いのか困り果てていた時、養父がやって来て、マリスタは部屋へと返された。
「マリスタ!」
次に会った時は、名前を呼ばれて驚いた。黒髪の知らない男性だったからだ。季節は花月の三。夏に近いディアバーグでは、花盛りの頃に入ったばかり。夜はまだ雪のちらつく頃でもあった。
「…………?」
「何故外に?」
「休んでいいって、言われたの」
どうしてそんな事を聞くのだろうか。首を傾げて考えてみたものの、思い当たらなかった。
人のいない庭園で、大人に叩かれたりしたら大変である。見知らぬ男性はとても怖い。マリスタはすぐに背中を向けて、花園の奥へと走って逃げた。ところがすぐに捕まって、嫌だと言ったのに手を引かれ、室内に連れ戻されそうになる。
当時十一歳のマリスタは、テラスのベンチに嚙り付かんばかり勢いで掴まって、それを拒んだ覚えがあった。
すると男性は、お菓子をくれると言う。マリスタは、やっと彼が「お菓子の人」だと気が付いた。そんな記憶しか残っていない。
一方、当時十七歳のオルヴェールは、粉雪の舞う庭園に、脱兎の如く駆け出して行ったマリスタに、再びの衝撃を受けていた。
生まれてから傅かれ、どちらかと言えば恐れられてきた人生の中で、初めての無視とも言える反応に出会っていたのだ。しかも相手は自分の花嫁。多分呆然としたと思う。
「殿下のご身分に、気付いていないのやも」
護衛のデガルが、やや引きつった声で言ってくる。それにもう一度驚いて、オルヴェールはふと我に返った。
「…………これが、ただの人が受ける反応か」
「え」
「追うぞ」
「えぇ…………」
何とも嫌そうなデガルの声に視線を向けると、どうやって連れ戻されますか、と困り顔をしていた。確かに、身分を持って命令出来ないとなると、小雪の降る中、あの少女を説得するしかないだろう。
「担ぎ上げて来ましょうか?」
「いや、いい…………ただの男として接してみたい」
「怒らないで下さいよ、まだ子供ですから」
「僕の祝福操作の腕が、そんなに気になるのかな?」
「怒らないで下さいよ?」
「しつこい」
もちろん、オルヴェールの説得は失敗だった。ただ手が。その手があまりにも冷えていたから、離せなくなったのだ。そのまま無理やり、引いてしまったくらいで。
しかも彼女はオルヴェールを鬱陶しそうに見ていたし、室内は嫌だと涙を浮かべて嫌がった上、テラスの隅に居座ってしまった。
「外が好きかい?」
「…………」
「お菓子をあげようか?」
その包み紙を見て、やっとマリスタはオルヴェールを「お菓子の人」だと認識したようだ。
複雑な気分になったが、素直に差し出される小さな両手が、寒さで血色を失っていて痛々しい。けれど室内はどうしても嫌だと言うので、リボンの付いた小箱を乗せてやる。
「それは帝都のクッキーだよ」
「クッキー…………」
「可愛い絵が描いてあるよ、開けてごらん?」
言ってもマリスタは箱を見つめるだけで、何もしなかった。だからリボンを解いてやり、中身を一枚、口まで運んでやる。すると、感情の抜け落ちた銀の瞳がオルヴェールを見た。
「美味しいよ」
「…………」
それを一口食べて見せると、ありがとう、と小さな声がした。けれど、どうしたら良いのか分からないらしい。マリスタは俯いたまま、もうオルヴェールを見なかった。
だから長期戦を覚悟したのだ。
マリスタが短い夢から覚めると、そこはまだ空の上だった。風は冷たいけれど、背中が何故か温かい。温かい?
「大丈夫?」
オルヴェールが耳元で囁くので、悲鳴を上げそうになる。背中の温もりは、小さく笑ったようだった。
「気を失っていたんだよ。ごめんね、飛翔の衝撃が強かったみたいだ」
そういえば、衝撃で気絶する祝福がそのままになっている。痛い思いをしている時に、起きている必要など無いので、ある意味重宝したけれど。そろそろ、直した方が良いかもしれない。
今回の飛翔は、ほぼ真っすぐに空へ昇るという、大変恐ろしいものだった。祝福が無くても、気絶していた自信がある。
「だ、大丈夫、です」
「竜が張り切ってしまってね。酔わなかった?」
「…………寝てた、から」
懐かし夢を見ていた。彼のくれたお菓子の包み紙は、本当に綺麗だったのだ。今も本邸のある部屋で、大切に保管されているだろう。取られて壊されないよう、寮へは持ち込まなかったのだ。
「竜の巣までは、もう少しかかるけれど、何か口に入れるかい?」
「…………えっと、食べなくても、大丈夫」
「分かったよ。具合が悪かったら言っていいから」
「はい…………」
返事をしてから、眼下の景色をぼんやりと見る。
緑の森に雪はなく、家屋はまばらにしか見えない。顔を上げると、前方に高く尖った雪山が見えた。
「…………綺麗」
巨大な宝石のようだった。
水晶に金を混ぜたような、透明感のある山肌。複雑にカットされた面と角との連なりは、鋭角でいて正確だ。まるで、地面に巨大な宝石が埋まっているように見える。雪に隠された頂が、惜しいくらいだ。
「氷雪山プロテナだよ。竜域のレンダーク、カピシーエ王爵領と皇帝領の三つにまたがっている竜山で、国内に二ヶ所しかない氷竜の営巣地。この森も禁足地になっているけど、竜というよりは、人を守るための場所になるかな」
「人?」
「子竜は色々加減が出来ないし、氷竜は人が好きだからね」
「…………」
今日もあえなく、マリスタは油を塗りこまれている。出来たら竜には近づきたくない。好きなのはマリスタではなく、美味しそうな匂いの方なのだ。
「今は、子竜がたくさんいるから、きっと楽しいよ」
加減の出来ない子竜の、一体どこに楽しさがあるのだろうか。なんだか、大変な目に遭いそうな予感がする。
「子竜…………」
「たくさん産まれててね」
「たくさん」
「たくさんだよ」
長生きする生き物の為、氷竜はあまり生まれないと聞いた事がある。それに精霊に近い生態で、氷の卵を抱くらしい。それには少し興味があった。
「卵は、もうない?」
「卵もいっぱいあるって、聞いたけど」
「いっぱい?」
「氷竜も、急に子供が欲しくなったんだろう」
「そうなの?」
「これから夏になるからね、子育てには良い時期だ」
確かにそうかもしれない。雪深い故郷でも、夏は恋の季節である。
マリスタの恋はーーーー諦めたはずの初恋は、まだ胸の中に残ったままだ。忘れられなかった。三年も支えてくれた同胞を。その彼が、マリスタを求めてくれることを。
この気持ちをどうしていいのか、今は分かりたくない。分かったところで、無力で役立たずな自分を、嘆くだけになる。