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9-02:巡りの力

 



 人の多い昼の政務棟を避け、マリスタが連れて行かれたのは居住区だった。


 官僚の多くは、帝城内に家を持つことが許される。


 有事の際もそうだが、政務が溜まると、竜に乗り帝都の自宅まで降りることが減るそうだ。そうなると疲労が癒えず、仕事の効率が悪いらしい。


 女官や側近は主の宮殿に部屋を賜り、騎士は騎士棟という、寮のようなところがあるそうだ。


 そんな話を聞きながら眺める居住区は、宿屋から邸宅まで様々な家が立ち並び、まるで街のようである。


 馬車を乗り継いで向かう先には森があり、その中にぽつりと一件のお屋敷が建っていた。


 灰色の石とレンガの堅実そうな外観を眺めてから、マリスタはオルヴェールや女官に護衛達を引き連れて、敷地内に通される。


 前庭には小さな噴水。地面には、植えたばかりらしい質素な草花が生えていた。


「ハーブだね」

「ハーブ? この草?」


 オルヴェールの言葉に、思わずじゃがみ込む。マリスタの知るハーブは、花も多少は咲くし、何と言っても香りがすごい。


「ふふ、観賞用と違って、花を愛でるものじゃない。香りが強いだろう?」

「香草焼きに、使う…………?」

「そうだよ。料理はもちろん、薬や美容、防虫にも使ったりする」


 思わず首を傾げた。ハーブは薬となる植物で、神殿などでも栽培される。一面に植えられていると、目の回るような強い香りがしたはずだ。


 この屋敷には、大臣になったという、古書店の老婆が居るという。


 …………こんな草が、好きだっただろうか。花も香りも違う気がする。


 彼女には香水の気配すらなく、食事はもっぱら野菜の煮込みと硬いパン。華やかな香りのする、鳥の香草焼きを教えてくれたのは、隣家の奥さまだ。


 扉の開く音に顔を上げると、見知った顔が数人、外へ出てきた。


「――――!」


 マリスタは、声も出せずに立ち尽くす。古書店の老婆と酒屋の女将、香草焼きの奥さまだった。


「なんだい、マリスタ。あたしゃ幽霊じゃないんだよ」

「おば、さ…………」


 どうしたらいいか、分からない。三人は揃いの制服を着て、まるで貴族のように見えた。


「まったく、どんくさい子だね。せっかく逃がしてやったのに、こんなに早く捕まるなんて…………ほらおいで。こういう時は、再会を喜ぶもんだろう?」

「で、でも」


 戸惑うマリスタの背を、オルヴェールがそっと押す。よろりと一歩、二歩。腕を開いたカーラの胸に、そのまま走ってしがみつく。


「おばさんっ!」

「あぁマリスタ。元気そうで良かったよ」


 抱きしめる腕は、思いの外強かった。何度も揉んだ分厚い肩に、制服の飾が付いている。それが少し、くすぐったい。


 しがみつくマリスタに、カーラは苦笑した。


「マリスタ。アタシは熊じゃないんだ。手は背中に回しておくれ」

「背中…………?」

「…………しょうがない子だねぇ。抱擁ってのは、一緒にやるもんだ。しがみつくんじゃない、腕は背中に回しておくれ」


 そんなことを初めて言われ、おずおず腕を広げてみる。がばりと抱き寄せられて、服の下にある、相手の体の感触がした。


「お、おば、さん」

「抱擁くらい、ちゃんとおし。貴族は、こんなこともしないのかい?」

「…………は、恥ずかしい、です」

「はぁ?」


 腕を離すと、マリスタは真っ赤に茹で上がっていた。釣られてカーラも赤面しかけ、手で仰ぐ。次とばかりに女将が抱きしめ、窒息気味のマリスタは、オルヴェールにすぐさま助け出された。


「大丈夫?」

「は、はい…………」


 怒られるかもしれない。もう、嫌われているのかも。


 胸にあった不安は、彼女達の笑顔に、吹き飛ばされてしまった。抱擁もまともに出来ないと、さんざん笑われて、恥ずかしいやら嬉しいやらで、視界も滲む。


「マリスタちゃん、こっちを向いて?」


 奥さんの声に顔を向けると、前髪を耳に掛けられた。晴れた日差しは眩しくて、目を細めていると、そのままピンで固定されてしまった。


「せっかく綺麗な格好をしてるんだから、手抜きは駄目よ?」

「で、でも」

「ほら、殿下もそう思われますでしょ?」

「かわいいよ、マリスタ」


 顔が熱い。髪にさわろうとした手は、オルヴェールと奥さんに、それぞれ阻止されてしまう。


「あ、あの」


 二人を見上げて戸惑っていると、カーラが早くと手招いた。


「他のも待ってるんだ。さっさとおし!」

「ほ、ほか…………?」


 オルヴェールが、知り合いは他にも居るよ、と微笑んでいる。無理やり笑おうとしたのに、涙がひとつ溢れでた。


「オルヴェールさま…………」

「主賓が今から泣いて、どうするの? 再会までは、我慢しないと」

「…………は、はい」


 こんな事があるのだろうか。


 夜会と三ヶ月の街暮らし。その思い出だけで、放浪の生活をしようとした事が、もう遠くに思えてしまう。


 屋敷のホールには、見知った顔が半数近く。女性を中心に輪が出来て、泣き笑いは嬉し泣きになった。


「おばさん、あの…………」


 しかしマリスタには、一つしなくてはいけない事がある。目をこすって深呼吸。


「名前を教えて、欲しくて!」

「くッ!」


 一瞬、ホールは静寂に包まれて、どっと笑い声に包まれた。


「やっとかい? いつ聞いてくるのかと思ったら!」

「だ、だって!」


 マリスタには名乗らせて、彼女は名乗らなかったのだ。このお口で聞いてごらんと、今朝はオルヴェールさまにまで意地悪をされ、頑張った。頑張ったのに!


 周りの大人達は、口を開けて笑い転げている。何故か無性に悔しくなった。


「い、いじわる…………!」

「はははっ、そう拗ねるんじゃないよ。いい時に聞いたもんだね? 教えてやろうじゃないか。アタシの名は、カーラ・レンド・ソフィリア新学領伯だ。どうだい? 外貴族の当主様だよ?」

「ソ、ソフィリア!?」

「学院はもぬけの殻さ。領内の掃除をしてから、甥っ子に丸投げするんだよ。アタシは、気ままな当主様になるってワケだ」

「も、もぬけ? 気まま…………?」

「なんだい? そこの皇子殿下から、何も聞いてないのかい?」


 黙り込んだマリスタに、酒場の女将が溜息をついた。


「興味なかったのよ、この子。絶対に」

「そ、そういう、わけ、では」

「じゃあカーラに、学領主への礼ってやつを見せてみて?」

「え、礼?」


 戸惑っている内に、人だかりの輪が遠のいていく。中心に取り残されたマリスタは、助けを求めてオルヴェールを見た。


「マリスタは、上手だから大丈夫だよ。彼らはね、毎日のように貴族礼を練習させられているんだ」

「れ、練習?」

「官僚は内になるけど、貴族になるからね。貴族礼を覚えないといけない」


 そう言って輪の中に入り、片手を差し出してくれたので、ほっとする。未成年の貴族礼は、まず前に大人が立っていなければならない。


 右手を胸に片足を引き、腰を落としたと同時にスカートを広げる。


 姿勢や目線の下げ方は自然である事が望ましく、この作法を優雅に見せるため、多くの生地を使ったスカートは軽やかに空気を含ませた。


 差し出されたオルヴェールの手に、手を重ねて姿勢を戻すと、拍手喝采だ。彼の微笑みがくすぐったい。


「――――彼女は、マリスティア・レンド・ディアバーグ。僕の花嫁だ」


 どよりと、ざわめきが起こった。こんな所で、宣言されるなんて。拍手や祝福の言葉、指笛なんかも聞こえてきて、急に恥ずかしくなってきた。な、なんで。慌ててぎゅっと、目を閉じる。


 二人の時は、とても嬉しい言葉だったのに。


 それが人に聞かれると、とても恥ずかしい言葉だなんて。


 真っ赤になったマリスタに、顔見知りの大人達は容赦がない。何処のお姫様かと思ったら、本物のお姫様になった、とか、水仕事が下手なワケだとか。髪を梳かすのも下手だと聞こえるし、肩揉みを知らなかったとか。アレも知らない、これも知らないと、暴露大会になってしまった。


 あまりに恥ずかしくなり、オルヴェールの腕にしがみつく。彼はそのままマリスタを抱き寄せて、マントに姿を隠してくれた。


「オルヴェールさま、聞かないでっ」

「大丈夫。全部知ってる」

「!?」


 マリスタは石にように固まった。思ったよりも刺激が強かった事に、オルヴェールは苦笑する。


 こんなに賑やか人達に囲まれていたから、嘆く暇も無かっただろう。彼らには、普段通りにと、通達を出しておいたのだ。


「ほら、アンタ達! おふざけはここまでだ。マリスタがぶっ倒れちまう」


 カーラの声に、周囲はやっと静かになった。ただ、マリスタを抱きしめる皇子様は、まだ笑いが収まらないらしい。


「…………オルヴェールさまっ」


 腕の中で抗議する。彼は、本当に面白い人達だね、とどうにか笑いを収めてから、マリスタの手を取り、カーラの方に足を進めた。


「彼女達と、話をしていてくれる? 仕事に問題が無いか、僕は少し聞いてくるから」

「…………はい」


 怒りたいのに怒れない、微妙な気分になっていると、顔に影がさす。口づけがおでこに落ちてきた。


「良い子でね?」


 颯爽と廊下を進んでいくオルヴェールを見送り、カーラはマリスタの顔の前で手を振った。


「しっかりおし。皇子の色気に、やられてるんじゃないよ」

「お、おば、さん…………わ、わたし」

「ん?」

「キ、キスの良さが、分かりませんっ!」

「はぁ?」

「だから、キスの」

「二回も言うんじゃない! 聞こえてる…………あんなのは、挨拶みたいなもんだろう?」

「あいさ、つ…………?」


 再び固まったマリスタに、カーラは溜息だ。どうしてこの子の本音は、変なモノしか出ないのか。


「頬もデコも変わらない、親愛の延長みたいなもんだ」

「しん、あい?」

「はぁ…………アンタはまず、親愛から始めることさね。愛が分からなきゃ、それ以上なんて、無理に決まってる」

「先…………」


 悩み始めたマリスタに、カーラは額を抑えた。この少女はまだ、女にも育っていないお子様なので、性愛と言うものが分からないのだ。


 皇子は二十歳。体力馬鹿揃いの軍属にありながら、口づけ程度に留めているなど、称賛ものである。


 それ程大切にしているなら、まぁ、味方をしてやっても良いだろう。


「成人しなきゃ、分からない事もあるんだよ。グズグズ悩むのはおやめ。時間が無駄になる」

「…………は、はい」


 どうにか落ち着いたらしいマリスタの背中を撫でて、カーラは加護の範囲を狭くする。足先の動きだけでそれを可能にしたのは、本と片目を閉じた猫の祝福絵画だ。


 常時体力を吸い上げ、広範囲に影響を与えるカーラの加護を、広域と狭域に出来るよう調整したのは、マリスタである。


 その恩は、拾って三ヶ月ほど面倒を見たくらいでは、とても返し切れないものだった。


 このように、マリスタに大恩のある者は、他にもかなりいる。


 褒めても彼女は、恥ずかしそうに小さくなって、コインの一枚さえ求めない。こういう人間に借りを作ると、支払う方は大変だ。


 だからカーラ達は、今までの功績を国に捧げ、重責を預かる決意をするに至った。


 マリスタを心配し、無茶をしないように。その身を守る、箱の一つとなるように。


「せっかくここまで来たんだ。ドクダミ茶を飲んでいくかい?」

「ドクダミ…………ドクダミ茶が、あるの?」


 始めは、死にそうな顔をして飲んでいたマリスタだが、匂いと仄かな甘味に慣れてしまってからは、下町の味になっていた。


「アタシは大臣様だよ? 言えば翌日には、大体揃う」

「ドクダミ茶なんて庶民のもの、所望したのは帝国史史上、貴女がきっと初めてよ」


 奥さまが笑って言うと、カーラは鼻を鳴らした。


「タダで庭に生えるんだ。ここの庭に無いなんて、そっちの方にビックリだね!」

「植えるの?」


 聞いたマリスタに、カーラは顔を思い切りしかめた。二人で散々抜いたあの草を、植えたらどうなるかは知っているだろう。


「植える? 引っこ抜くまで、手伝ってもらうからね?」

「はい…………」

「はいじゃないよ、アタシは嫌だからね!」

「えっ!」

「なにを驚いてるんだい。まさか、アタシが好きでやっていたと?」

「…………違う?」

「好きで雑草を抜くヤツが、何処にいるんだい!? あぁ、頭が痛くなってきた…………」

「そ、そんな、おばさん」


 あの臭い草は、植えたものでは無かったらしい。


 庭に勝手に植物が生えるなんて、初めて知った。これがバレると、また笑い者にされてしまう。懸命に黙り込むマリスタに、周囲の視線は生ぬるい。


「まぁいい、女官達が色々準備をやっていたから、茶会とやらに付き合っとくれ」


 カーラに言われ、少し廊下を歩くと広間に出た。二十名くらいが一堂に会食出来そうな部屋である。全体的に質素で硬質な内装は、お役所のように見えた。


 そんな空間に、貴族の館には絶対にない、逆さに干された花束を見つけて、マリスタは小さく笑う。


 本当に、ここに住んでいるらしい。


 法律ギリギリの組織だったから、心配だった。


 でも大臣にまで抜擢されるということは、良いことだと認められたのだろう。マリスタまで、褒められたような気分だ。


 カーラはマリスタを上座に座らせて、げんなりと窓の外を見た。護衛が多すぎる。部屋に三人、部屋の外に二人、窓の外には見えるだけで三人だ。


 加護を広げると、ほぼ全員が何らかの反応を示す。間違いなく精鋭だ。あの皇子様は、余程マリスタに逃げられたくないらしい。


 そんな護衛騎士達は、連日逃げられては堪らないと、気合い充分なのである。部下を宥めるのに苦労したナンシスだけが、嬉しそうに笑うマリスタを見て苦笑した。


 彼女を留め置く為に、オルヴェールは組織どころか、街ごと帝城に招き入れたのだ。急に百人ほど増えた人口で、居住区は数日間、日用品が不足したと聞いている。


 もぬけの殻になった街は、そのまま整備区画となり、色付きの特別予算はマリスタ案件の謝礼金。


 案件処理に三ヶ月間奔走していた文官達は、頭が皇族からカーラ達に入れ替わり、戦友が来たと喜んだそうだ。


 最前線から帰還した友を迎えるような大歓迎に、カーラ達が戸惑ったという報告書を、オルヴェールは涙目でナンシス見せてきた。


「僕と父が、かなり無理をさせたから、くっ、ふふっ」

「可哀想に、部下を大切にして下さいよ?」

「これくらい鍛えておかないと、新省の官吏としては不安だからね。それに、優しい上司がくれば、歓迎するだろう?」

「ひどい」

「人生には、谷も必要なんだ」


 彼の言う谷には、オルヴェール自身も含まれている。


 氷神の化身と敬われつつ、邪神の如く恐れられているからだ。不興を買えば即死もあり得る上司の元で、選抜された文官達は、寝食そっちのけで仕事に当たっていた。


 カーラ達を、泣いて歓迎するのは当然である。


 上手く回したものではあるが、女一人にここまでするかと、ナンシスは飽きれてしまった。


 もっと、普通の恋愛から教えるべきだったと、反省はしているが…………よちよち歩きに、オシメの頃から見てきた皇子の恋愛指南。まぁ、ハメは普通に外れたワケだ。


 しわ寄せを受けているマリスタは、そんな事など知りもせず、ただこの再会を喜んでいた。


 いつか裏切られるくらいなら、そう思って手放してしまった関係は、変わらず温かいままにある。


「お仕事、忙しい?」


 今の不安を聞いてみると、呑気に茶会が出来るくらいに忙しい、とカーラは周囲の笑いを誘った。


「手続きが多過ぎて、足が遅いったらありゃしない。文官の尻を叩く、簡単な仕事だよ」


 首を傾げるマリスタに、女将が「急かしているだけ」と注釈を付ける。


「わたしにも、手伝うことが」

「アンタは、来なくていい」

「えっ!」

「お后様になるんだろう? しっかり勉強しておきな」

「…………う、うぅ」


 后など、マリスタが喜ばないことは、カーラもよく知っている。


「トニ、アンタは助けてやれるかい?」


 呼ばれたのは、未亡人で猫屋敷に住むトニさんだった。グレイヘアに青い瞳の老婦人は、后は無理よ、と淑やかに笑う。


「皇族の妻に必要なものは、頭じゃなくて、健康な身体って聞いてるわ。貴女、もっとお太りなさい?」

「えぇ…………」

「アンナ、侍女ならやれるかい?」


 香草焼きの奥さま――――名前はアンナと初めて知った――――には、根っからの庶民には無理、と匙を投げられる。


「まあ、そういうことだ。アタシらが、アンタを手伝えないように、アンタには他にする事がある。来れない距離じゃないんだ。何かあったら、遊びにおいで」

「…………はい」


 項垂れたマリスタに、背後に控えた次席女官が耳打ちをした。


「希望されましたら、翌日には必ず会えますよ」

「ほんとう?」

「もちろんですよ」


 許可の出たマリスタは、カーラの方に振り向いた。良かったねぇ、とげんなりした顔で言われたが、嬉しさの方が大きい。


 マリスタにとって祖母のような彼女は、間違いなく心の支えの一人なのだ。


「おはさんが、ここに来てくれて、良かった」

「はぁぁぁ…………なに仕出かすか分からない孫なんざ、お断りだよ。シャキっとおし! シャキっと!」

「はい!」

「ったく、返事が良くても、身がなきゃ意味がないんだよ。普段はなにをしてるんだい?」

「…………食べて、散歩をして」


 はたと言葉に詰まる。よく考えると、何もしていない。貴族の日常としては、別に変わったことでは無いのだが…………これだからお嬢様はと、呆れられるのは確実だ。


「アンタまさか、食って寝るだけじゃ無いだろうね?」

「うっ、えっと」

「丸々太ったら、食われちまうよ?」

「え、えっ!?」


 ぎょっとしたマリスタは、慌てて弁明した。一日一食はダメな事。加護を体力の足しにしない事。背が伸びないとか、大人になれないとか、他にも色々言われたが、一番重要なことがある。


「人は食べられないと、神官さまが…………」


 言いながら、部屋の静寂に気がついた。彼らがこういう反応の時は、世間知らずと笑われる前兆なのだ。


「まっ、待って、言わないでっ! これは本当のことで!」


 慌てて火消しに走ったものの「神官様」というトドメの言葉に耐え切れず、巻き起こった爆笑は、護衛騎士一人を脱落させる程だった。


 両手で顔を覆う。本当なのに。人は食べられないと、神官さまは言っていた。


「うぅ、ど、どうして…………」

「アンタが相変わらずで、安心したよ」

「ひどい、おばさん、本当なのに!」

「まぁ、アタシらも久々に笑わせて貰ったから、一ついい事を教えてやろう」


 意地悪く笑ったカーラが言うには、この話を自分からオルヴェールさまに話すという、中々に難しい事だった。


「イヤです。笑われます」

「あの皇子様は、絶対に笑ったりしないだろうよ」

「そうかも、しれなくても…………」


 優しい彼は、笑われたマリスタを慰めてくれるかもしれない。でもそんな事より、まず、知られたくないし、それが無理なことも知っている。


「困らせておやり」

「わ、わたしが、オルヴェールさまを?」

「あの若造は、少し困った方がいいんだよ」

「な、なんで? おばさんは、オルヴェールさまが、嫌いなの?」

「好きなもんかい、孫を攫った悪い男だ」

「さ、攫われた、わけ、では」

「ふぅーん?」


 きっと、困ったオルヴェールさまの話が、聞きたいのだろう。人の不幸は蜜の味と言うらしく、この老婆はそういう話が大好きなのだ。


 今ならマリスタも、自身の不幸話が出来そうな、そんな気がする。でも笑われてしまったら、やっぱり悲しくなるだろう。


 それとも、笑い飛ばされた方が、良いのだろうか?


「まぁ、アンタはアンタだ。他人の求める姿になんて、なるんじゃないよ」

「他人の求める、姿?」

「優しいのは良いことさ。でもね、自分を明け渡すなんて、優しさじゃない。自分でなくなったら、一体なになるんだい?」

「わたしじゃ、ない?」


 彼女は時々、こういう難しいことを話すのだ。


 オルヴェールさまを困らせる事、不幸な話、自分は自分…………


「…………よく分かっていないね? じゃあ、意地悪を言うようだけど、よくお聞き。アンタの皇子様は、何を求めているんだい?」

「え、えっと」

「子猫かウサギみたいに、可愛がられる存在だろう? アンタにもそうなって欲しい。違うかい?」


 多分、違わない。きっと大人しく良い子でいて欲しいと思う。可愛いとよく言われるし、それが別にイヤではなくて…………彼の求めるマリスタになったら、もっと傍にいてくれるかも。そんなズルい事を、少し考えたかもしれない。


「愛でられる人生が、幸せじゃないとは、言わないよ。でもね、思い出してごらん? 一人で街を出た時、何を思った?」

「わたしは…………」


 描いた祝福が、人々を照らす瞬間が好きだ。


 彼らの喜びや感謝が、生きる勇気を与えてくれる。それに報いたいと願った――――でも皇子妃に、ゆくゆくは皇后になってしまったら、どんな生き方を求められるのかも、分からない。


 自分の願いは、重かったのだ。


 忘れてしまいたいほどに。


「六つも年上で、あの性格の皇子じゃあ、色々厳しいだろう。でも敢えて言うけどね、アタシはマリスタが、元気でいてくれる方が嬉しいよ」

「…………おばさん」


 わたし、らしい、わたし。


 元気なわたし。


 自分でも、望んだことが無かった、そんな自分を望んでくれる。


「おばさん、大好き!」


 教えた通りに抱きついてきたマリスタを、カーラもぎゅっと抱きしめた。


 抱きしめてしまったら、手放せなくなりそうで怖かった。だから、背中を撫でるに留まったのだ。けれどもう、手放す必要はない。


 カーラは加護修正省の大臣で、マリスタに借りのある仲間の多くが官僚に、その部下にと起用されている。マリスタを泣かせたら、皇子だろうが皇帝だろうが、噛みついてやる。


 広間に入って来た第二皇子殿下に、カーラはニヤリと笑ってみせた。




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