4-01:夢さめるとき
おそるおそる瞼を開くと、部屋には誰も居なかった。マリスタは、ホッとシーツに沈みこむ。
重厚感のある天蓋、その向こうには、夕日に染まる部屋の設えが見える。ここは、学領主家の客室だろう。古い物を長く使い込んでいるところが、ディアバーグの本邸と似た雰囲気だ。
のっそり起き上がってみると、着替えさせられている。白い寝間着は、少しだけぶかぶかだ。
「…………」
まさかあのまま寝たのかと、マリスタは自分の神経を疑った。皇子様の、それも膝の上で、あんな事をされながら。
「わ、わすれたい…………!」
顔を覆った。オルヴェールさまの事だから、恥も外聞もなく抱き上げて、部屋から運び出したに違いない。寝かせて欲しいと頼まれた使用人は、首を横に振れなかっただろう。
それで侍女か女官には、寝汚いと思われたに違いない。館の侍従には、迷惑をかけているはず。護衛の騎士様には…………そこは少し分からないけれど、確実に今日の予定を狂わせた。
「もうむり」
恥ずかしいやら申し訳ないやらで、どうしたらいいのか分からない。いや、さっさと呼び鈴を鳴らして、着替えるべきなのだ。でもそんな事をしたら、会わなくてはならない。
出自に問題の無くなってしまったマリスタは、拒む理由を全て失くしてしまった。
どうして友達では駄目なのだろう。
一緒にいるなら、それで充分なはずだ。皇室に嫁ぐなんて、考えた事もない。ただ漠然と、学領主よりは大変な事をしているのかなと、想像はできる。
「むりなのに」
そう言っても、取り合って貰えないだろう。あの様子では、いつ決定的な事を言われてしまうか分からない。言い負かされる結末にしか自信が持てないなんて、残念すぎる。
マリスタなんかの、何がそんなに気に入ったのか…………高等院を中退するよう出来損ないで、学領主の夜会ですら、逃げ隠れしていたのに。
そもそも帝都にすら行った事も無いし、皇宮の夜会にだって出た事はない。貴族養女とはいえ、限りなく一般人に近いはず。
「…………」
考えれば考える程、問題ばかりを思いつく。
その中でも一番の問題は、彼に触ってみたいとか、口づけてみたいなどと、思わないことだ。
あの方に触るなんてとんでもないし、顔を近づけられただけで、身体中の血が沸騰しそうになる。
「なんで…………」
どうして、オルヴェールさまは平気なのだろう。恥ずかしく無いのだろうか。大体、唇を寄せる必要なんて。
きっと、好きの種類が違うのだ。
そう思おう。マリスタは、恋人になるもの怖いのだ。街で知ってしまった、男女の触れ合いが濃厚過ぎたせいで。
市井に出るまで、唇と唇を合わせる行為、キスすらまともに知らなかったマリスタである。
初めて見てしまった時には、思わず凝視していた。呆然としていたのだと思う。何が起きているのか、認識できなかったのだ。
「あれが、キスだよ」
古書店の老婆は、呆れた顔でマリスタに教えてくれた。若い奴らなんて、そこらじゅうでチュッチュしてんだろうさ、と。
「さっさと見慣れちまうことさね」
「えっ!?」
「なんだい、大きな声出して」
「だ、だって、結婚式でするものでは」
当初の認識はその程度だった。なにやら特別なことらしいと。もちろん、絵画以外で見たことはない。
「はあ?」
「だから、けっこ」
「二度も言うんじゃないよ。勘弁しておくれ。貴族はみんなそうなのかい? それともアンタが変なのかい?」
どういう事だろう。返答次第で、顔も知らない貴族全員に、妙な疑いが掛けられてしまいそうだ。マリスタは悩んだ。でも答えが分からない。唇を合わせる行為が、愛の象徴である事は確かだ。
もしや庶民は貧しくて、路地裏でひっそりと結婚の儀式をするのだろうか。
「待て待て、もういい。また変な事を考えてるね? ああいうのは、好きな相手が出来たら、したくなるもんだ」
「結婚?」
「キスの方だよ!」
「わたし、おばさんのこと」
「なんでアンタと、しなきゃならないんだい!」
店主の老婆はそれなりに高齢なので、あまり興奮するのは良くない。足元の祝福が正常なのを確認し、マリスタは首を傾げた。
怒鳴られる事は、拾われて三日もせずに慣れている。彼女は興奮しやすいが、慈愛の祝福を持つ稀有な人物だ。口は怖くても、それが優しさなのである。
「好きでも、キスはダメなの?」
ただ優しい彼女に、キスを拒まれた事は納得出来ない。好きな相手と言ったのに。言ったのにダメだなんて。マリスタはこの老婆が、祖母のように好きなのだ。
「あぁもう! どんだけ箱入りなんだい!? いっぺん、夜の酒場を覗いておいで。そんなんじゃあ、あっという間に変な男に食われるよ!」
そんなことを言われ、マリスタは昼の酒場に置いて行かれてしまった。
女将にその話をしても爆笑されて、少しむくれてしまった程だ。好きな相手とするものなのに、おばさんは嫌だという。やっぱり嫌われているのだと、悲しくなってきた。
奥に隠れて覗くだけならいいよ、と軽い調子で女将に言われたが、キスの認識は、昼の時点で塗り替えられる。妖艶な女将が頬に口づけただけで、マリスタは鼻血を出して倒れたのだ。
その後二日寝込んだ。
散々笑い話にされ、女将にはそうした悪戯をされるようにもなったのだが、意外とすぐに慣れてしまった。くすぐったくて幸せで、母とはこうなのだろうかと考える。
「わたし、女将さんも好き」
思ったことを言うと、困った様子で微笑まれた。どうして、しかたのない子、みたいな雰囲気なのだろう。その時のマリスタには、分からなかった。
「夜の酒場を見てみるかい?」
認められたようで嬉しくて、女将の態度は気にならなかった。だから夜の酒場で想像を絶する光景を見たマリスタは、例の如く二日寝込んだ。
普段の顔が呆れ顔になってしまった店主の老婆は、何を見たらそうなるんだい、と溜息までついてくる。
「あの」
だから、勇気を持って聞いてみた。どうして男の方は、女性の胸に触りたがるのかと。赤ん坊しか用のない場所だと言うと、出てくる溜息が更に重い。
「…………酒場女は娼婦だよ。身体で金を稼いでるんだ」
「わ、わたしにも、出来る?」
「胸の谷間に、コインが挟まるようになってからお言い! 大体、鼻血出してぶっ倒れたヤツが、何で娼婦を目指すんだい!」
言ってみただけなのに、怒られた。夜の酒場は、昼間よりも賑わっている。あの中に紛れたら、嫌われ者のマリスタにも笑顔が向けられるかもしれない。
「あそこの皆さんは、すごく周りの皆さんに、好かれているよう、だったから」
「好かれてるのは、カラダだよ! いい女ってもんはね、心が美しい者を言うんだ。アタシみたいにね!」
心とは一体、どうやって評価するのだろう。祝福の美しさよりも分からない。見えない美しさは、何が示してくれるのか。
「大体マリスタ。アンタ、娼婦って職がどんなものか知ってんだろうね?」
「はい、乳母のようなものだと!」
自信をもって答える。庶民の仕事は、思った以上に忙しいのだ。子育てに乳母は必要だろう。あれだけ胸が張っているのだ。お乳もよく出るに決まっている。
孤児ではあるが、マリスタは本邸育ちのお嬢様である。乳母の受け売りしか、胸に関する情報はない。
「あぁ、頭が痛くなってきた。娼婦は乳母より過酷な仕事だよ。アンタにゃ無理だ、やめときな。それにその細っこい身体じゃあ、全裸になってもマトモな客が付くかどうだか」
「ぜ、全裸?」
「娼婦は貞操を売る職業さ。大体、祝福装飾師の才があるのを娼婦にしたら、国家反逆罪も逆立ちするね! もうこの話は終いだよ! 慰み者って言葉から、勉強し直しておいで!」
本当に、何も知らなかったのだ。
どう考えても、オルヴェールさまと、あんなのは無理だ。頭を振って浮かんだ記憶を追い出しても、それは駆け足で戻って来た。
彼の祝福は清廉で、無体な事はしないはず。
マリスタは熱くなってしまった、頬を押える。思い出しただけで、こうなのだ。万が一、そうした行為を求められたりしたら、コインなど、はさまりそうもないのに…………触られたくない。そもそも見られたくもない。
「どうしたら」
完全に煮詰まってしまったマリスタは、寝台の上に倒れ込む。そうすると何故か、抱きしめられた腕の強さや、瞼にかかった吐息の熱を思い出し、悲鳴を上げそうになった。
女将は平気だったのに、オルヴェールさまはちっとも平気になれない。母親のようにも、ましてや父親のようにも感じない。ひたすら恥ずかしいだけた。
「…………っ!」
だからどうして、思い出すのか。こんな自分を知られたくない。見ないで欲しい。急いで寝具に潜り込む。マリスタを守る城は、もう此処にしかない。
恋人が怖い存在になるなんて、知らなければよかった。あの人が豹変してしまったら、マリスタはもう生きていけない。
「オルヴェールさま、どうして…………」
素敵な人はいくらでもいる。だから、他の人を選んで欲しい。幸せになって欲しいのだ。マリスタの周りには、不幸があまりにも多過ぎる。
オルヴェールは、マリスタが起きた、という報告を聞いて少し悩んでいた。
本音を言えば、今すぐ会いたい。しかし書類仕事は、全く手に付かないままなのだ。つまり自分は、思っているほど冷静ではないのだろう。
「ナンシスを呼んでくれるかな」
「承知しました」
部屋から侍従を追い出すと、深い溜息がでる。今は、距離を詰めるべきではない。覚悟も何もないマリスタから、出自という逃げ道を奪ってしまった、今は。
それで割り切れる性格ではない事くらい、知っていたのに。
「マリスタの近くにいると、狂うな」
加護の影響か、惚れた弱みなのか、まるで予定通りに進まない。女性との駆け引きは、城攻めみたいなものだと言っていたのはナンシスである。こうなると、人生の先輩に頼るしかない。
その待ち人は、すぐに部屋へとやって来た。
「呼び出して悪いね」
椅子を勧めてからそう言うと、オルヴェールの護衛騎士にして剣の師匠でもあるナンシス・レンダークは苦笑した。
「外堀を埋める作戦は、お止めになったので?」
「…………普通に話していいよ。外堀は全部埋めたけど、見ていられなかったから、攻めすぎた」
「オルヴェール様を思って悩まれる姿は、可愛かったでしょうに」
「普通につらい!」
白状すると、ナンシスは堪え損ねて吹き出した。
「そっ、そこは耐えろって!」
オルヴェールとしては、食が細くなるほど悩む恋人を、可愛いなどと言ってしまう、ナンシスの正気を疑ったほどだ。その案でいけると思った、過去の自分も同罪である。
彼は一回り以上も歳上で、その手の指南役として不足はなく、いや、玄人の域なのではと不安になるような男でもあった。
精悍で爽やかな雰囲気と、整い過ぎず親しみやすい容姿をもって、人の、特に女性の心に入り込む事を趣味としている変態だ。
ただ、複数人との関係を持ちながらも、何時か刺されると、誰にも思わせない調整力は素晴らしいとも思った。
そこを褒めたら、何故か、その手の師にもなってしまった訳だが…………
「やれやれ、籠城戦ですか? オルヴェール様は、今の状況をどのように?」
わざわざ聞いてくるのは、こちらの予想が間違っている時の反応だ。色々と腹立たしくはあっても、これ以上失敗を重ねたくないオルヴェールは、冷静になれる。
「泣いているかな」
ナンシスは腕を組んでから、小さく唸った。
「うーん、俺は、考え過ぎてぶっ倒れてる気がしますけど。内向的で悩みやすそうですし、誰かに相談するという選択肢を、はなから持っていないように見えますね」
彼に言われると、その通りだと思えてしまう。そもそもマリスタは、あまり泣かない子だ。それがあんなに。
先程の事を、まだ引きずっているらしい。オルヴェールは自覚してから、溜息を吐いた。
「…………どうしたらいい?」
「引けば良いかと」
あっさり言われるから、出てくる溜息が更に重くなった。彼が簡単そうに言う事は、恋愛面において全く当てにならない。身を持って理解している。
「ナンシス頼むから、僕にやれそうな事を言ってくれ」
「何を弱気な。相手が弱っている今こそ、付け入る機会ではありませんか。いっその事、ドロドロに溶かしてしまっては如何です? なんでもしてくれそうですよ?」
「…………僕はね、君が恐ろしいって時々思う」
「貴方が怖がって、どうするんです?」
呆れたように言われたが、相手はマリスタだ。大切にしたいという思いが、冷静さを奪っていく。大体、想い人に対して付け入るとは何事か。オルヴェールは額を押さえた。
「仕方ありませんね、俺が覗いて来ましょうか?」
「それが嫌だから相談してる」
「頼まれたら、どうしようかと思いましたよ」
ナンシスを睨むと、肩を竦めて苦笑された。面白がっていながらも、悔しいくらいに落ち着いた目をしている。こういう男に世の女性は弱いのかと、どうしても納得出来ない。
「そうですねぇ…………ともかく今は、引く事ですよ。知り合いくらいの距離感を保って下さい。押しては駄目ですからね。意地になって立て籠もりますよ。あとは、お茶でも白湯でも良いので、温かい物を食べさせましょう。距離を取った分、別の方法で身体を温めて、口を軽くするんです」
慈愛に満ちた表情で、どうしてこんな事が言えるのか。ナンシスの恋愛感は、頭を冷やすには最適だ。
「ありがとう、ナンシス。マリスタは温めることにするよ」
口説き魔で人たらし。マリスタが彼に懐くのは時間の問題だ。オルヴェールとしては、あまり近づけたくなかった。でも彼なら、マリスタがそこまで恐れもしないだろう、とも思う。
複雑なオルヴェールの心境は、ナンシスに面白がられているのだ。
三年も見守ってきた女の子。
養父が守れないと言うのなら、もう黙ってなどいられない。少し早いが、手元に置くと決めてしまった。オルヴェールは、彼女でなければ駄目なのだ。