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12-02:見習いのマリスタ

 



 五日間の午前勤務を終えて、マリスタは正式に祝福装飾省第二部門の見習いとなった。


 右胸に光る入館証は、金緑宮の緑や青に色を変える宝石に、金の一粒がついたもの。そして滑らかな半球状の水晶に、銀の一粒が下がる水晶宮。艶消し銀の丸くシンプルな花台座に、赤いルビーの輝く柘榴宮のものだ。


 柘榴宮は皇宮内の旧館にあたり、行政施設の多くが入っている場所である。


 政務棟も含まれるものの、マリスタの身分を知らない官吏も多い。この入館証を迷いながらも贈ってくれた皇子様は、なるべく一人で来ないように、と念を押してきた。


 もちろん、一も二もなく頷いたのは、言うまでもない。


 旧館は塔の多い区画であると同時に、内部も迷宮のようだと聞いている。あのオルヴェールさまが、迷ったという場所には、出来るだけ近寄りたくないものだ。


 行きの馬車で近くを通ってもらい、その外観を見たのだが…………赤黒いレンガに、一部の壁には蔦という古めかしさもさる事ながら、繊細さのある下階に、ずんぐりとした重厚感のある上階という危うい見た目をしていた。短く太めの塔の屋根には、省を示す旗が掲げられている。


 この塔は我々のものだ、という証らしい。


 どうして、そんな事をしたのかは分からないが、内部の複雑さは外観からでも良く分かる。


「無理をしないでね」

「はい!」


 昼食用の小さなバスケットを手に、マリスタはオルヴェールの乗る馬車を見送った。今日から、午後勤務の始まりだ。




 ひたすら絵を描く職場は、何とも居心地がいい。


 午前最後の分を描き終えて、マリスタはペンを置くと、インク壺に蓋をした。


「食堂、行かなくて良かったの?」


 業務を終えたマリスタに声を掛けたのは、眼鏡パパのロンディーさんだ。配慮の出来るレベリッカ先輩は、ランチボックスを抱えて出勤してたマリスタを知っている。お昼行ってくると、もう席を立っていた。


「は、はい…………その、人もメニューも多くて」

「そこが売りなんだけどね~」


 と言いながらも、弁当持ってくと中身取られるし、とパパは顔を曇らせた。


「ど、泥棒が?」

「妻の愛を盗む、最低な奴らさ」

「愛…………?」


 早速会話に詰まっていると、椅子を持ってマリスタの隣にやって来たのは、アジェンタだ。


「笑うトコっすよ!」


 豊かな赤髪の装飾師は、断りも遠慮もなく、昼食の包みをマリスタの机に広げ始めた。ロンディーが、愛のどこに笑いが、と悲壮感漂う声を出す。


「愛はその、素敵だと、思います」


 マリスタは、精一杯思ったことを言ってみた。よく分からないが、愛とは信仰にも近く、神々にもある感情なのだと神官様に聞いたことがある。笑ってはいけない。


「…………うぅ、素直だぁ」

「ポワポワっすね」

「ねぇ君、何処の学院行ってたの?」


 新たな声の主は、レンダーク卿ナンシスよりも、若そうな男性である。セルリックと名乗った彼は、レベリッカの席に勝手に座ってしまった。


「だって、こんな可愛くて純粋で、未卒ってさ。怪我でもしてた?」


 大人たちに見つめられたマリスタは、嫌われてて、と事実しか言えなくなっていた。


「は?」

「嫌う要素何処だ? 無いだろそんなん!」

「誰も、口を聞いて、くれなくて…………」


 慌てて口を噤む。こんな話を聞いて、食が進むはずがない。なにか、違うことを言わなくては。


「え、それってイジメ? マリスタちゃんが? こんなに可愛いのに?」


 ロンディーさんが、ポカンとした顔で聞いてきた。


「か、かわいくは」

「無視だけか? このパパが、そいつら殴りに行ってやるぞ!」

「ダ、ダメです、そんなの、いいですから!」


 慌てて言うが、穏やかなパパの顔は険しくなった。


「なに庇ってんだ? イジメとかする陰湿なクズは、この世に不要なんだよ。息の根止めた方が、みんな喜ぶ」


 とうとう恐ろしい事を言い出した。街の人には、そういう衝突はままあるよ、なんて流された内容だ。固まっていると、眼鏡の奥の緑の瞳が、竜のように鋭くなった。


「イジメられて、たんだよな?」


 なんと、疑われているようだ。マリスタはゴクリと喉を鳴らした。今更、誰も庇う必要のない事だ。


 仕方なく、あった事をぽつりぽつりと話してみる。要約はしたものの、悲しい記憶と痛い思い出。苦しくなって俯くと、部屋から音が無くなっていた。


「クソッ! そいつら全員皆殺しだぁぁぁっ!」

「血祭りにする!」

「ぎったんぎったんにするっスよ!」

「!?」


 まさかの反応に、マリスタは思わず身を引いた。おかしい。おばさんは、こんな反応をしなかった。慰めてくれて、それで仲良くなれた気さえする。


「怒ってないのか?」


 優しいはずのパパに凄まれて、なんとか首を横に振った。それが新たな燃料になったと、彼の加護が揺れた気配にマリスタは青ざめた。


「いいか? これはブチギレ案件だ!」

「わ、わたし」

「あぁぁ、イライラが収まらん!」

「分かる!」

「で、マリスタちゃん、ソイツら何処っスか?」


 華やかな祝福絵画を得意とする、赤髪のアジェンタの目には、狂気の影が揺れていた。もうどうすればいいのか、分からない。


「ど、どこかは…………ソフィリアは、今誰も、居ないって」


 なんとか声を絞り出す。とたん、三人はガタリと席から立ち上がった。


「探せ! 帝城の土を踏ませるな!」

「承知!!」

「アタシ、シルキリーク様捕まえてくる!」


 アジェンタさんが、キレすぎて普通に話している。怒りの形相を隠しもせず、三人は部屋から飛び出した。


「あぁ、ま、まって…………ど、どうしようっ」


 取り残されたマリスタは、立ち上がったまま、一歩も動けそうになかった。


 こんな事になるとは、思わなかったのだ。


 誰もが、壊れかけの祝福だった。


 改心しても、その傷は戻らない程に深いもの。祝福の壊れ方の、見本市のようだった。


 目を背け続けた卑怯さは、きっと怒りでも悲しみでもあったと思う。それを知る人は、きっとマリスタだけではないはずだ。


 心無い言葉を吐いた口。後悔しても、出てしまったら誰に聞かれてしまうもの。正義なき暴力は、自分を殴るようなものなのだ。


 神々は決して許さない。加護を持つものが、誓約を違える事を。


 彼らはみな、二度と綺麗には戻れない。マリスタに近づいたせいで。マリスタに関わったせいで。


 一人呆然と立ち尽くす。まさか、こんな事になるなんて。マリスタなのに。知り合ったばかりなのに。どうしてだろう。分からない。嬉しいのか、悲しいのか、怖いのかも…………お弁当が、とても食べられそうになかった。


 きっと間違えたのだ。


 聞いてくれるから、同じだと思ってしまった。仲良くなれるのではと。優しくしてくれる、街の皆さんみたいな大人だと。似ていても別の野菜のように、人だって同じではない。知っていたのに。


 部屋から出れば、女官も騎士も、すぐにマリスタを囲むだろう。今は誰とも話したくない。それなのに、お弁当を見つめるだけで、胸がつかえて、苦しくなった。食べなければ申し訳ない。オルヴェールさまに、心配される。


 そう思ったせいなのか、優しい幻聴がした。


「どうしたの、マリスタ。酷い顔色をしてるよ?」


 居るはずのない、皇子様。会ってしまったら、縋ってしまう。それなのに顔を上げたら、出来過ぎた幻が立っていた。


「お昼が心配で、見に来たんだけれど…………」


 旗を振られた牛のような勢いで、廊下を駆けていく祝福装飾師三名とすれ違ったオルヴェールは、喚き散らされた言葉から状況を察している。マリスタが話したことを、少し意外に思いながら、青ざめた少女の言葉を待った。


「わ、わたし」


 マリスタは多分、彼にも会いたくなかったのだ。それに気づいた。だから、この話をしなかった。泣いても許されない。見ていたのだ。祝福が壊れる様を、ずっと。知っていたのに、それを忠告さえなかった。


「わたし…………!」


 マリスタの祝福は壊れていない。正しい事をしなかったのに。報復を恐れて、助けられる時を見過ごした。壊れればいいと、醜くも思っていた。それなのに、自分だけは壊れていなかったのだ。


「少し休もう? そんなに思い詰めるものじゃない」

「で、でも」

「君を慰めるより大切な事なんて、僕にはないんだよ?」

「で、でも…………」

「大丈夫、落ち着いて。怖い事から、全部遠ざけてあげよう」

「オルヴェール、さ、あっ」


 近づいた彼に、簡単に抱き上げられてしまった。逃げようとしたものの、深く抱き込まれただけだ。


「お、降ろしてっ」

「だめ」

「恥ずかしいからっ」

「じゃあ、目を閉じて?」

「わたしが閉じても、意味はないです…………!」


 精一杯の反論をする。お昼もまだだ。今日から終業まで働くのに。そんな思いの他にも、学院での話を彼にしたくないと、ズルくも思う自分がいる。


 知られたくない。意地悪の仕返しをした、醜い過去なんて。


 それなのに、もちろん逃げる事は叶わずに、馬車に乗せられて柘榴宮へ連れて行かれる。すっかり、問い詰められと思っていた。金緑宮でないことに、気を抜いてしまったのだ。


「彼女と話すから、誰も取り次がないように」


 マリスタは皇子様を見上げた。ここが僕の政務室、と言われたものの、部屋には誰も居ない。


「あ、あの…………」


 ソファーに座った彼の、膝の上から降ろして貰えず、二人だけの室内は静かなままだ。不利な状況だと、そこで気がつく。


「僕のお姫様は、どうして自分の傷口に、自分で塩を塗るんだろうね?」


 オルヴェールさまは、見逃しも諦めもしていなかった。マリスタは俯いたまま、黙り込む。


「学院の事を、話したの?」

「…………は、はい」

「話せるように、なったんだ」


 話すつもりは無かった。ただ、ふと言ってしまったのだ。中退は、マリスタのせいではない。そこはどうしても譲れなかった。


「忘れてしまえば、良かったのに」


 忘れたい。本当にそう思うのに、忘れられない。見たくもないのに、夢の中まで追ってくる。


「心残りはあるだろう…………すぐには、きっと忘れられない」


 オルヴェールさまは、おばさんと似たことを言う。忘れたい。忘れられない理由なんて、思いつかない。


「僕だって、心底忘れて欲しいけれどね」


 無かった事にしたいのだ。言われた言葉も、殴られた痛みも、向けられる目の冷たさも。全部忘れてしまいたい。でも出来なかった。お前のせだと言われるようで、お前さえ居なければと、呪の言葉が、記憶の底から湧いてくる。


「甘やかしてしまおうか?」


 額に口づけられて、肩が震えた。逃げたいのに、逃げられない。思い出からも、彼からも。


「オルヴェールさま」

「でもきっと、一時凌ぎだな」


 頬にも吐息がかかる。この皇子様は、マリスタに甘い。そんな事はもう充分知っている。分からないのは、厳しい先生のくせに、甘やかすと言う方だ。


 慌てて、唇を隠した。


 やめて欲しければ話せと、もしそう言われたら、言ってしまうからだ。


「だ、だめ」

「溺れてくれたらいいのにね? 頑固者だな」


 その顔が初めて首筋に埋まり、呼吸が詰まった。無防備で柔らかな場所から、彼の吐息が囁やく。


「過去は変わらない。後悔があったとしても、前にしか道はないんだ。帰っておいで、マリスタ。君が生きているのは、今だよ?」

「オ、オルヴェール、さま、そ、そこで、話さないで」


 もう懇願だ。足先から首まで、総毛立つような感覚がしている。未知の風に、肌をなぞられるようだ。


「話を逸らすの? そんなに後ろを向いてると、食べてしまうよ?」

「お、美味しく、ない、です」

「美味しいんだよ。だから、ちょっかいを掛けられる」

「お、美味しく、なんかっ」


 吐息が撫でていた首に、柔らかなものが触れた。唇だと分かると、一気に顔が熱くなる。彼の肩を両手で押した。押し返すなど無理でも、抵抗しなければ暴かれてしまう。そもそも美味しくはない。最近の油は、花の香りだ。


 足をバタつかせていると、突然、小さな痛みが首に走った。


「っ!」


 知らない感覚に身体が震えて、戻らない。しかも、だんだん小さな痛みはひどくなる。


「や、やめっ」


 ゾクリとしたものが、背中を駆けた。どんなに頑張ったところで、彼が離さないことは、知っている。それでもこれ以上はダメだ。そんな気がする。


「や、やだ」


 水音を立てて、やっとオルヴェールが口を離した。震えが止まった身体から、力が抜ける。残りの元気まで吸われてしまったようだ。息は浅くて目もまわる。


「いいかい? マリスタは、美味しいんだよ。だから狙われる」

「お、美味しく、なんか」

「マリスタは、自分の味を知っている?」

「わ、わたしの、あ、味?」

「知らないのに、どうして美味しくないなんて、嘘が言えるの?」

「う、嘘…………?」


 薄紫の双眸は、マリスタを見ていた。心の中まで見透かすように、真っ直ぐに。嘘を咎めるようだった。


「美味しいのに、違うと言ったら、嘘だろう? 美味しそうだと、疑われる」

「で、でも」

「君の評価は、君が決めるものじゃない。マリスタは自分に、嘘をつきすぎなんだ。誰も傷つけないかもしれないけれど、君を一番傷つける。その痛みがあれば、違うマリスタになれるのかい?」

「わたしは…………」

「美味しいマリスタは、どんなに頑張っても、不味いマリスタにはなれないんだよ。だから、みんな欲しがる。美味しくないと言うから、奪っていいと思われる」

「そ、そんな」

「美味しいマリスタで、いてごらん? 君は美味しくて、誰からも狙われている。少しでも安くて不味いフリをしたら、食べに来るよ?」


 そうなのだろうか。不味いふりって何だろう。涙目で見上げていると、彼は困った顔で少し笑った。


「描いた絵を褒められた時、なんて言う? 練習だって卑下するの? そんなことないって、謙遜するかい? それがどれだけ、他の子を苦しめるのか、知っている?」

「く、苦しめ?」

「兄上の所には、天才か秀才しか居ないし、皆腕に自信のある大人ばかりだ。マリスタの未熟さに苛立ちはしないよ。でも学院はね、言ってしまえば未熟者の集まりだ。秀でた君が、努力もなくそれを手にしたと気付かれてしまえば、妬まれる」

「わ、わたしが、居たから」

「そうじゃないんだ」

「でも」

「そうじゃないんだよ。君は子どもで、自分を知り尽くしていなくても、許された。それを知る機会に、恵まれなかっただけなんだ」

「わたしは、どう、したら」

「ごめんね、マリスタ。僕も君の才能を、知られたくなかった。だから言わなかったんだ」

「わたしの、才能?」

「…………そこから?」

「そこ?」

「マリスタは一度、どれだけ人から羨まれるか、知った方がいいのかな?」

「わたしが、羨ま、しい?」

「羨ましいに決まってる。可愛いし、素直で綺麗だ。親が無くても学領主と同じ姓を持つ。それだけで特別なんだよ。しかも当主に目を掛けられていて、夜会の度に帰省の手筈が整えられる。他領に行くほど優秀で、絵の才能も持っていて。しかも足元に祝福の影が見えるんだ。他の誰にも見えないのにね?」

「…………」

「分かるかい? マリスタも、努力して得たものがあるだろう。でも世の中には、努力しても届かないものもあるんだ。だから欲しがる」

「…………」

「例えば、雪竜の絵を、君より上手く描くヤツがいて、どう思う?」

「すごい?」

「…………マリスタには、人をイジメる才能がないね」


 嘆息されて、ムッとする。そんな才能は欲しくない。


「才能は、欲しくて持っている、わけではないよ。上手く雪竜を描くヤツも、そうだった。だから言うんだ。こんなの駄目だ、捨てた方がマシだって」

「ど、どうして?」

「上手な描き方を教えて欲しいって頼んでも、画集を勧められる。自分の絵を見せても、上辺だけで褒められる。そいつの方が上手いのにね?」

「忙しいの?」

「さあね、窓から外ばかり見ていたよ」

「悩んでた?」

「うん、悩んでいたんだ。動物を、誰より上手く描けるのに、彼は竜騎士になりたかったのだから」

「絵がきらい?」

「嫌いではないと思うよ。今も描いているし…………でも僕はね。僕に絵心が無いから、教える価値も無いんだって思ってた」

「オルヴェールさま、が?」

「これは、兄上の話だからね」

「…………分かる、気がします」

「それは嫌だな」


 上手くないという、オルヴェールさまの気持ちは、残念なことに分からない。でも、納得のいかない絵を褒められたところで、嬉しくないというのは、よく分かる。


「その時のお兄様は、ご自分の絵に自信が無かったのでしょう?」

「無かったのかもしれないけれど、誰が見ても完璧だったよ。それを眼の前で破かれてごらん。心まで破かれるみたいに辛いから」

「自分に厳しいのですね…………」


 マリスタはそこまでした事がない。練習だろうと紙は貴重だ。取っておく。そして、売られてしまった訳だが。


「そっちじゃないからね、マリスタ?」

「?」

「ひどいな。マリスタはやっぱり、もう一度僕が齧っておこうか。美味しいくせに、不味い方を助けてくれないなんて」


 なにが酷いのだろう。そう思った顔に影がさす。慌てて背けた横顔を、吐息が撫でた。彼の唇は、再び首筋に触れている。キスとは違う、強い羞恥が肌を粟立たせた。


「やっ、やだ!くすぐったっ…………っ、や、やめ」

「…………」

「オルヴェール、さ、まっ」


 足までバタ付かせて抵抗するものの、彼はそれを小さく笑う。背中がゾクリとした。美味しくない。不味い方を助けない? そんなの分からないのに。


「離して、はぅっ、だ、だめっ」

「ふふ、いい声」

「っ、だ、だめったら!」

「マリスタは、僕のお姫様なのに。兄上の味方なんか、するんだから」


 そちらの気持ちしか、分からないのだ。無言で拗ねていると、首に吐息を掛けられた。


「ひっ!」

「やっぱり分かってないね。頑固者」

「お、おいしく、ない! 美味しくないですっ!」

「美味しいよ?」

「オルヴェールさまが、変なんです!」

「ならそれで」

「ダメです!」

「本当に?」

「だめっ!」


 優しい口づけが、頬に触れた。マリスタを食べたって、絵は上手くならないと思う。それに昔の彼の絵は、色彩が美しく、涼しげな雰囲気まであるちゃんとした風景画だった。それを下手だと言う、オルヴェールさまの方が、どうかしている。


「怖いの?」


 意地悪な皇子様を睨む。マリスタは、残りの元気を寄せ集めて口を開いた。


「食べても、絵は、上手くなりません」

「知ってるよ」

「じゃあ、なんで…………」

「齧られて君が減ったら、下手になるかもしれないだろう?」

「そうなの?」

「ならないよ」

「じゃあ、なんで?」

「それだけ悔しいんだよ。齧ってやりたいくらいにね?」


 分かっていなさそうなマリスタに、オルヴェールはただ苦笑した。この話が、いつか彼女を助ける事を願うしかない。


 天才は孤独だ。凡人に理解されず、数の多さに負けて排除される存在となる。第二所属の装飾師は、皆そうした過去を持っていた。だからマリスタよりも、その痛みを理解して、正しく怒ってくれたのだ。


「マリスタは、美味しいんだよ」


 警戒している彼女に、そっと頰を寄せて、腕に力を込める。細い身体はすぐにしなって、そのやわらかさを教えてくれた。押し返すように、腕が震えていたけれど、すぐに諦め、服をつかんでくる。


「いい子」


 囁くと、服を引かれた。全くもって頑固なのだから。その頑固さが、人付き合いの壁となったのだろう。教えても、きっと分かってくれない、困ったお姫様である。


 頭の上に口づけて、腕をゆるめてやった。マリスタはよろりとしたまま、オルヴェールの胸に頭をよせる。


「いじわる」

「そんな僕も、好きなんだよね?」


 髪を撫でながら問うと、答えはない。人付き合いの仕方を教えてあげたいような、このままにしておきたいような、複雑な気分にさせられる。


 自分にしか懐かないウサギがいたら、最高というものだ。


「オルヴェールさまは、さいきん、いじわる、です」

「そうかな?」


 マリスタは、あの油をどうにか止めて貰おうと、心に決めた。竜のみならず、人にまで美味しそうだと思われては堪らない。良い香りだからと、拒まなかった事が、悔やまれる。


 そんな顔を見おろして、皇子様は、やめてあげようと思った意思が、揺らぎそうになるのを引き締めた。


「マリスタが、かわいくて辛い…………仕方ないから、部屋まで送ってあげよう。兄上には、使いを出すよ」


 真っ赤な顔のままで、小さな頷きがあった。そんな姿はやや幼くて、マリスタが更にかわいく見えてくる。僕を一体、どうしたいのだろうか。


 こちらは親にまで、既成事実を求められているのに。


 頭を冷やそうと、少し窓の外を見た。


 兄は昔、絵の指南を拒んだ後、よくこうして外を見ていた。まさか、気不味かったのか。有り得そうだな、と思ったことに苦笑する。人の心は複雑だ。当時分からなかった事を、こうして未来から振り返る。


 マリスタの心の傷も、時間と経験がいつか消してくれるだろう。もう二度と、同じ道は歩かせない。有害な天才だろうと、近くで守れば良いだけだ。




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