9-01:巡りの力
先に目覚めたオルヴェールは、カーテンが朝日に光っていることにホッとした。
腕の中のマリスタは、まだぐっすりと眠っていて、頬をつついても起きそうにない。ひとまず、髪からリボンを解き、ゆるい三つ編みをほぐしてやる。
マリスタは、髪を編まれるのが大嫌いだ。理由は知らないが、どうせ心無い誰かに、強く引かれでもしたのだろう。
普段はゆるく波打つ灰色の髪が、編まれたクセで細かくうねる姿は豪奢で、これも嫌がりそうだと苦笑する。
「さて、どうするか」
このままでも構わないと言えば、そうなのだが、一度起きると目が冴えてしまう。二度寝は出来ない。
ただ起きるとしても、マリスタを一人寝させては努力が無意味になってしまう。
選択肢は眠る彼女を、自室に連れ戻るの一択だった。
朝の鍛錬に行くわけにもいかず、ナンシスを部屋に呼び寄せる。
駆け付けたナンシスは、私室に通された後、一瞬顔をしかめて、どうにかそれを取り繕った。
オルヴェールの膝を枕に眠る少女は、一回り小さくなったように儚く見える。比較対象が強すぎだ。
「生きてます?」
「生きてるよ。そこに座って」
「…………?」
言われた通りに座ったが、オルヴェールは何故か人払いまでしてから、思案顔だ。
「ナンシスはマリスタのこと、どう思う?」
そして、こんなことを聞いてくる。彼も結構やられているようだ。
「可愛いお姫様にしか、見えません」
「満点の回答をありがとう。でもそうじゃなくて、仕える相手としてだよ」
皇子の筆頭護衛は、その妃の筆頭となる為にあるようなものだ。クソガキみないなオルヴェールに妻が出来たら、楽できると、ナンシスは自分を諭したこともある。
「主として見るなら、まぁ、頼りないですね。十四歳ですし、思った事もなかなか言ってくれないですし。もどかしいというか。良い子ですけど、口より先に足が動くのが何とも…………」
何かを訴える瞳は、すぐに前髪が隠してしまう。心に踏み入っても、何とかする自信はあるのだが、オルヴェールと三角関係になったら、それこそ悪夢だ。
「もしかして、巻かれたこと、根に持っている?」
「そりゃそうですよ! 普通の女の子に巻かれるとか、もう…………俺、オルヴェール様だって、逃がしたこと無いんですよ?」
「僕はナンシスで、護衛は巻くものじゃないと気づかされたよ」
「巻かれたら仕事になりません」
「その通り…………」
マリスタが加護の制御を覚えたら、今以上に巻かれる確率は上がるだろう。ディアバーグ家の巡りの力。その上位の加護を、マリスタは持っている。
「俺以上の適任者に、心当たりが?」
「無いよ。あったら最初から連れて行ってる」
「ご懸念がおありで?」
「うーん」
オルヴェールが、こうして迷うことは多くない。ナンシスは筆頭のクビかと、内心ヒヤリとしてしまった。
「それ程悩まれるなら、俺に話す必要など無いのでは?」
「あるから悩んでいるんだよ…………ナンシスは、マリスタがラダ王国に縁を持つと言って、どう思う?」
「ラダですか…………まぁ、人なんて流れますし、なんとも」
そもそも戸籍上、マリスタの両親は不明となっている。それはナンシスだけでなく、彼女に仕える全員が知るところだ。
「それを悩まれて?」
「うん。本当は、皇族だけの秘密にしたかった。でも、やっぱりこのままだと、マリスタは守り切れない、そんな気がして」
オルヴェールは、星神の加護を持っている。時間も司るこの神は、時折、予言のようなものを与えることがあるらしい。ナンシスは腕を組んだ。
「どうしてラダなんです? まさか、帝国民から守れと言うんですか? 貴方の花嫁を」
ラダ国民が帝国民を嫌うように、帝国民もラダ国民は大嫌いだ。ソフィリアの事件後、その傾向は強まったように思う。
しかし彼が、大切な花嫁をわざわざ民衆に晒すとは思えない。
「ラダ王国の方だよ。ラダに知られたら、何に変えてでも、連れ戻そうとするだろう。この子は慈悲によってもたらされた、巫女だから」
「巫女? どういう事です?」
「ナンシスは、ラダから氷竜が居なくなった話を、どこまで知っている?」
「戦争ばっかやってて、氷神の加護を無くしたとか、その程度なら」
「詳しく話そう」
「え、俺、歴史とか聞いてると、眠気が」
人の二倍以上は、剣も槍も振り回してきたナンシスだ。座学は付け焼き刃でしのぎ切っている。眠るマリスタが居るだけで、少し癒やされてしまうのに、歴史なんて拷問だ。
「ナンシス」
「今ですか?」
「氷漬けにされたいの?」
「分かりましたよ…………」
オルヴェールの迷いは、消えてしまったようだ。朝から歴史。少し恨めしく、眠る少女を見てしまう。早く起きないだろうか。
「他言無用だ、いいね」
「墓まで持っていきますよ」
覚悟を決めると、オルヴェールは声を落とした。人払い済みにも関わらず。余程言えない話らしい。
「アダマス、クリウス、プロテナは、氷竜の生まれる三つの氷雪山の名で、氷神が残したという事は知っているね?」
「涸れたのは確か、ラダのアダマスでしたっけ?」
「そう、アダマスは涸れて、ただの岩山になってしまった。でももし、その山が元の氷雪山に戻るとしたら?」
「軍備増強ですね。こっちは、たまったもんじゃない」
「それもある。でも問題なのは、なぜ元に戻るかだ」
「山に加護が戻ると? 氷神がそんなに慈悲深いなんて、聞いた事ありませんけど」
星神の属神であり、寒さを司る氷神。ひとまず慈悲があるとしたら、瞬殺できるくらいだろう。それくらいに優しさのない神だ。
「そこだよ…………ラダには古い伝説がある。神々が訪れる前から星を読み、氷雪の中で生きた彼らを、最初に祝福した神がいた。その力によって、涸れたアダマスは蘇る。前よりも強い力を持って」
ぽかんとオルヴェールを見てから、ナンシスは口を開いた。
「いや、そんなの困るって。ラダが力を持ったら、真っ先に帝国に攻めてきますよ?」
「当たり前だろう? 限界領域に接する全ての土地が、かつてはラダのものだった。三つの氷雪山、全てがね」
「え、ちょっと待って下さいよ、それと姫様の関係って…………」
ラダ王国がその事を知ったら。その鍵が、眠りこけている彼女だとしたら。大変なんて言葉では、足りなくなる。戦争の引き金だ。
「星神が残した慈悲は『竜血が三度許す時、巫女は再び王冠を得るだろう』という予言だけ。僕たちも意味が分からなかった。マリスタを見るまでは」
「そ、それって、古のラダ族が失った、竜の巫女ですか? 見渡す限りの氷竜を、ただの一人で従えて、国土を守ったとかって、伝説の…………」
「うん」
「うんって。それが姫様? マジ?」
誰が見たって、氷竜を怖がっている少女が、竜の巫女。
何の冗談かと言いたい程だ。そもそも、いきなり竜に触らせるオルヴェールの鬼っぷりに、多くの騎士がドン引きした事だって、記憶に新しい。
氷竜は相手を選ぶ。
気に入らなければ、長い尾で弾かれることさえあるのだ。初心者を、無闇に近寄らせていい相手ではない。
しかし竜の巫女なら話は違う。
思えば氷竜達の興味は、常に彼女にあったのだ。オルヴェール一人だったら、あそこまで注目されはしないだろう。妻だから、気にしていたのでは無かった。
巫女なのだ。
「ただマリスタは、成人頃まで呪われているから、その力は不安定だよ」
「呪い!?」
「彼女の両親は気づいたんだよ――――前々帝の長女で、初めてラダに嫁いだ王女が一人目。二人目がその娘。そして三人目はマリスタだとね?」
「竜血って、ヴェシール皇族の事ですか? 二人目は一体誰と…………」
「前々帝末皇子の長男で、新ディアバーグ学領伯の実兄だよ。加護が強すぎて、神殿から一歩も出た事がないと言われる人だ」
「えぇ!?」
つまり彼女の両親は、いとこ同士になる。皇族じゃなきゃ、婚姻なんて…………婚姻したなんて、記録は無かった気もするが。
「マリスタは、父親のことを知らないようなんだ。だから聞かれても、言わないでやって欲しい。ディアバーグ家が執拗に、彼女を本邸に留め置きたかった理由は、これで説明がつく。家族が欲しかったこの子に、それを言わず、本邸に留めたせいで苦しめた。彼らに今更、血縁を名乗らせるつもりはない」
その通りだ。愛も守りも不十分な上に、やすらぎすら無かった家だ。ディアバーグ家に彼女の私物の取り寄せた時、あまりの少なさに驚いた。ナンシスでそれなのだから、オルヴェールの怒りはどれ程か。
「姫様は貴方の花嫁で、だから竜血に許された三人目…………」
「そう。マリスタはもう、王冠を得ているよ。だから危ない」
「ラダに攫われたら、涸れた氷雪山が蘇る…………どうせなら、ウチの氷雪山をもっとバキバキに」
「出来るかもしれなよ」
「マジ?」
思わず身を乗り出したナンシスは、マリスタを見た。今だって氷竜は過去最高の繁殖期に入っている。それ以上に出来たら…………いやまさか、これもそうなのか?
「まだ調整は無理だろう。成人するまで、マリスタの加護は安定しない」
「呪い、でしたっけ?」
「うん。どうして国境から離れた、ディアバーグ領に彼女を託したと思う?」
「夫の故郷だったから?」
「マリクランタ第一王女には、その時期夫が居たはずだ」
「不貞?」
「うーん、なんて言えばいいかな。前ラダ国王の子達は皆、今でも不能の一族なんて呼ばれていてね。特に第一王女には夫もいたし、無理やり生ませることは、可能なはずだ」
ラダは女性の立場が非常に弱い。氷雪山の枯れた原因が、かつての女王だと思っているからだ。女など子を生む道具。もしかすると道具ですらない。そんな国である。
それで移民も多いワケだが、加護など当然授かれない。
国を捨てた時点で、内なる祝福は綻ぶことが多いのだ。幼少期からの祝福教育もなく、敬虔さもない。よって犯罪者という目で、帝国民には邪険にされてしまい、本当の犯罪者となって労役送りになる。
「ラダの女性は、まぁ、可哀想ですけどね。でも、生まれない? まさか、竜の婚姻ですか?」
「恐らくね。女性で妊娠しないなんて、それしかない。彼女の子供は、ラダに栄冠を与えるかもしれないから、かなりの男と娶せられたみたいだよ。避妊なんて出来るとは…………」
「うぇ、あの国懲りずに、まだそんな事してんのか」
「でも天罰があった」
「天罰?」
「一年ほど失踪した王女は、戻って来た時に、二度と妊娠できない姿になっていたんだ」
「いやむしろ、なんでそんな国に帰ったんです? 姫様とディアバーグに居れば良かったのに」
そうすればお姫様が、孤独にならずに済んだのに。制御出来ない強い加護は、周りの人間から、本能的に恐れられてしまう。
何故手厚く守らなかったのかと、聞けば聞くほど口惜しい話だ。
「彼女の存在を、隠したかったんだろう。そもそも、どうやってディアバーグまで行ったと思う? 監禁されて強姦されるばかりの王女が」
「…………城から出るだけで、一苦労では」
「そう。だから王女は、母の祖国であるヴェシールに助けを乞った。病が重いから、祈祷師を寄越して欲しいと」
「あ、それなら知ってますよ。最初で最後の友好期間とか言われた時に、ラダにヴェシールの皇太子が行ったとかって話」
「…………第三皇子だよ。彼は高位神官でもあった甥の、クレスティス・レンド・ディアバーグを連れていく。皇子と一緒なら、加護の重さはどうにか出来るからね」
「そこで二人はヤってしまったと」
そもそも、ヤるのにも一苦労だと思うのだが。それが眠り姫の親かと思うと、瞬発力には納得がいく。
「…………まぁ、そうなんだろうね。子が宿った事に、王女は気づいた」
「当然ラダに、栄冠なんてやりたくはない」
「その通り。クレスティス・レンド・ディアバーグは加護が過剰の高位神官だ。彼には一つ、切り札があった…………呪いだよ」
「高位神官が呪い? 加護の全部が消し飛んだって、足りるかどうか」
「多分、足りなかったと思う。彼はラダの何処かに葬られたんだ。だから王女は、ラダに戻る決断をした。竜の婚姻相手なら、墓でも良いから傍に居たいと願うはず」
皇族であるオルヴェールが言うのだから、そうなのだろう。現皇帝は子供達にも愛を向けるが、酷ければ嫁に九割…………氷竜は子育てしない生き物なので、分からなくもない。ないのだが、人としては、ちょっとナイと思ってしまう。
「彼の使った呪いは、恐らく、自分の姿を相手に着せる物だろう。星神の加護を最大限に悪用すれば、可能性はあるからね」
自分の姿を他人に着せる。簡単に言うが、伝説級にあり得ない。皇族相当の加護があって、やっとだろう…………神官の父は元皇子。まさかディアバーグ家は、加護の重さまでもを隠していたと?
皇族は皇族の中で育つ。
加護の制御は、同じ皇族にしか教えられない。だから当時の第三皇子は、わざわざ甥を神殿から連れ出したのだ。
国事という名目が無ければ、手が出せなかったに違いない。
「つまり妊娠した王女は、神官として使節団とヴェシールに帰り、神官クレスティスとして、ディアバーグ戻ったと」
「だろうね」
「え、男として産んだって?」
「…………腰から上だけだったと思うよ。全身なんて、命を賭けても無理な話だ」
ナンシスは薄いマリスタの身体を思い出し、頬を引きつらせた。呪とは反転するものだ。特に出産などして身体に変化があったなら…………
「ま、まさか姫様も?」
「だったら女官が、部屋に駆け込んで来る」
「ちょっ、オルヴェール様、まさか、そこを確認させたとか」
「…………」
「え、やっぱり疑って?」
「…………」
「俺と変わらないじゃ、ないですか!」
呪いがあると知っているのだ。上はともかく、下はどうかと気になるものだ。この可憐な見た目で、実はなんて事になったら、ナンシスだって軽く人間不信になるだろう。
「マリスタは、ちゃんと女の子だよ。これ以上聞くな」
「…………ひ、ひとまず、それだけ分かれば。いや、でも呪いって?」
「父親が、腹に居たマリスタの加護まで前借りしたんだよ。だから加護が、不安定になっている」
「それでも、すごい数使ってるような、気がしますけど」
「マリスタの加護は、僕らと同じだからね」
「は?」
「竜の巫女だよ? 竜の上で加護が動かないなんて、そんな事があると思うの?」
「でも姫様、竜、苦手ですよね…………?」
「うん…………まぁ、巫女になってくれなくても、良いんだけどね」
竜の巫女なのに、竜が苦手って。笑って良いのか、泣けば良いのか分からない。ガシガシ頭をかいてから、ナンシスは顔を覆った。
「まさか、雪竜の雛のあれって…………!」
「マリスタを、母親だと思ったんだろう。雪竜は、氷竜や風竜の子種を、王女の腹から産ませた混雑種。巫女は間違いなく、生みの親だよ」
竜の背中で動くような強い加護があれば、簡単に死ぬことはない。出来るわけがないのだ。だから戦があると、皇族が真っ先に先陣を切る。
それでも痛みはあるわけで、幼いオルヴェールが大怪我をした時の悲惨さは、夢に見たらうなされる程だ。
「姫様を守らないと…………」
「頼むよナンシス。羽は無いけど、逃げるのは上手いからね」
「…………風の数を増やして下さいよ!」
「もう四人付けてる。皇帝より厳重だからね?」
風というのは、暗殺者等の始末を専門とする、秘密護衛の通称だ。竜騎軍の一部であり、普段は他国や市井の監視、危険人物の極秘処刑という、国の黒い部分を請け負っている。
「ひとまず、竜が苦手な内は、逃げられないよ。ここは自然の監獄だから」
それでも、一人にさせたら危険しかない。
「俺、どうしたら良いんでしょうね? 走り込みの数でも増やします?」
「早く、マリスタと仲良くなって」
「…………いやぁ、それは、ちょっと」
「何故?」
「オルヴェール様と三角関係とか、絶対に嫌ですよ?」
「…………」
オルヴェールにとってマリスタは、唯一の花嫁だ。しかしマリスタにとってオルヴェールは、異性の一人でしかない。そこを気にしなければならない事は、お互いにとっても複雑だ。
「…………そんな事には、多分ならない。だから頼むよ」
「俺は、貴方だって大切なんですよ? 弱いところに付け入れば、簡単に落ちそうなお嬢さんなんだから、さっさと仕留めて下さいよ」
マリスタは獲物じゃないし、捕らえておきたいわけでもない。それが建前だとしても、依存で縛り付けたら、彼女はずっと救われないままだ。
オルヴェールは、これ以上傷を負わせたくないと思っている。
「うーん、長くなりそうだね」
「どうして恋愛には弱気なんです? 押し切って下さいよ。平和のために!」
「が、がんばるよ…………」
押したらそのまま、マリスタは逃げて行くだろう。
眠る彼女の頭を撫でて、少し胸が苦しくなった。自分を抱えるだけでいっぱいで、オルヴェールが気持ちを向けると、マリスタは困ったような、少し怯えた表情をする。
他者を抱える余裕が、ないのだ。
「話は以上だよ。そろそろ起きそうだから、予定通りと伝えてくれる?」
「ええ、ええ、分かりましたよ」
ジト目で見てくるナンシスを、早くと部屋から追い出した。恋愛指南をされている時に、マリスタが起きては困ってしまう。
歳上の優しい皇子様。
マリスタの望む姿に擬態するくらい、苦でもない。だから、早く元気になって欲しい。本来の彼女に、愛してほしい…………きっと竜のように好奇心が強くて、気に入った人にはよく懐く。そんな女の子なのだろう。
「うぅ…………ん」
何度か身じろいで、マリスタは薄っすら目を開けた。薄紫の瞳がこちらを見ていて、不思議に思って手を伸ばす。
「…………?」
頬に触れた。あれっと思う内に目が覚めて、慌てて指を離したものの、手首を掴まれてしまう。
「おはよう、マリスタ」
「お、おはよう、ござい、ます…………」
手のひらに口づけられて、慌てて掛布を引き上げる。ここはベッドではなくソファーで、枕は彼の足だった。なんでと一人焦っていると、上体を起こされ、後ろから抱きしめられた。
「ただいま、マリスタ。留守番させて、ごめんね」
「…………オルヴェール、さ、ま」
声が震えた。何から話せば良いのだろう。寂しかったと言って、困らせたくはない。逃げた事は、もう知っているだろうか。
「ナンシスと遊んだみたいだね?」
「…………」
「鬼ごっこに勝った、感想は?」
「…………わたし、その、迷惑を」
「誰も、そんな事は思ってないよ」
「でも」
お腹にまわる二本の腕に、そっと指を掛ける。怒られるかもしれない。それでも祝福を直したかった。
「わたし」
「うん」
「竜の上で、もっと、お話、できるように、なりたくて」
「地面を探してた?」
「…………」
「祝福に細かく調整をかけると、心への負担も大きいよ。知っているね?」
「でも」
「今度は、もっと近くを飛ぶから大丈夫。それに、竜の上では、基本的に加護は動かない。気絶するのは、そのせいじゃないよ」
「え…………そんな、加護が、動か、ない?」
「マリスタが気絶したのは、僕と竜のせいだから」
「…………!」
後ろを仰ぎ見ると、彼は苦笑していた。素の状態で、あれほど気絶したのかと、マリスタには違う心配が増えてしまった。
「竜にはね、本来訓練してから乗るんだよ。乗っているだけでも、馬車と違って体力もいる。だから疲れてしまうんだ」
「…………」
「兄とも会ったんだってね? 変わった人だっただろう?」
「…………いっぱい、お菓子を、食べさせられて」
「ふふ、断れなかったんだね?」
「だって、気に入らなければ、作らせるって」
「マリスタと、仲良くしたかったんだよ。許してあげて?」
「わたし、お礼も、なにも、できなくて」
「また会ってくれるかい?」
小さく何度か頷いた。むしろ、会ってくれるだろうか。思い返せば、とても良くしてくれた。それなのに、お礼も退出の挨拶もしていない。
「名残惜しけれど、そろそろ起きようか。今日は、カーラに都合を付けて貰ってるんだ」
「…………カーラ?」
「マリスタの好きな、おばさん、だよ」
思わず腕の中で振り向くと、額に口づけられた。
「もしかして名前、知らなかったの?」
「…………だ、だって、ば、ばあさんって、呼べって」
「名前じゃないよね?」
「そ、そう、でも…………なんて聞けば、いいか」
「名前教えてって、言えば良いんだよ」
みるみる萎れてしまったマリスタに、オルヴェールは苦笑した。貴族の付き合いは、まず名乗るところから始まる。名乗らない相手に、どうして良いのか、分からなかったのだろう。
聞きたいのに聞けない。ちょっと可哀想ではあるが、その時のマリスタは、きっと可愛かったに違いない。
「カーラの、今の名前を教えてあげようか? それとも、自分で気いてみる?」
「教えて」
懇願するように言われたので、頬に口づける。マリスタは、なんで、という非難の視線を向けてきた。それも、よく見なければ分からない、小さなものだ。
多くの人が、彼女には表情がないという。
もちろんそれで構わない。言葉以外で、素直に訴えるそれを、知ってもらう必要はない。
「かわいいな。どうしてくれよう?」
「な、名前、教えて…………」
「キスしてからね」
「えっ!?」
優しい先生には、いつなってくれるのか。
マリスタが涙目で訴えても、あまり許して貰えない。どうして、これをしたがるのかも、分からない。
時折見える薄紫の瞳は近くて、呼ばれる声は優しくて、イヤと言えぬまま流される。顔が熱くて、口が溶けてしまいそうだ。
真っ赤な顔のまま部屋に運ばれたマリスタは、即浴室に連れ込まれ、くまなく全身洗われた。
オルヴェールのところには、何故手を付けなかったんだと、次席女官からクレームがきた。
「…………これが約二年間続くのか」
自分で決めたことではあるが、なかなかの苦行である。それでも、マリスタが望まぬ限り、そうした機会は無いだろう。