4-02:夢さめるとき
ゆさゆさと体を動かされ、マリスタはぼんやり目を開けた。毛布やシーツに包まれて真っ暗な世界は、もう一度目を閉じても良いくらいには心地良い。
「マリスタ?」
ただ、聞こえた声が問題だった。冷や水を浴びたような気分になって、慌てて寝具から顔を出す。
「調子はどうかな?」
寝台の端に座っていたのは、どの角度から見ても完璧な微笑みを浮かべる、皇子様だった。
「…………オルヴェールさま」
けれど何時もと違って、シャツの上に無地のストールを掛けるだけの、随分と寛いだ姿をしている。マリスタは何故か恥ずかしくなって、毛布を口元まで引き上げた。
「起こしてごめんね。なにか食べた方が、良いと思って」
彼が立ち上がると、寝台が少しだけ揺れ動く。マリスタは、息をひそめながら、離れて行く背中を目で追った。
ストールに付けられている房飾りが、ランプの光を虹色に反射している。その美しさに、吐息がこぼれた。なんて綺麗なのだろう。
まだ夢の中なのだろうか。会ったら、困る事を言われると思っていたのに。そう確信していたのに、彼はずっと、背中を向けている。いくら見ていても振り向かない。
――――あのオルヴェールさまが、気付かない?
こんな事は初めてだった。見つめているのに視線は合わず、何も言われない。そこに居て、動いているのに。
少しだけ心に、余裕が出来る。
こっそり鑑賞してもバレないと、分かったからだ。
嬉しくない、筈がなかった。時々見える横顔ですら、こちらを見ない。笑いそうになる。一方的に眺められる事が、こんなに楽しいとは思わなかった。
すごい、なんて良いのだろ。そわそわとしてしまう。最近は気付くと目が合って、気不味い思いばかりだったのに。
そっと身を起こす。すると、食器のこすれるような音が聞こえた。マリスタは、オルヴェールの手元を見てぎょっとする。そのまま、寝具を蹴り飛ばす勢いでベッドを降りた。
「オルヴェールさま!?」
皇子様が食器を持って、配膳をしていたのだ。裸足のまま駆け寄と、彼は不思議そうな顔で手を止める。
「マリスタ?」
「な、なにをなさって!」
貴族は基本、カトラリーには触っても、食器には決して触らない。それに触れていいのは、家の主人から食器を任されている、特別な使用人だけなのだ。
簡潔に言うならば、身分のある者は食器に触れるべきではない。
「すぐ誰か、呼びますから!」
「ふふ、そんなに慌てなくていいよ。僕が、好きでやっているんだ」
「でも!」
オルヴェールは困ったように微笑んだ。その視線に晒されると、マリスタの威勢は削られていく。
「い、いけません、そんな…………」
「気にする事ないよ。これくらい僕でも大丈夫。それよりマリスタ、ちゃんと靴を履いておいで?」
「でも」
「お願いだよ、マリスタ」
「…………」
黙って抵抗したものの、降り注ぐような笑顔と視線に耐えられない。俯いて見える素足から、羞恥が駆け上がって来るようだ。
「!」
慌てて背中を向け、寝台に引き返すと天蓋を引いて寝乱れた場所を隠しておく。それから履物なのかと疑うような見た目の、もこもことした毛皮の室内履きに足を押し込んだ。
「…………」
視線を感じて振り向くと、オルヴェールが目を細めてこちらを見ている。火で炙られている魚は、こんな気分なのかもしれない。
「モコモコだね」
「…………は、はい」
室内履きを見ていたようだ。雪うさぎを踏んづけたら、こんな見た目になるだろう。小さな頃に、履いていたような記憶が少しだけある。そんなに幼い年齢に見えたのだろうか。
「マリスタ」
顔を上げると、配膳台の前でオルヴェールが手招いている。マリスタは不安になった。手伝えと言われても、多分出来ない。陶器の皿は重いと聞くが、どれくらいの重さだろうか。
こわごわ近寄ると、彼はストールを外して、ふわりとマリスタを包み込む。
「寝起きは冷えるよ」
「あ、ありがとう、ございます」
しどろもどろになった。ストールは暖かい。それが彼の体温なのだと気付いたら、顔から火が出そうになった。
「…………」
俯いて震えるマリスタを、オルヴェールは唇を押さえて見おろしている。なんて初心で、可愛らしいのだろう。
照れるかな、とは思った。
しかし、女性は冷やさない方が良いと聞く。夜着一枚で目の前に居られるのも、落ち着かない。引けと言われても、ここは譲れないところだ。
「マリスタ、冷める前に食べよう?」
オルヴェールは、なにも気付かないフリをして、細い背中を押した。卒倒される前に椅子に座らせ、パン粥をよそう。
「病人ではないと、言ったのだけど」
一応距離を空けて、前の席についてみる。マリスタはまだ赤い顔で下を向いていた。一度照れると、尾を引くようだ。そんなところも可愛いのだが、言ったらどうなるかは知っている。
「これが噂のパン粥だよ。食べたことある?」
「…………な、ない、です」
「僕も初めてなんだ」
赤子の頃ならいざ知らず、祝福が身体に定着しだすと、病の影は寄り付かない。その加護が強ければ強いほど、一生病気とは無縁になる。だから病人食とされるパン粥は、二人にとっても馴染みの無いものだった。
「ナンシスがね、昔はひどく病弱だったらしいんだ。二度と食べたくないって、言っていたけど」
「え?」
「信じられないよね」
すくすくとオルヴェールは笑ってから、パン粥を食べ始めた。マリスタもスプーンを持つ。少しだけ好奇心が勝っていた。
街生活においてのパンは、保存性優位の硬いものが多かった。それをスープに漬けて食べる事が常であり、パン粥なのかと聞いたら、何故パンを粥にするのかと聴き返されてしまったのだ。
だからパン粥は、謎の食べ物である。
白くてどろりとした見た目。他の装飾も何もない簡潔さだ。華やかさを求める貴族の食べ物とは、何かが違う。煮溶かすなら、わざわざパンで無くてもいいように思えた。
「ふふふ、びっくりするような味はしないよ」
パン粥とめっこしていたら、笑われてしまった。慌てて少しだけ口に運ぶ。食感のかろうじてある、熱いミルクのような、はっきりとしない味だ。
「…………?」
「掴み所がない食べ物だね」
不味くはないが、決定的に何かが足りない。どうして病人に食べせるのだろう?
「何か悩んでる?」
「えっ、ええと、どうして病人食、なのかなって」
「マリスタは、医者にかかった事はあるかい?」
「ええと、ないです」
納得したように、オルヴェールは微笑んだ。加護によって病と無縁になると、医者ともやはり無縁になる。医者は、治癒系統の加護を持ち、知識と経験によって奇跡を体現する人だ。
「お腹の負担が、減るらしい」
「お腹…………?」
「マリスタは、人の構造について知らない?」
「構造?」
首を傾げる。目に見える範囲以上に、興味を持った事はない。何しろ自分だけなら、医者いらずの加護がある。
「うーん、マリスタは、知識が偏っているのかな?」
「そうなの、ですか?」
言われてみると、そんな気もする。祝福装飾師になる事以外、殆ど知識を得なかった。空き時間の多くは絵を描くことに費やして、暇さえあれば、他人の祝福観察だ。
そういえば、偏りがあると、古書店の老婆にも言われた事があった。調べておいで、と口癖のように叱られたものだ。
「勉強は嫌いかな?」
「嫌いでは…………」
「学友が居なければ、してみてもいい?」
「え?」
マリスタは、いつの間にか俯いていた顔を上げる。勉強は好きでも嫌いでもない。ただ、学校に良い思い出がないのだ。
「成人すれば、一般試験を受ける事になるけれど、色々な資格が得られるからね。マリスタは優秀だよ。つまらない事で、諦めないで欲しいのだけど、どうかな?」
一般試験の中には、祝福装飾師もある。モグリではなく堂々と、祝福絵画を描けるようになるのだ。ただ皇族になってしまったら、好きに絵を描く時間は無いかもしれない。
「いいの?」
「もちろんだよ…………マリスタには、面倒な仕事をさせるつもりは無いからね」
「…………」
それはつまり、皇子妃になった後の話だろうか。そもそも、皇室に嫁げるような教養もない。必要な事を学んでしまったら、余計に逃げられなくなってしまう。
「マリスタ、不安に思う事は、僕に話して良いんだよ?」
「…………で、でも」
解決されてしまったら、どうなってしまうのか。勇気も覚悟も無いのに、どうやって隣に立てと言うのだろう。
もしかしたら帝国史史上、もっとも役に立たなかった皇子妃、と書かれてしまうかもしれない。
「どうして、そんなに悩むかな? うーん。そうだ、今の僕の不安はね、君が窶れたと、ディアバーグのみんなに怒られる事だ」
「お、おこる?」
「怒るよね、確実に」
「養父様や叔父様が?」
「もっとたくさん怒ると思うよ? マリスタがまあまあ薄情でも、彼等は君を愛しているんだ…………少し落ち着いたら、一緒に行こう」
「…………でも」
帰りにくい。最後の手紙には、死んだ事にして欲しいと、書いたのだから。
「マリスタは確かに、悩み易いのかもね」
見るとオルヴェールは、困ったように首を傾げていた。悩みやすいのだろうか。相談したら、相談した事を悩むかもしれない。
「そうだ、そんなマリスタに、悩みの種を増やしてあげよう」
「えっ?」
「このパン粥はね、十種類も追加で味が増やせるんだよ」
「追加? 味?」
「見せてあげる」
オルヴェールは席を立つと、配膳台の下段から小鉢の乗ったトレーを出してきた。いくつかはジャムのようだ。
「さぁマリスタ、悩んでいいよ?」
「なっ、悩みませんから。わたしは、ジャムにします」
「安全なところに逃げたな」
そう言う彼も、オレンジ色のジャムを手に持った。目が合うと同時に、吹き出してしまう。
「オルヴェールさまも、ジャムなのに!」
「あとのは何だか、分からないよね」
「聞かなかったの?」
「のんびり聞いていたら、誰かに見つかるじゃないか」
「えっ?」
「見つかったら、僕が配膳台を押して移動なんて、許して貰えるはずがないよね?」
「…………まさか、オルヴェールさま」
マリスタは唖然とした。調理室から、配膳台ごと「くすねる」皇子が、どこに居るのだろう。
「皆さん、困っているのでは」
「それを何とかするのが、護衛の仕事だろう?」
「…………」
絶対に違う。そう思うが、言ってはいけない気もした。彼は皇子様をしている時と、こういう時との差が、激しすぎるのだ。
こんな事を思うのは、多分不敬だと言われるかもしれない。
でも時々、好きで皇子様をしているのでは無いのだろう、と感じてしまう。そういう風に生まれついてしまったのだ――――わたし、みたいに。
マリスタはどう笑えば良いのか、分からなくなった。
「おかわりする?」
「い、いえ…………」
「まさか窶れて、僕を困らせる作戦、だったりしないよね?」
「しません!」
「怪しいな」
そんな事を言われても、パン粥は微妙な上に、残りの追加は何味かすら分からない物体だ。苦そうな深緑色のソースや、紫色のドロドロしたもの。生肉みたいな見た目の物体に、不揃いな赤黒いなにか。
「も、もう食べません」
「もう少し、挑戦しない?」
「あの、オルヴェールさま? 本当にこれ、食べて良いものに見えてます?」
「見えないけどね」
その言葉に衝撃を受ける。どうして怪しい物を、食べようとしてしまうのだろう。彼に万が一のことがあったら、人の首が軽く飛ぶ。
マリスタは一つ覚悟を決めて、席を立つ。そのまま急いで部屋の扉を押し開けた。廊下には予想通り、レンダーク卿ナンシスが警護の為に立っている。
「あの…………!」
マリスタが声を掛けると、彼は一瞬驚いたあと、すぐに破顔した。その笑顔は、困ると助けてくれそうな、世話好き男性の雰囲気がある。街で良くしてくれた、果物屋のお兄さんみたいだ。
「如何されましたか?」
「あ、あの、パン粥について…………その」
「マズイでしょう?」
ナンシスは室内に視線を向けた。困った様子のオルヴェールを見て、肩をすくめて見せる。
「ナンシス、入っていいよ」
「はい」
オルヴェールに言われて、苦笑しながら部屋に入った。ソースの説明を素直に聞くあたり、主と意中の姫君は似ているのだろう。残念な事に、ズレている所まで似ているので、先が長そうだ。
「ウサギ狩りはお得意でしょうに」
出来心で囁くと、温度のない薄紫の瞳に睨まれた。爪も牙も隠して、狩りが成功するとは思えないが、どうするつもりか。
「ナンシス、君も一緒にどうだい?」
「警護中ですので」
「思い出の味だろう?」
爽やかな笑顔なのに、目がちっとも笑っていない。心臓を一瞬で凍結させそうな顔なのに、自覚済みらしく、意中のお姫様には悟らせもしないのだ。
器用なものだと感心するものの、コチラだって爪も牙も見たくない。それで仕方なく口調を崩す。
「ガキの頃、死ぬほど食ったから勘弁して下さいよ。大体、毒キノコを発酵させて滋養に良い物が出来るとか、信じられます?」
「ふうん? 食べてそうだっただけだろう?」
「食べようとしたヤツの、頭の中身を疑って下さいよ!」
オルヴェールの視線が、紫のペーストに向けられた。紫は皇族の色だが、食品にまでは禁色制限はされていない。
それなりに高価だという、元毒キノコである。味もまぁ見た目よりは何とかなっていると、ナンシスも思うワケだが…………彼らの口に合うかと言えば、ナシだ。
「試さないで下さいよ?」
「何故?」
「今の話で、どうして興味を持つんです?」
「興味しか無かったと思うけど。ね、マリスタ?」
「えっ」
話を振られたマリスタは、紫のドロドロを見つめた。毒キノコを発酵させると、毒はなくなるのだろうか。それとも初めから、毒キノコでは無かったのだろうか?
「あの…………毒は、どこにいったのでしょう?」
「何処とは?」
「このキノコは、毒キノコなのでしょう?」
ズレている。オルヴェールとナンシスは視線を交わしたが、会話は機嫌の良くなったオルヴェールが引き継いだ。やはり相性はいいようだ。
そもそも皇族の婚姻制度には、前々から疑問があった。一目ぼれの相手を妻にするなど、博打うちもいいところではないか。
竜の婚姻と、物語のように言われるものの、過去には冷え込んだ夫婦も存在する。
自分の主には、幸せになってもらいたい。
それなのに、一目ぼれに頼るなど、正気の沙汰とは思えなかった。
三年前のあの日、彼が運命の出会いをした夜、警護を担当していたのはナンシスだったのだ。