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1-02:テラス逃避会の二人



 その日は近くで火事があり、街の消防団や騎士達、野次馬が店前にたくさん居たのも好都合だった。


 マリスタは加護の力で年齢を五年遡り、髪色を染める。少女はたちまち、幼い少年のような見た目になった。


 誤算と言えば、裏道ですれ違った少年が、火事の被害らしいと、気づいてしまった事だろう。


 煤に汚れた小さな背中。焼けただれて赤黒い腕。壊れそうな炭片を持つ少年は、よろよろと聖殿に向かっていた。


「…………ねぇ、きみ」


 つい声を掛けてしまった。今日、巻物を持つ子どもは、みな同じ理由を持っている。火事以外に人が多い理由は、それなのだから。


「あなたの祝福、飾ってあげようか?」


 少年は、緩慢な動作でマリスタに振り向いた。


「今からだったら、間に合うよ。一緒に、聖殿へ行こう?」

「…………」


 ぼんやりと此方を見る少年に、そう言えば、とマリスタは状況を理解した。逃げる為に偽装した姿は、八歳前後の少年だ。彼にとっては、頼りない同年代にしか見えないだろう。こうなっては、押し切るしかない。


「いいから来て!」


 マリスタは少年の手を掴むと、有無を言わせず聖殿に向かって駆け出した。みすぼらしい子供が二人。偽装にはぴったりではないか。


 内なる祝福を、人は育てながら生きていく。


 そうした理念が聖ヴェシール帝国には根付いていて、文武を修め、品行方正である事が求められている。帝国民は十歳になると、加護の儀式を皆受けた。ただし貧しい人々は、早くに職を求めて、八歳からその儀式に望む者が多いのだ。


 聖殿は年に二度、この儀式を執り行っている。


 儀式には「内なる祝福」を視覚化した祝福絵画が必要で、一生に一度だけ、帝国民に与えられるとても高価なものだ。


 それが自らの手で描けるマリスタにとっては、さして価値のあるものでも無いのだが、燃え炭になってしまった少年の絶望くらいは理解できた――――この街には、三ヶ月だが隠れ暮らした恩がある。


 最後に一つくらい、良い事をしてもいいだろう。


 そんな自己満足も背中を押した。


 二人が辿り着いた聖殿では、儀式が始まり重厚な扉は閉ざされている。


 すぐさま少年を裏庭へと引っ張って、人目に付かない場所を探した。倉庫らしき壁の横、木箱の影に芝生の禿げた地面が見える。そこに急いで移動した。


「動かないでね!」


 マリスタの剣幕に、少年は少し精気を取り戻したようだ。


「うん」


 薄っすら見える、彼の足元に広がる水の気配――――火事から助かったのは、つまりはそういう事なのだ。


 分厚い袖を更にまくって、落ちていた枝を手に取ると、マリスタは少年の足元に這いつくばって、複雑な線を描きだした。


 聖殿の中では、今も加護の儀式が続いている。


 殿主の言葉に讃美歌、切ない音色の音楽が聞こえ始めると、宣誓の始まりだ。


「…………ぼくは」


 少年も、儀式の流れは分かっているようだ。マリスタは地面に線を描きながら、無言で続きを促した。


「ぼくは、リット・レンダーク、八歳です。レンド・レンダーク学領主の四十六番目の子にして、騎士を志し、正しく…………強く、生きてきました」


 マリスタは必死に線を引く。奥から手前に、描いた部分を踏み消さないように。下描きのある絵をなぞるような、迷いのない曲線が少年を中心に広がっていく。


 満ちゆく月に、水の流れる豊かな田園。そこへ火に負けない強さを示す角と、水瓶を描き足して、祈りと感謝の聖句で補強する。少年の名前を飾り文字で書き入れれば、完成だ。


 地面の祝福絵画が、淡い光をたたえだす。


「神さま、ぼくに…………ぼくにっ! 強さをください。炎に負けない力を! 守れる力を!」


 聖殿から光の柱が、滝のように強く空へと吹き上がっていく。その横では細い光が、確かに空へと昇って行った。




 ガタガタと揺れる荷馬車の屋根で、マリスタは遠くなっていく街を見つめていた。


 聖殿から出てくる子どもの流れに紛れたので、御者からも疑いを掛けられずに済んでいる。今日ばかりは、十歳未満の一人遠出が許されるのだ。運賃も格安である。


 この荷馬車はレンダーク学領都から北上して山間の町へ向かうらしい。


 そこでは流石に仕事は得られないだろう。後日、準備を整えてから山脈を迂回し、更に北にある辺境伯領の領都を目指そうと思う。


 もぐりの祝福装飾師として働くからには、定住など無理な話だ。


 しかし一度嫌いになりかけたその職を、マリスタはやはり、嫌いになどなれなかった。それを今更知ったとしても、高等院に戻る事は出来ない。


 もう一生、もぐりで居るしかないだろう。


 それでも。人の持つ祝福の、願いにより変わろうとする強さと輝き。命の燃える美しさ。あの少年の笑顔が、ずっと頭から離れない。自分にはもう、何も無いと、一度は思ったはずなのに。


「そんなこと、なかった」


 嬉しいのに辛い。もう少し頑張れたなら卒業できた。いや、少しも頑張れはしなかった。だから、これでいいと慰める。


 あの少年のように、救える人がいるのだから。マリスタの心を救ってくれる、美しく強い祝福を持つ誰かが。それを探す日々も、きっと悪くないだろう。


「救われたのは、こっち、なんだ」


 一人で小さく笑って、笑える事に泣きたくなった。表情なんて死んでしまったと、そんな風に思っていたのに、違ったのだから。きっと少しずつ、良くなるだろう。その希望が、今はやっと持てている。


 暮れ始めた空を見上げた時だ。白く、鳥にしては大きなものが二羽、街へと飛んでいくのが見えた。


「竜だ!」


 誰かが言うと、荷馬車の子ども達は歓声を上げて空を見る。


 ここは竜域のレンダークと言われる学領で、国内随一の飛竜の産地だ。しかしその頭数は多くなく、全てが軍用だと聞いた事があった。見る機会は少ない。


 白い生き物は夕日にきらめてい、空を飛ぶ宝石のようだった。


 また何かに憧れて、また何かを喜べる。


 それがこんなに癒される事なのだと、初めて気がついた。


 ふと、マリスタに色々な事を教えてくれた、優しい青年を思い出す。夜会嫌いで大抵テラスに避難している、良いところの貴族のような、あの方だ。


 彼が貴族でないと知ってしまって、折れかけていたマリスタの心は、淡い恋心と一緒に大きく折れてしまった。


 それで、いつもみたいに殴られたくらいで…………全てを諦めてしまったのだ。ただそれが――――今ではやっと、良かった事のように思えている。


 好きな所へ行けると。


 鳥のように自由に。竜には勝てなくても、それでいい。もっと遠くに行きたい。そこにきっと、居場所があると思うから。




 夕日の空も終わる頃、荷馬車は北の町と言われるシルドナに辿り着いた。


 マリスタは正しい運賃を払うと、人気のない場所を探して歩き出す。宿をとる為に、年齢を戻さねばならない。少年とはいえ、夜に八歳頃の子どもが出歩けば目立つだろう。しかも今日は「加護の日」だ。子どもが一人で居ると、更に悪目立ちしてしまう。


 しかしここは町だけあって、それなりに店もあれば人もいる。挙動不審なマリスタは、警邏の騎士に速攻で声を掛けられた。


「迷子かい?」

「えっ」


 ぎょっとするマリスタに、騎士の男はしゃがみ込むと、訳知り顔で頷いた。


「確かに今日は、ハメを外したくなる日だな」

「えへへ」

「家はどこだ?」


 油断するとこれだ。マリスタは昼間の少年を思い浮かべた。火事で焼け出された人々は、他にも居るはずだ。幸い、あの子のお陰で服も少々コゲ臭い。


「親戚が、ここに住んでる…………かも、しれなくて」

「かもって、ぼうず、家出か?」

「家が、燃えたんだ」


 騎士の男が息を飲む。白い隊服に青色の裏地。運の悪い事に、彼は国に属する騎士のようだ。領属騎士ならいざ知らず、どうして国の騎士がいるのだろう?


 胸元の飾りは、もしかすると身分だったするのだろうか。なんだか多い気がする。そういう人は、強い権限を持っているのだ。下手に逃げたりしたら、数人がかりで追われるかもしれない。穏便にやり過ごさねば、大変な事になってしまう――――マリスタは俯いて、反応を待った。


「ふぅん。かも、ねぇ…………親とは不仲かい? 焼け出されたからって、領都に居たら生活保障も出ただろう?」

「そ、それは」


 子供が、そんな制度を知っているかは不明である。雲行きが怪しくなってきた。


「ぼうず、歳と名前は?」


 一番聞かれたくない事だった。領の戸籍は、かなり正確なのを知っている。だから、あの少年の名を語っても一時しのぎにしかならない。迷惑もかかる。やはりダメ元でも逃げるべき、いや、大人と子供、しかも騎士だ。数歩で捕まるに違いない。


「名前…………そっ、そんなもの、忘れました! 無くても生きていける!」

「おいおい、どんだけ帰りたくないんだよ」

「見なかったことにしてください! さようなら!」

「胆が座ってんなぁって、ちょと来い!」


 あっという間に小脇に担がれたマリスタは、抵抗虚しく騎士に町役場まで連れていかれた。


 涙目になってしまったが、すぐさま打開策を考える。


 市井で暮らした三ヶ月は、マリスタが世間知らずを痛感するには十分だった。聞いた話などあてにならなず、受け身でいたら食いっぱぐれる。貴族とは別次元の過酷さは、不思議な熱を持っていた。


 生きる事さえ諦めかけていたマリスタを、暖めたのは、人々の活気だったのだ。


 今日は加護の日。役場には、子ども達の加護登録で、夜にもかかわらず町民達が押し寄せている。その賑わいが、マリスタの背中を押した。


「おしっこ行きたい!」


 恥も外聞もかなぐり捨ててそう言えば、流石に騎士は降ろしてくれた。そのまま人でごった返した受付付近を走り抜け、婦人化粧室に駆け込んで、靴を脱いだら一気に年齢を十四歳まで進め戻す。腰帯を取れば、チュニックはひざ下丈のワンピース早変わり。折りたたんだ袖を伸ばすと、花柄の刺繍が顔を出した。


 ザンバランの髪にも手を添えて、元に戻るようにと、自身の加護を動かしていく。


 星神の加護には、自身の年齢を操作できるものがあるのだ。なので、染めた髪色はすぐに抜け落ち、紫がかった灰白色に長く伸びていった。靴も仕掛けを取るとサンダルになる。


 財布代わりの腰帯をリボン結びにすれば、もう別人にしか見えないだろう。マリスタは迷いなく化粧室の窓を開け、外に飛び出した。


 そのまま何とか宿を取り、翌日は着ていた服を裏返す。刺繍のあるアイボリーのワンピースは、紺色の大人しいものに変化した。こういう時の為に、自ら加工した特製の服である。


 さっそく宿を出てサンダルを売り、山歩きが出来る靴を購入してその場で履き替える。事前に調べていたので、相場も把握済だ。


 問題があるとすれば、山越えの商隊とどう交渉するか、という事である。


 それよりも、そろそろ偽名を考えた方が良いかもしれない。


 露店商と相談していたマリスタは、ふと差した陰に顔をあげた。


「探したぜ、ぼうず」


 そこには、昨夜の騎士が立っていた。




 担がれたくなければ歩け、と言われ、手を引かれて連れていかれたのは、町外れの森だった。


 そこから伸びる道の先には、石造りの砦が見える。騎士団の施設だろう。足が竦んだマリスタに、騎士の男はようやく歩みを止めた。それでやっと、彼を見上げる。


 白を基調とした隊服に、金茶の短髪。目尻に皺があるとはいえ、オジサンとは呼べない清涼な雰囲気に、ガタイの良い男だ。


「別に、取って食ったりはしないぞ? ただ逃げて貰っちゃあ困るんだ」


 言い返せないでいると、彼は再び歩き出す。あまりに堂々と、しかもマリスタの歩幅に合わせて歩くので、騎士様と手を繋いでお散歩中、という風にしか見えない。悲鳴などあげれば、多分、罪人として扱われてしまうのだろう。そう思うと、逃げる気力が無くなってしまった。


 身元が分かれば、まず第四学領ソフィリアに連絡される。


 そこから養父に連絡が行くだろうし、下手をしたら高等院に再編入――――それは嫌だ。


 これまでどうしていたのかを聞かれても、もぐりの祝福装飾師だなんて、言えるはずがない。あの古書店も秘密だ。そういう人間は、確実に刑罰を受ける。


「わたし、死んだ方が、いいかも」


 自分が死んで喜ぶ人がいる限り、死んでなどやるものかと、そんな気概ももちろんあるが。しかし黒に近い組織でも、恩人は恩人だ。売る訳にはいかない。


 拷問や刑罰に耐えられるとも思えなかった。潔さは大切だと、古本屋の店主も言っていたではないか。自決の覚悟を持って、彼女は人助けをしていたのだから。


「おいおい、どうしてそうなる?」

「…………」

「そんなに家は嫌なのか?」


 養父は優しい。五十二番目の養女だったマリスタを、表面上は、我が子のように慈しんでくれた。


 だからこそ、期待を裏切った身の上で、合わせる顔などありはしない。怒りはしないだろう。でも都合のいいように、人生はまた縛り付けられる――――


「もう、死んだ方が、いいかも」


 涙が落ちた。枯れ果てたと思っていたそれは、あっという間に視界を水底に沈めていく。泣いても苦しくて、惨めなだけだ。何も良い方向には変わらない。それなのに、一度零れだしら、止めようが無かった。


 だから嫌いだ。悔しくて。自分で自分が信じられない。こんなわたしが、嫌で仕方ないのに。自分を殺す勇気すらない。


 しかし騎士の男は、二度見するようなレースのハンカチを差し出して、マリスタの涙を止めてみせた。


 背中を押され、一歩一歩と砦に近づけられる。そこに着いたら、自分が死んでしまうような気がした。死んだ方がいいと思っていても、それが迫れば、死にたくないと必ず思う。


 その感覚は、自分自身に裏切られるようなものだった。


 一歩が重くて、また足が止まってしまう。騎士の足元をつい見てしまい、マリスタは自嘲した。


 薄っすら見える祝福は、雪冠を戴く山々と吹き荒れる風。しなる草木がその力強さを物語る。昼神の属神、音神の加護があるのだろう。恐らくとても耳がいい。きっと、声か何かで居場所がバレたのだ。


「悲観するな、な? あれだけの加護を持っているんだ。やりようはある」


 背中を押していた手が、不器用に頭を撫でてきた。だからといって、逃がしてはくれない。薄情な騎士だ。


 もう一度、全部を捨ててでもいいから、逃げられないだろうか。うずくまって泣き出したマリスタの手を、彼はとうとう放していた。


「こりゃ駄目だ」


 色々な意味で。騎士の男は天を仰いだ。途中で、あの変わった加護を使って逃げるのではと、期待すらしていた相手だ。少年なのか、少女なのか、多少追い詰めれば分かるだろうと。楽しんでさえいた。


 それなりに距離のある街道は、本来ならば馬を使う。そうしなかったのは、話をしたかったからに他ならない。


 こんなに繊細な娘だったのだ。


 だからなるほどな、とも思う。泣き崩れるまで気づかないようだから「お前は結婚できない」と、年下の上官に言われるのだ。困って頭を掻いていると、砦の門が開く音が聞こえた。


「…………だよなぁ」


 隊服のマントを翻し、足早に来る細身の男が見える。後ろに従うのは護衛騎士で、軍のエリートだ。砦に唯一の黒髪の青年。十五も年下の癖に「お前は結婚できない」と、真顔で言ってきた恐ろしい上官である。


「バダンディール」


 地を這うような声で姓を呼ばれては、敬礼を返す他ない。


「早急に招くよう、命じなかったか」


 怒りを含む声音に、跪いてこうべを垂れる。確かに言われた。ただ、時刻までは言われなかった。見つけて逃げられたそれに、興味を持ってしまったのだ。


「申し訳ありません」

「下がれ」

「は!」


 周囲の声が増えた事に、マリスタは涙の底で気がついた。どうにか泣き止もうとしていると、背中にそっと手を添えられる。


「怪我はない?」


 的外れな事を聞かれて、声の主をぼんやりと見た。随分近くに膝をついている。何度か瞬いて容姿が分かると、ぎょっとした。


 騎士の白い隊服は着ているものの、黒髪だ。それも深く紫がかって艶やかな。


「部下がした事を、許してほしい」


 伏せられる瞳の色は、透明度が高い紫水晶のようだ。頬に睫毛の影が落ちているのを見つめてしまい、開いた紫と目が合う。


「怪我は?」


 もう一度聞かれて、どうにか首を横に振る。自分の背中に添えられた手は、間違いなくこの人のもの。咄嗟に肩を抱いて、身を引いた。彼はそれを気にした風もなく、空いた手でマントを外し、マリスタの頭にふわりと掛けてきた。


「それに少し隠れておいで。誰にも見られないで、中に入れるよ」

「あ、あの」

「僕の手が届く限り守ってあげる。だからおいで。あの時、助けられなかった事を、後悔してるんだ」

「オルヴェールさま」


 擦れた声で呼びかける。


「迎えに来たよ。遅くなって、ごめんね」


 マリスタは唇を噛みしめた。借りたマントを深く被れば、嗅ぎなれない香りが漂ってくる。それが彼の香りだと気づくと、猛烈に恥ずかしくなった。


 その中から出たいのに、周りに増えた騎士も怖くて動けない。急に自分が、ただの小娘に戻ってしまったようだった。


 きっともう、一人でやっていける。


 つい先程までは、そう思っていたというのに。


 助けて欲しいと心はすぐに根を上げて、マリスタの決意を揺らめかす。どうして自分の意思は、こんなに弱いのだろう。それが悔しくて悲しく、辛いのに何故か嬉しいとも思えて。


「あ、あの、わたし」

「今は、少し休もう? 本当の君を知っているは、僕だけだ――――心配したよ」


 マントの上から抱きしめられる。彼を拒む術など、マリスタは持っていなかった。


 夜会のテラス逃避会。二人しかいないその会の、初めて気になった年上の人。優しくて明るくて、話題の豊富な青年は、絶対に好きになってはいけない、この帝国の皇族なのに。


 それなのに、わざわざ探し出してくれたのだ。






 聖ヴェシール帝国の領主はみな、直轄の孤児院を持っている。


 だからマリスタは、自分が良い教育を受けられた事には、感謝していた。代わりに養女として、様々な夜会に行く義務も課せられてしまったが…………高等院入学が決まってからは、寮から帰る口実にしかならない、憂鬱な集まりだった。


 社交会は大人の世界である。


 未成年の少女の役目など、養父の飾りでしかない。口を開く事さえ許されないのだ。必死に笑顔を張りつけて、習った礼でお辞儀する。そういう仕事だと分かっていても、どうにも割り切れない。もやもやするし、値踏みされているようで気分も最悪だった。


 養父は、マリスタが限界になる前に避難させてくれるものの、子供部屋に行けるはずもない。


 かつてのイジメっ子達の巣窟だ。


 だから行き先は庭園だった。雪の日も雨の日も、会場から離れたそこには、人が居ない。


 室内の華やかさに憧れて、しかし混ざる勇気も気力も出ない自分が恨めしかった。そんな淋しい場所に居たマリスタに、ふと声を掛けてきたのが、オルヴェールだ。


 初めは、人が来たので身構えた。その人はお菓子をくれる変わった大人で、六歳だけ上だと笑いかけてくる。テラスに茶菓子を並べてマリスタを呼び、次から次へと面白い事を話す、不思議な男の人だった。


 ずっと、ただの貴族だと思っていた。


 会った事は秘密にしようと言われれば、それ以上に知るすべもない。彼が皇族だと知ったのは、出会いから三年も経った後の夜会で、加護不明と詰られていたマリスタを助けた事に起因する。


「――――黙れ」


 たった一言で、会場の音という音を消し去った。視線だけでその場の人々をかしずかせ、明るい室内灯に照らされる彼は、どこからどう見ても、皇子様だった。


 殿下と呼ばれているのを、知ってしまった。


 淋しいテラスの同胞は、同胞と呼ぶ事すらはばかられるような人だったのだ。


 裏切られた、そんな気がしたのかもしれない。


 第二皇子のオルヴェール殿下。二度と会えないと覚悟した人だ。


 その彼に砦へと連れて行かれたマリスタは、待ち構えていた女官にボロ雑巾の如く洗われて、何かの薬まで飲まされた挙句、ベッドに放り込まれてしまった。


 現実をもう一度悲観するのは仕方のないことだ。しかも気づいたら眠っていて、翌日の朝になっている。


 眠っている時の、恐ろしいまでの図太さは一体何なのか。本当に、一番信用できないものは自分自身である。


 そんなマリスタを叩き起こして、女官は容赦なく身支度させ、オルヴェールの私室だという一室に押し込めていった。焦る背中に、部屋の主が小さく笑う。


「ふふ、別にいいじゃないか。二人きりなど、今更だろう?」

「ち、ちがいますっ」


 思わず睨む。テラスか室内かでは、大きく意味が異なってくる。それを知らないわけがない。


「窓でも開ける?」

「殿下!」

「僕は、どう言われても構わないけど?」


 どうして、そんな事を言ってしまうのか。一生懸命睨んでいると、彼は席を立って近付いてきた。すらりとした高い背に、白い騎士服は良く似合う。マリスタは扉に張り付いた。


「…………その反応は、ちょっと傷つく」

「で、でも」

「パンをくすねて来たんだ。一緒に食べよう?」


 本当に白いジャケットからパンが出てきた。思わず彼を二度見する。


「軍服って、ポケットが大きくて深いんだ。ほら、もう一個」

「な、なにしてるんですか」

「すごいだろう? 覗いてみる?」


 そう言ってポケットの布地を摘まみ、横を向いてクスクス笑う。夜会の会場から、黙ってお菓子を持ってきたような、そんな態度だ。


 いけない事だと話したはずなのに。


 そう思って近寄り、ポケットを覗いてみる。底には林檎の頭が見えていた。


「オルヴェールさま、ダメだと、前に…………」


 視線を上げたら、随分近くから、澄んだ紫色が見おろしていた。大きな手で頬を包まれる。


「目元が腫れなくて良かった」

「…………ど、どうして、ここに?」


 あまり自分を見られたくなくて、マリスタは視線と一緒に話題も逸らしてしまった。


「マリスタが居そうだと思ったから、と言ったら、信じてくれる?」

「…………違うんですか?」

「随分、危い事をしていたからね? 自覚は?」


 言葉に詰まる。どれの事だろう。居候か店員か。偽造の事だとしたら、とても顔向けできない。


「分かっているみたいだね?」

「…………ごめんなさい」

「もう一週間待って動かなかったら、一軍率いて焼き払いに行くところだよ」

「えっ!?」


 ぎょっとして視線を戻すと、頬をやんわりと抓ままれる。整って精悍な顔が、マリスタを覗き込んだ。


「あの辺りで突然、腕のいいもぐりの祝福装飾師がいる、なんて噂になったら、時期的にも君以外の誰だと?」

「しゅ、しゅひましぇん」

「まったく。どうして色々と無自覚なんだ…………まぁ、もういいけどね。そこ、座って」


 示されたソファーに、大人しく座るしかない。彼は扉の外に一言二言いいつけると、何故か隣に腰を降ろしてきた。


「マリスタ。君の才能は、君を助けるけれど、傷つけてもしまう。他者からの羨望の重さと強さを、まるで分かっていない」

「…………」

「容姿についても、無自覚すぎる」

「よ、容姿?」

「…………そういうところ」

「そういう?」


 首を傾げる。変だと言われる髪色は、銀とは言えない灰色で、何故か少しだけ紫がかって見えるのだ。養父はこれを、雪影色と称してくれた。大人だから、優しいから、そう言ってくれたのだと思っている。


 小等院では気味が悪いと言われ、中等院では「幽霊ババア」と蔑まれ、高等院からは赤毛に染めても駄目だった。髪色を語れば因縁しか出てこない。


「マリスタは、僕と並んでも見劣りしないのに」

「みおとり?」

「根が深いな…………」


 何故か項垂れる彼を、そろりと盗み見る。オルヴェール殿下は、出会った時から成人だったし、洗練されていて薄闇の中でも光っているような、独特の雰囲気を持っていた。


 けれど笑うと優し気で、子供っぽい意地悪を言って、困らせてきたりもする。


 月夜の藤花を映したような、つややかな黒い髪。しかも瞳は透き通った淡い紫で、感情を映しているのか、彩度の深さが時々変わるように見えた。


 首を傾けてよくよく彼を見てみれば、白い隊服は爽やかだが装飾も多く、裏地の青や銀糸の縁取り、飾緒に付いた石などと、中々に着る人物を選びそうに思える。


「殿下は、何を着ても、見劣りしないと、思います」

「ありがとう。でも、その見立てはちょっと惜しいかな。こういうのは、誰が着ても、それなりに見えるよう作られている」

「そ、そうなの?」

「マリスタの審美眼は確かだけれど、服は服でしかないよ。見えるものは、誰かにとって美しいものが、形を持ったに過ぎない。本当に美しいものは、見えないものだったら、素敵だろう?」


 どうなのだろうと、マリスタには首を傾げた。


「分らないって顔だ」

「難しいです」

「そうかな? 君自身の話だけれど…………朝食を取ったら、今の状況を話そうか。それから身の振り方を考えようね」

「は、はい」


 身の振り方。その言い方には少し引っかかるものの、流石にここからは逃げられない。皇族の警護は、帝国軍の中でも竜騎士団が司っている。優秀な上澄みだけを集めたような組織だと、民間では憧れと同時に畏怖の対象にもされていた。マリスタはもう、頷くしかないのだ。




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