1-03:テラス逃避会の二人
そんな皇子様との食事には、見慣れた品々が運ばれてきた。
肉詰めのパンや、丸ごと蒸かした芋、オイル漬けの野菜となると、もう庶民の食べ物だ。皇族である彼が口にするには、やや原型を留めすぎている。
たぶん、砦のメニューなのだろう。間接的にそれを食べさせる原因となったマリスタは、やや血の気が引いてきた。
「あの、殿下は…………どうして、わたしなんかを、その、探しに?」
「心配だからに決まってるだろう?」
眉をひそめられてしまった。明らかに機嫌が下ったように見えたので、マリスタはすぐに口を閉じる。
「薄情だな。テラス逃避会の同胞なのに」
夜会に行くと、何時の頃からかテラスで話す仲だった。しかし改めて考えてみると、普通に社交がこなせる彼は、なんか違うと文句は言いたい。
「まぁ僕の身は、あまり自由が効かないからね。父にゴネて、半月ほど休暇をもぎ取ってきたんだよ。皇子はお休み中なんだ。一般人だと思っていいよ?」
「そ、そんなことして、平気なの?」
とんでもないことを言い出したので、つい敬語を忘れる。休暇中とはいえ、皇子は血筋。休むなんて無理だと思う。
「平気なのかって言うなら、マリスタ。君はもっとよく、自分の事を考えた方がいいよ。何をしていたか、本当に分かっているのかな? 警邏に捕まっていたら、尋問される内容だからね。変なところで頑固だから、骨の何本かは折られたかもしれない。それに皇族として迎えに行けば…………僕に首をはねられても、文句は言えない内容だから」
「えっ!?」
捕まったら危ない事は、なんとなく理解していた。それくらいには、良くない事だと。でも、みんなは喜んでくれたのだ。マリスタなんかに、涙ぐんで感謝までしてくれた。称賛が毒のように甘かった。
「本当に分かって、いるのかな? それほどの腕の祝福装飾師が、無資格、無届、しかも闇営業? 控えめに言っても、国家反逆罪だよ? どうしてやろうかと思ったし、揉み消すのもにも苦労したんだからね?」
彼が言うのだから、本当だろう。法はなくとも、この国には不文律がかなりある。というか、揉み消したって、一体。とんでもない事をさせてしまった。
「…………ご、ごめんなさい!」
頭を下げると、溜息が降ってきた。
「まぁ、あちらがね。ちょっとおかしな事になっていたら、良い感じに利用したけど…………ねぇマリスタ。高等院での扱いを、なぜ誰にも相談しなかった? 信じてくれないとでも、思っていたの? 僕はね、それが一番堪えたよ」
「…………オルヴェールさま」
言い返せることは何もない。確かに、誰にも話さなかった…………いや、初めの頃は、教師に相談したと思う。それが間違いだと知ってから、信頼している人には言えなくなったのだ。裏切りが怖かった。表側だけでいいから、優しくして欲しかった。
「前レンド・ディアバーグ公は、心労から位を子息に譲り、君の籍は今、現レンド・ディアバーグ公の養女となっているんだよ。これはね、マリスタが受けた仕打ちを領主家全体で嘆き、もし君の身に万が一でもあれば、領として許さないという、強い意志の表れでもある。下手をしたら領間戦争だ」
「ま、まさか、そんな」
「本当に、大切にされていたんだよ、マリスタ。前も今もね。だから、分からなくても良いから、どうかそれだけは覚えていて」
彼は冗談なら言うけれど、嘘はつかない。そういう清廉な祝福を持っている。だからひとまずに頷た。
「難しいって顔だ」
それすら見抜かれて、マリスタは慌てて酢漬けを口に詰め込んだ。
誤魔化そうとしたのだが、あまりの酸っぱさに身悶えて涙目になる。酸っぱいし不味いし苦しいし。言えなかった胸の内が、口の中にまで広がったみたいだ。それでつい、弱気になった。
「…………わ、分からないです。そんなの。養父さまは、みんなに優しいしの。迷惑かけて、嫌われたくないです。ずっと友達がいなくて、みんなに笑われてるなんて、言えない…………だって、孤児って、要らない子でしょう? こんな変な見た目でも、みんなと同じに、良くしてくれて…………殿下にだって、何時でも会えるわけじゃなくて。会えた時は、嫌な事は忘れて、楽しいお話を聞きたい。だから…………」
数少ない、マリスタに心を向けてくれる人々がいる。とても失う事は出来なかった。
「話したら嫌われるって、思った?」
そうかもしれない。けれど本当は違う。もっと早くに知っていれば、こんなに傷つきは、しなかった。
「あの時、殿下になっちゃって…………」
「まぁ正直、三年も気が付かないとは、思わなかったね。マリスタは皇族に、興味無さすぎだよ」
「ご、ごめんなさい」
一生会う事のない人々だ。神様よりも身近ではないかもしれない。流石に本人には言えないが。
「まあ確かに、紙幣も硬貨も、昔の皇帝や英雄だからね…………ほら、泣かないの。自分で言って傷付く事を、どうして言ってしまうんだい?」
これは酢漬けのせいなのに。そう言えなくて、何度も目をこする。
「君が自分に対しても興味が無いところ、それも直さなければいけないよ」
彼は優しいから、涙をぬぐってくれるのだ。抱きしめて、背中を撫でてくれる。ひどい。こんな事をするから、好きになってしまうのに。それももちろん言えなくて。ずるい自分を、また少し嫌いになっていく。
「怖いかい?」
「…………わからな、ない、です」
世間は何時だって、怖いことだらけだ。それが無くなれば、友の一人でも出来るのだろうか。
結局その日は、マリスタが随分泣いてしまったので、砦の案内や、周りの森を見て終わりになった。
場所が場所だけに、兵士や騎士しか砦の中には居ないのだ。マリスタは、大人の男性に囲まれてしまうと、どうしたら良いのか分からなくなる。結局、距離を置きたかった皇子様の後ろに隠れるしかなかった。
無理やりここに連れてきた、あの騎士も紹介された。エリゼ・バダンディールという名前で、この砦の長らしい。階級は准陸尉と聞いたけれど、どれだけ偉いのだろう。
階級で分かる事といえば、殿下が一番で、その護衛騎士たちが二番手、バダンディール准陸尉が三番目に偉い、というくらいだ。一人で砦を歩き回る勇気は、もちろんない。同年代の人も皆無だ。
ただなんとなく、敵意はないのだと安心はして、脱走を考えなくて済んだ事には、ホッとした。
問題があるとすれば、部屋付き女官があまりにも無口という事だ。
丁寧だが容赦もない。服などあっという間にはぎ取られるし、逃げようとしても問答無用で風呂に押し込み洗われる。変な油を塗られて、香草焼きの鳥肉みたいに、揉み込んでくるのだ。いつか焼いて、食べる気なのか…………怖くて嫌だと主張しても、ぜんぜん聞いてくれないし、一人で脱げない立派な服を着せられるから、庶民の服に慣れてしまった体には窮屈だった。
たぶん皇宮女官なのだと思う。見事なまでに無口なのだ。
「お、おやすみなさい」
頑張って言ってみても、丁寧な礼をされるだけ。もちろん悪意は感じない。表情でだけで言えば、氷面と言われたマリスタよりは数倍動く。その動力を、口に回してくれても良い気がした。
「ああ」
ひとり、寝台の上で横になる。
口が動く分の力を、表情に回せと言われても…………ちっとも出来る気がしない。それで少し、自分の事を氷面という人たちの気持ちに、触れられた気がした。
普通は表情も口も動かせるものだ。そんな人たちにとって、どちらか一つしかできない人間は、もはや別の生き物に見えるだろう。不気味かもしれない。やっぱり、嫌われる理由は、こちら側にあるのだ。
そんな無口な女官は、朝から大変元気で、見ている方が気疲れしてくる。
今日も一人で脱ぎ着出来ない立派な服を着せられて、マリスタが連れて行かれるのは殿下の部屋だ。
「おはよう、マリスタ」
「…………おはようございます」
頭を下げて、それは古書店の対応だと思い出し、慌てて夜会用の礼をする。
「楽にしていいよ。今日はまず、これを見て欲しい」
さっそく、書類のような紙束を渡された。綺麗な紙で、透かしや金の花装飾がされている。歓声をあげかけたが、表題がおかしい。婚約書。どう見てもそう書いてある。目をこすって、もう一度見てみたが、やはり間違いはないようだ。
「え?」
「驚いた?」
彼は得意げに微笑んだ。頭一つ分より高い位置にある、誰が見たって整ったと評されるだろう顔が、今日に限って何故か怖い。
「えっと…………」
胸の内で、ザラザラとした小さな不快感が揺れている。彼の婚約書なんて見たくない。そもそも婚約なんて、今時聞かない代物だ。
「ちょっと刺激が強すぎたかな?」
どうしてこれを見せてきたのだろう。マリスタは悲しくなった。
「…………あの、これ」
「見てのままだけど、開けてみて?」
開けなきゃいけないのか、とショックを受ける。まさかこれは、自分に対する婚約命令だろうか。仕方なく表紙をめくり、次は誓約の一覧、法律、聖殿からの加護紙もあった。その紙の下には、彼の署名が流れるように書き添えられている。
「どう?」
聞かれて顔を上げた。その整った顔を、今なら叩いても許されるのではないか。怖さは小さな怒りになった。
「い、嫌な感じです!」
「珍しいね」
「…………びっくりしました。わたし、貴族じゃないですし、婚約なんて関係ないと思ってて。でも、命令なら、仕方ないかもって。なのに、どうしてオルヴェールさまの書類を、見なきゃいけないんです?」
「あれ、怒ったの?」
「だって、こんなの…………!」
言い淀む。その先の気持ちを知りたくないと、自分の中で拒絶する。どうにか追い払いたくて、ムスッとむくれていると、近くの机にあるインク壺に気が付いた。それから視界に入り込む、硝子のペン。
「マリスタ」
差し出す相手は、一人しかいない。イライラするのは、なんとも久しぶりで、心が動くことに少しだけ疲れも感じる。怒ったところで、マリスタは無力なのだ。意味がない。
「要りません」
「それは困るな」
「どうして?」
「そこ、君の署名が必要なんだけど」
彼は自らの署名の下、その空欄を指さした。
「わたし…………?」
「そうだよ。ここね」
「…………こ、ここ?」
何を言っているのだと、紫の瞳に問いかける。じっと見つめ返された。揺れる水面のような、不思議な色合いの紫だ。しかしどうしてか、見ているだけでむずがゆくなってきて、照れてしまった。
先に目を逸らせたのは、マリスタだ。
「あ、あの…………でも、これは」
「はやく」
甘えるよな優しい声で。けれど有無も言わせない。絡みつくようなそんな言葉で、逃げたいマリスタを追い詰めてくる。だってそこには、とても名前など書けない。
「でも」
「国家反逆罪が」
「うっ」
「僕の庇護下に、入ってくれるよね?」
微笑む彼は、今日も麗しいのにやっぱり怖い。その理由が分からない。中身はどこかで別人でもなってしまったのだろうか。それとも、本当は怒っているのかもしれない。
「提出はしないよ。だから、二人だけの秘密にしよう?」
「秘密…………なら、書かなくてもいいような?」
「それとも、本当にする? 僕はそれでもいいけれど」
「絶対にダメ!」
溜息交じりに苦笑され、マリスタは頬をいっぱいに膨らませた。秘密で使わないなら、どうにか回避出来るはず。もしかして、意地悪されているのかもしれない。
「わたしには無理って、知ってるでしょう! 皇室ですよ?」
「そうかな?」
「そうですよ! 大変なご公務がありますよね!?」
「あぁ、そっち?」
「それ以外、何があるんです!?」
「まぁいいや、ひとまず署名」
全然良くない。良くはないが、打開策もすでにない。目の前には本人がいて、その手にはペンまである。
「マリスタ」
「でも!」
「同胞たる君に、こういう事で、命令したくはないんだけれど」
「…………でも」
無駄なあがきだとは、分かっている。
確かに、後ろ暗い事をやってしまった。名前を書くくらい、首が飛ぶよりはマシだろう。けれど。それが仮だと言うのなら。仮でもいいと言うのなら。絶対に他にも案があるはずだ。彼ならそれを、知っているはず。
「怖いのなら、それはマリスタが持ってればいいよ。安心だろう?」
「…………」
「ペンをどうぞ?」
それ以上なにも言い返せずに、押し付けられたペンを持つ。きっと誰にも知られない。それなのに怖いと、胸の中でさざ波が立つ。だって相手は、オルヴェールさまだ。他の誰でもない、この人なのに。
秘密だなんて…………ちがう、秘密以外は、あり得ないのに。
本気にしてしまいそうな、自分が怖い。
一度失恋した人の、秘密の婚約者だなんて。
もやもやとした、嫌な気持ちが渦巻いている。辛さは少ない。でも甘いかは絶対に知りたくもない。今すぐ逃げてしまいたいのに、ひどく喜ぶ自分もあって。それが醜いようで、いたたまれない。
マリスタは急いで、小さく署名を書き足した。
書き手の異なる並んだ文字は、立場の違いを見せつけてくる。慌てて二重線を引こうとしたのに、書類は机から宙に浮き、オルヴェールの手の中に納まった。
「か、返して!」
「最後の仕上げをしてからね?」
書類が淡く輝いた。星神の持つ禁則の加護。燃えも汚れもしない、強力な保護の力だ。
「あ…………!」
そんなことをされたら。消せないし、壊せない。本物になってしまう。
「今すぐ破り捨てそうだった、君に渡すのだから、これくらいはしないとね?」
「…………でも」
「でもじゃないよ。これは君の命を守る物。僕だと思って大事にして」
「…………」
「秘密なのは、嫌だった?」
囁くように問いかけられる。違うと言いたい。でも、そうかもしれない。
「マリスタ」
「…………はい」
「せっかくだから、恋人らしい事でもしようか?」
「そ、そういうのは、いいです」
すぐそうやって、気をそらそうとしてくる。マリスタは怒っているのだ。頑張って怒っているのに。
「そうかな? 高いところは平気だろう?」
「砦の塔には、昨日、登りました」
しばらくは絶対に、拗ねてやる。嫌な女になって嫌われなければ、婚約解消などしてもらえるかも分からない。普通だったらこれで嫌われるはずなのに、彼は笑顔のままだ。
「もっと高いところだよ。竜に興味はあるかい?」
「竜!」
「気になるだろう?」
微笑む彼に逆らえない。ころころと、気分を変えられていく。分かっているのに笑顔になって、悔しくて嬉しくて、何も言えないで俯いた。六歳だけ年上だと、彼は言う。
けれど六歳は「だけ」とは言えない、差ではないだろうか。