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9-03:巡りの力

 

 

 

 カーラの屋敷を離れたマリスタは、再び馬車に乗っていた。


 オルヴェールさまの兄である、第一皇子殿下が、面会の時間を空けてくれたらしいのだ。


 昨日の今日なので、マリスタは居心地が非常に悪い。外を眺めたり、スカートをいじってみたりで、落ち着けそうになかった。


「兄上は、怖い人ではないよ」


 そうだと思う。けれど、挨拶もせずに帰ったことが心配だ。普通は怒るし、嫌われる。


「おやつを用意するって、張り切っててね」

「え…………」


 割と容赦なく食べさせてきた彼の元に、今日も食べ物があるらしい。慣れた相手にしか、もう無理だと話せないマリスタは、何も言えなかったのだ。死ぬほど食べたのは、初めてである。


 一体、どんな顔をして会えばいいのか。


 どうやって乗り切れば…………お腹が膨らんでしまうかもしれない。迫る難題に答えの出ないまま、馬車は第一皇子の住まいである、水晶宮に到着してしまった。




「水晶宮へようこそ。たくさん菓子を作らせて、待っていたぞ!」


 固まるマリスタと兄の言葉に、オルヴェールは苦笑した。どんな菓子が好きかと、昨日、軍用伝達で返事が来た時には、何事かと思った程だ。連日のお菓子攻めでは、流石のマリスタも嫌だろう。


 兄の筆頭騎士を探すと、既に遠い目をしていた。


 女性嫌いの主が、ここまで暴走するとは、思わなかったに違いない。話では、父の宮殿からも、菓子作りの得意な料理人を借りたとか。


「兄上、時間を作って頂き、ありがとうございます。彼女が僕の花嫁、マリスティア・レンド・ディアバーグ」


 礼を取るマリスタを、微笑ましく見守る。彼女が夜会用と言っているものは、貴族の普通礼にあたるもの。


 皇族に対する礼は、跪くのだ。


 この立礼は、皇族が皇族に対する挨拶になる。兄も細かい性格ではないので、親しみを込めたその礼を、笑顔で受け取ってくれた。


「オルヴェールが帰ってきて、良かったな。俺はシルキリーク・ニーア・ヴェシール。気楽な第一皇子だから、そう畏まらなくていい」


 返事、と言わんばかりの圧に、マリスタは小さく頷いた。


「…………はい」

「具合が悪いのか?」

「…………い、いえ」


 今日の第一皇子殿下は、長い藤銀色の髪を一つにまとめ、シャツに長めのベストという、砕け過ぎないが固くもない、という服装だ。


 マリスタも居るのに、家族に対するような姿である。


 なんとなく苦手に思うのは、オルヴェールさまと同じ、薄く透き通る紫の瞳で、聖女を見るような、キラキラとした目を向けるからだ。


 馴染みのない視線が、なんだか怖いし恥ずかしい。


 二人目の変な人でも大変だ。


「マリスタちゃん、シルキお兄様って呼んでみて?」

「…………お、お兄、さま?」


 第一皇子殿下が、兄。改めて考えると、それだけで頭がくらくらしてしまう。早々に限界となってしまったマリスタに、オルヴェールは助け舟を出した。


「兄上、マリスタを困らせないで」

「ん? 困っていたか?」

「そうですよ。もっとゆっくり接して下さい。僕のウサギは、怖がりなんだ」


 彼にもウサギと言われ、マリスタは恥ずかしくなって下を向く。レンダークで、雪兎に似た室内履きを履いたから、そう思われたに違いない。


 子供じゃないのに、恥ずかしいのに。あの室内履きのせいで、ウサギと一緒にされてしまった。


「この人のことは、好きに呼んでいいからね」

「待て、何故だ?」

「そういう所ですよ、兄上?」

「…………ゆっくり? 仕方ないな。近いうちに、兄に加えて貰う…………さて、立ち話で悪かったな。中に入ってくれ」


 やっと攻撃の手を緩め、宮殿へと歩き出した第一皇子を見て、マリスタはオルヴェールの背後に移動した。


「隠れなくてもいいのに」

「…………」

「お兄様って呼びたいの?」

「ち、違います」

「ウサギって言ったの、怒ってる?」


 どうして聞いてくるのだろう。そんな風に言われて、怒ったなどと、マリスタは言えない。俯いていると、頭を撫でられた。


「森には、灰色のウサギがいるんだよ。滅多に、見つけられないけどね」

「灰色の、ウサギ…………本当にいる?」

「黒ウサギが、稀にそんな色になるらしい」


 銀より暗く、少し紫がかった髪色のマリスタは、老婆のようだと気味悪がられ、怪我までした事があった。


 この髪は何故か、抜けると白っぽく色が変化してしまう。気持ちが悪かった。自分で思うのだから、周りからそう思われても仕方ない。


「わたし、黒い髪が、良かったです」

「赤い時も可愛かったよ?」

「…………」


 赤くても、やっぱりダメだった。変な色だと言われる。抜け毛は赤かったのに、ダメだった。


「…………マリスタ。灰色のウサギはね、大人になると、毛色が白くなるんだよ」


 ウサギは、そうかもしれない。けれど人は違う。そんな話、聞いたことがない。


「マリスタが白ウサギになったら、お祝いしようね?」

「…………なりません」

「なるよ」

「なりません!」

「じゃあ、もし僕の言ったことが本当になったら――――ご褒美をくれる?」

「え…………」

「賭けに勝つ自信は、あるからね?」

「そ、そんな」


 白くなったらいいのに。せめて、もう少し薄い色になれば。何度も願ったことだった。


 決して叶わない願いごと。


 もしも、この話を信じたら、ご褒美は取り消して貰えるのだろうか。唇を許してしまったマリスタは、オルヴェールの言うご褒美が怖い。


 次は、何を要求されるか分からないからだ。


「マリスタ?」

「ご褒美は、でっ、出ませんから!」

「酷いことを言う」

「ひ、ひどいのは!」


 涙目で見上げていると、彼はマリスタの額に口づけてから、ニコリと作ったような顔で笑った。


「白くなる魔法を、かけてしまおうか?」

「そんなの」

「信じていないマリスタは、ご褒美を出すことになるよ?」


 どうして、そんな事を言うのだろう。それとも、また染めて欲しいのかもしれない。不気味な灰色では、オルヴェールさまだって、イヤなのだろう。


 思っただけで、悲しくなってきた。


「はやく髪を、染めます、から」

「何故? 僕は、この色だって好きなのに」

「悪趣味です」

「なら、悪趣味でもいいよ?」


 くすくす笑いながら、とんでもない事を言い出した。悪趣味でいいと、皇子様が。ぎょっとしているマリスタの手を腕に掛け、彼は機嫌が良さそうな顔で歩き出す。


「ご褒美は何にしようか」

「だ、だめ! 出ないです!」


 この髪色が好きだと、それだけで十分なのだ。ディアバーグの養父様、そのご家族の皆さまだけが、雪影色だと受け入れてくれた。


「オルヴェールさま、わたし………ずっと、この色で、大丈夫です、ですから」

「ご褒美を取り上げようとする」

「大丈夫、だから…………!」

「ふふ、僕は、悪い魔法使いだからね。いつか、マリスタをびっくりさせてしまうかも」

「悪い魔法使いに、ご褒美は出ませんからね!」

「じゃあ、良い魔法使いにならないと」

「なってもダメ!」

「ダメなんだ」


 ずっと笑っているオルヴェールに、マリスタはあれこれ言い募る。頑張りすぎて歩調が乱れたり、つい腕を引っ張ってもしまったが、全く取り合ってくれそうになかった。


 ご褒美強行派に、マリスタは苦戦を強いられている。


 はたから見れば、竜にウサギがじゃれつくような、勝ち目のない戦いだ。


 そんな二人を囲む、女官と護衛騎士達の視線は温かい。吹き抜けの多い水晶宮の中には、二人を盗み見る視線も多かった。


 第一皇子の宮殿は特殊な立場にあり、その中に省庁の一部を抱え持つ。祝福装飾師とその護衛官、通りすがりの文官や騎士の多くが、マリスタを女神の如く拝み始めていた。


 優しさの欠片もない氷神の化身、第二皇子の「花嫁様」だと、一目瞭然だったからだ。


 彼に小言がいえる人間など、家族以外に一人もいない。ご褒美を出したくないと、必死になっているマリスタは、敬語も忘れる程だった。


 皇子にこれが出来る時点で、まさかと思われ、腕を引いた時点で驚愕と共に「花嫁様」だと確定される。


 皇族男子は、妻に特別甘いのだ。


 氷神である第二皇子に、上位の神である星神が降臨したも同然だった。


 花嫁様の庇護下に入ってしまえば、皇子を恐れて口を閉じる事も、過労に追い込まれる事もない。何より、不興を買って即死にもならない。噂は、またたく間に広がるだろう。


 オルヴェールの予定は、その日も完璧に回っていた。


 マリスタの立場を仄めかし、彼女に悪意を向けさせないこと。そして、オルヴェール自身に向けられる恐怖心を、どうにか減らすことである。


 官僚に怖がられていると、意見も出なければ、仕事も異様に進みが早い。使い潰されると悪評が立つ。


 追い込んだ部署もあるにはあるが、そろそろ他の仕事にも影響が出てきてしまったのだ。


「…………分かったよ、マリスタ。ご褒美は諦めるから」

「ほ、ほんとう!?」


 キラキラとした銀の瞳に見上げられ、オルヴェールは残念に思った。今日に限って前髪がない。まだらな銀の瞳は、氷竜のそれと同じ色。視力の良い騎士の何人かは、あんぐり口を開けていた。


「本当。でも悔しいから、マリスタは抱っこね」

「えっ!? 降ろして! 降ろしてください…………!」


 恋人にこんな風に見上げられ、本当にやめる男がいたのなら、ただの馬鹿だとオルヴェールは思う。


「駄目。体力の温存だよ? このままだと、きっと夜まで持たないな」

「え…………」


 その言葉を信じたらしく、マリスタは腕の中で大人しくなった。少し顔を寄せただけて、キスを怖がり両手で顔を隠してくれる。


 安売りはしたくない。近くでなんて、見せたくもない。


 結果、今後マリスタが通うことになる、水晶宮に狙いを定めていた。


 吹き抜けになった階上から、皇族を見おろす事は罪にならない。あからさまにやって不興を買えば、どうかは知らないが、オルヴェールに対して、そんな事をする命知らずは皆無である。


 怖がる故に、彼らはオルヴェールの動向を探りに来るはずだ。群がることなく、少数が行儀良く見に来るだろう。


 これで下地は、上出来だ。


 後はこの宮殿で、マリスタに近寄ろうとする愚か者が居ないか、網を張ればいい。兄には悪いが、粗雑な者は省かせてもらう。花嫁の不興を買えば、それこそ命が無いと、分からぬ者など邪魔なのだ。


 希望には、手が届かないくらいが一番の距離。


 機嫌の良いオルヴェールを、指の隙間から見上げていたマリスタは、不安になった。本当に、ご褒美を諦めたのだろうか。忘れた頃に、別の手で来るかも知れない。


 どう守れば良いのだろう。


 彼の望む自分でいたい。嫌われたくない。けれど、何でも差し出せるわけでは無いくて、望まれても困ってしまう。


 だって、口の次はその下になる。


 街の恋人達と同じなら、きっとそういうことになってしまう。なんだか顔が熱くて、マリスタは必死に手で隠していた。


 どうして、難しい事ばかりするのだろう。大切な人なのに、恥ずかしいことに挑戦したがる、その気持が分からない。ぜんぜん分からない! 知りたくもない!




 弟とその花嫁が、気づいたら後ろに居なかった。


 第一皇子のシルキリークは、部屋の前で、やっとその事を知る。


 話し歩きをする性格ではなく、黙々と考え事に浸りながら歩くのが好きなので、たまに目的地を通り過ぎることもあった。


「二人は何処にいる?」

「こちらの棟には、入られました」


 筆頭護衛騎士のジェリースは、廊下に点々と並ぶ他の騎士達の反応を見て、そう言った。


「女は、歩くのが遅いのか…………」

「姫君はまだ、少女ですので」

「足の長さの違いだと? そんなに違ったか? ん、椅子のクッションは、増やすべきなのか?」

「絶対にやめて下さい。第二皇子殿下は、隣に座られるんですよ?」

「待て、俺は何処に座るんだ?」

「むしろ、どこに座る気なんです!?」


 昨日みたいに、隣に座る気だったら、止めなければならない。ソファーは三人座れるものの、左右が皇子では流石に不憫である。


「…………オルヴェールは、そこまで狭量じゃない。隣に座って、何がいけない?」


 妹は良いと、話ばかり聞かされていたシルキリークに、春が来た。所詮女と思っていたものの、こんなに良いものだとは、と気づいてしまったのだ。


 素直で小さく、何でもよく食べる。


 嫌いだと癇癪を起こさず、残そうとすることもない。行儀もいいし、無駄なことも話さない。綺麗な銀の瞳で見上げられたシルキリークは、この兄が何でも食べさせてやるぞ、という気分になった。


 生き生きとした線を描くマリスタという少女が、折れそうな程に痩せていたのが、衝撃だった。絵には人柄が表れる。繊細な部分も勿論あったが、壊れそうな危うさではなかったのだ。


 シルキリークはマリスタに対して、複雑な心境がある。


 本来彼女は、嫁探しをする気のない、シルキリークに娶らせようと、皇帝が考えていた少女だ。


 オルヴェールが先に妻と選定した為、この話はたち消えたものの、本人を目の前にすると、やはり複雑な気分にさせられる。


 廊下の奥から、やっと先導の騎士が姿を見せた。


 待ち望んだ少女は、オルヴェールの腕に抱かれている。そういえば、あんな持ち方もあったなと、シルキリークは騎士の焦りようを思い出して笑った。


 彫像にはしない持ち方なので、すっかり失念していたのだ。




 廊下の先で仁王立ちしている兄を見て、オルヴェールはマリスタを腕から降ろしてやった。すぐに女官が、スカートのシワなどを直しに来る。


「ありがとう」


 マリスタが言うと、女官は笑顔で一礼してから下がっていった。今日はずっと次席女官が付くらしく、なんだか申し訳ない気分だ。


 女官の多くは貴族が中心で、養女とはいえ、元孤児のマリスタには馴染みが薄い。侍女や側仕えよりも身分が高く、官僚の括りに入るからだ。


 ディアバーグの本家にも数人居たが、侍女との違いは分からなかった。


 そんな彼女の後ろ姿を目で追っていると、オルヴェールに手を取られ、腕に掛けられる。彼はすっかり、恋人や夫婦のする腕組みが、気に入ってしまったらしい。


「あのねマリスタ。兄上は、女性が苦手なんだ。触られると、肌が、ただれてしまうんだよ」


 文句を言う前に、そんな事を話される。


「そ、そうなのですか?」

「でも、マリスタは平気だったから、喜んでいるんだよ?」


 歩き出すオルヴェールの横顔を見上げ、不思議な人だなと首を傾げた。女性に触れると肌がただれる、それだけでも不思議なのに、マリスタは平気だというのだ。


 昨日は、頭が逆さまになりそうな持ち方をされてしまったし、確かに平気なのだろう。


「第一皇子殿下は、夜会でも滅多にお見かけしないと、噂を聞きました」


 会えない、見かけないと、学院の女生徒達は、夜会の後に溜息ばかりついていた。会ってどうするのだろうと、マリスタは不思議で仕方なかった。


「年に一回、行けば多い方だよね」

「オルヴェールさまより、夜会が嫌い?」

「夜会というより、女の人がね…………」

「おいそこ、俺の悪口を話すんじゃない」

「ふふ、事実ではありませんか」


 オルヴェールに笑われて、第一皇子はそっぽを向いた。取り成す騎士は、彼の筆頭なのだろう。昨日の人と同じ、赤茶色の髪をしている。


「殿下のご病気は、治らない?」

「治れば良いけれど、どうかな?」

「お医者さまは?」

「ふん。気持ちの問題だと、頭を下げるばかりだ。役に立たん。俺には妹が出来るわけだし、妻など不要だ」

「マリスタはあげませんよ」

「悔しいかオルヴェール。お前は、兄にはなれないぞ?」

「姉が欲しいものですね?」

「うるさい」


 二人は軽く言い合いながら、部屋に入ると座る位置でもう一悶着した。結果、マリスタは二人の皇子の間に挟まれてしまったのだ。


 他に椅子があるのに、どうして。


 理由など聞けるはずもなく、早速、第一皇子に取り皿を渡される。


「ディアバーグの、雪割りベリーを取り寄せた」


 彼は言うなり、女官の方を見ている。しかしソファーは定員いっぱいで、給仕の入る隙間はない。苦笑したオルヴェールが、どうかと聞いてくれた。


「少し」


 第一皇子殿下はきっと、マリスタが満腹でぐったりするまで、今日も諦めないに違いない。どうせ食べるなら、好きなものがいい。こちらが諦めるしか無さそうだ。


 一粒一粒、丁寧にピックに刺して、皿に乗せてくれるオルヴェールは、マリスタの給仕に慣れている。


 出会った頃のマリスタといえば、好物以外に進んで食べる物はなく、食べて見せたり、よそってみたりと、色々苦労したからだ。


「美味しい?」

「はい」

「カーラのところでも食べたよね? 無理しなくていいよ」

「オルヴェールさま…………!」


 これぞ同胞である。今日は助かるもしれないと、マリスタは希望を持った。


「雪割りベリーは、菓子にもジャムにもしないと聞くが、香りは良いんだな」

「加工すると、香りが飛ぶそうですよ」

「香りが無ければ、微妙だな」


 皇子達の会話が頭上で飛び交っている。ディアバーグの特産品に、果実はあまりない。腐るのが早いから、凍結系の加護を持つ者が、出荷に同行する必要がある為だ。


 雪割りベリーもその一つで、秋に青々と実って雪の中で冬を越し、雪解け頃に黒っぽい姿で収穫される。


 帝都のある皇帝領はディアバーグの下に、一領挟んでから斜め下。直通の列車も無いので、輸送は難しかっただろう。


「これはなんと、竜騎士に取りに行かせたらしいぞ?」

「父上のとろこの竜騎士は、食品輸送の専門家ですからね」

「おかげて分けて貰えたんだが、他の好物を聞けと言われた」

「僕から聞けないからって、そんな手を…………」


 水々しくて味のあまりない雪割りベリーは、吐息まで甘く芳醇な香りにしてしまう。うっとりする。ずっとうっとりしていたい。


「マリスタ、ベリーの御礼に、何を教えてもいい?」


 正直に言って、マリスタの好みに詳しいのは、彼の方である。困って首を傾げてみせると、イチゴかな、と笑われてしまった。


「マリスタちゃんは、香りの良い果物が好きなのか? 帝都のスモモはどうだ?」

「あれは種が大きいし、齧るしかないから、手が汚れます」

「香りはいいんだがな…………そういえばマリスタちゃん、前に、変わった果物の絵を描いていただろう?」


 突然話題を振られ、ビクりと震えたマリスタに、オルヴェールがナプキンを手渡した。


「どんな絵でした?」

「ほら、地面に実る桃とか、木に生えているクッキーとか」

「そ、それは、物語の、挿絵で…………」


 本当に、ラクガキまで見られたらしい。恥ずかしくて小さくなっていると、クッキーが木に生ったら良いな、と第一皇子は寛容だ。


「絵は好きだろう? 祝福装飾師の勉強は、何処までやれた?」

「それが、わ、わから、なくて」

「何故?」

「その、どこまで習うか、知らなくて」

「加護の気配は読めるか?」

「たぶん」

「多分? 分からないのか?」

「えっと」


 どこまで分かれば、分かると言っても良いのだろう。困っていると、オルヴェールが背中を撫でた。


「大丈夫だよ、マリスタ。ゆっくりでいい」

「その、えっと、加護の気配は、どこまで分かれば、いいのかと」

「読めればいい。あんなのに上も下もないぞ? 得意か不得意かの問題だ」

「マリスタは苦手かい?」

「苦手じゃないと、思います」


 なんとか言い切ると、そこに立てと床を示される。


「兄上も見えるんだよ」

「え…………」


 血の気が引いてきた。つまり、無理な調整を掛けているマリスタの祝福が、この震える線画が見えている。しかも祝福装飾師だ。動作まで分かるに違いなかった。


 思わずオルヴェールにしがみつく。


 知られたくない。他の誰より、オルヴェールさまに、だけは。


「オルヴェール、お前はちょっと、外に出ていろ」

「…………マリスタ」

「祝福装飾師は、自分の加護で色々試すことがある」

「知っていますよ…………マリスタ、それならいい? 兄上にちゃんと、見て貰って欲しいんだ」

「オルヴェールさま、でも!」

「女官とナンシスは残すから」

「…………でも、う、うぅ、はい」


 見つめられると、どうしても逆らえない。それが良い事であれば、余計にだ。いつかは直そうと、そう思った。


 昨日、直せなかった時点で、こうなるしか無かったのだろう。


 ソファーを立った彼を見て、胸が急に痛くなる。歩き出した後ろ姿に、気づいたら駆け寄っていた。


「オルヴェールさま!」

「マリスタ…………良い子にするんだよ?」

「ごめんなさい、ごめんなさい、わ、わたし」

「大丈夫だよ。話したくなったら、その時に聞くから。ね?」

「ごめんなさい…………」


 謝ることしか出来ない。彼の望むマリスタと、本来の「わたし」はきっと違う。それは一緒になりそうもなく、望む姿も選べもしない。選べなかった。


「大丈夫だよ。きっと兄上が、いい方向に向けてくれる。マリスタは逃げないで、ちゃんとここに居るだろう? 駄目ならきっと、君の加護が、君を逃がすはずだ」


 一度だけマリスタを抱きしめて、彼は扉の外に消えてしまった。


 呆然と立ち尽くす。全部本当なのに、本当なのが悲しくて、選べない自分が嘘吐きのようだ。


「マリスタちゃん、手早く済ませるから、おいで」


 第一皇子に手を引かれ、隣室に連れて行かれる。そこの床は真っ白で、イヤでも祝福の線画がよく見えた。


「未来視、それも書き変えの未来視の加護を、どうしてこんな事にした? わざと暴走させて、逃げっ切ったとしても…………動けないだろ、これ」


 真っ先に指摘されたのは、逃避の加護だった。祝福装飾師を目指すなら、絶対に欲しい加護を、マリスタは逃げるために潰したのだ。


「…………君がどんな目に遭っていたかは、知ってるよ。でも、逃げた先で行き倒れたら、意味がない」

「寮父一家が、探して、くれるから」

「平民が学領主家の寮父や寮母なんて、普通に変だろう。君を何も守れない」

「…………」

「その加護は元に戻すぞ。次、なんだこれ?」


 国一番の祝福装飾師にも、そんな事を言われてしまった。星神系譜の加護ではあるが、範囲を広げようと思えば果てしなく広く、時間に少しだけ干渉できる、あまり聞かない加護である。


「動かないように調整…………いや、負荷が大きい。気絶するぞ?」


 そのように運用していたので、黙り込む。


「全部で三つの駐屯加護か、もっと調整出来ただろうに…………まぁ、両面焼き付けにしたら、不安定なものでもそれなりに動くって実証か」


 ぶつぶつ言いながら、彼は棚から数枚の紙を取り出した。手渡され、それが加護紙だと気づく。


「宿題だ。それで少しづつ加護を直していけ」

「な、なおす…………」

「俺が描いたら、全体的に違うものになるからな。そうなった時の影響は?」

「えっと、せ、精神が、不安定に」

「宜しい。オルヴェールに心配かけたく無いんだろう?」

「良いのですか、こんなに」


 貰った加護紙は数十枚だ。金貨の小山ができてしまう。


「それから…………これは単なる質問なんだが、地面が好きなのか?」

「え…………?」

「オルヴェールが、マリスタちゃんを、地面のあるところに行かせるなって、言うから」


 きっと知っているのだ。地面があれば、何が出来るかを。オルヴェールさまは、街での暮らしを、何故か細かく知っている。


「わたし、地面に祝福絵画を描いて、上描きできるんです」

「は?」

「そ、その」

「待った、地面? どんな力技?」

「で、でき、ない?」

「出来るか! それは絶対に、禁止だからな!」


 ぴしゃりと言われ、慌てて何度も頷いた。おばさんにも禁止され、オルヴェールさまも、きっと禁止と言うのだろう。


「あの、第一皇子殿下」

「どうして駄目か?」

「は、はい」


 シルキリークは少し迷って、手を振った。人払いの合図である。ナンシスだけは粘っていたが、少しだと言って追い出されていった。


「マリスタちゃん、ラダ王国って好き?」

「…………!」


 問う薄紫の瞳は、知っている人より迷いが多い。この色の瞳が揺らぐと、マリスタは不安になった。


「わたし、ラダが好きか嫌いか、本当は、よく、分からなくて」

「母親の祖国だから?」

「!」

「皇族はみんな知ってるよ。その上で、君を家族に受け入れた」

「…………」

「マリスタちゃんの秘密は、俺たちの秘密でもあるワケだ。つまり、バレる事は避けて欲しい」

「ば、ばれ、る?」

「地面に描いて、加護を与えられる人間は、昔のラダ王族にしか居なかった。意味分かる?」

「そ、そんな」

「普通の人は、まず知らない。皆、ラダに興味がないからな。でも、世の中には万が一って事もある」

「わかり、ました」


 オルヴェールを呼ぶと、第一皇子に置いていかれたマリスタは、床にへたり込んだ。


 地面が加護紙の代わりになると、気づいたのは八歳の頃。他人の足元に、形の定まらない影が、見え始めた頃だった。




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