8-02:それぞれの秘密
寝るか、食べるか、散策するか。
マリスタは暫く、そんな生活を強いられていた。自称休暇中の皇子様は、規定量を食べさせる事にも余念がない。あと二口を拒むと、三、四と何故か数を増やされる。
お腹が膨らみ過ぎて、部屋から出られない夢を見てからは、もう食べられないと申告もした。
「そう、僕の手から食べられないなら…………次は口移しかな?」
オルヴェールの脅しに、マリスタは屈するしかない。彼は割と本気なのだが、マリスタの頭に浮かんだ口移しは、街で見た鳥の親子のそれだった。
黄色い口を賑やかに開け、餌をねだる雛鳥は可愛かったが、親鳥に半分以上の嘴を顔に突っ込まれている時は、苦しそうに見えた。
人の顎は外れると言うけれど、それでも多分無理がある。人の口移しとは、どんなものなのだろう。血の気が引いてきた。
結果、自主的に食べる量は増えたので、もう少しと口に運ばれることは随分減った。
すると、身体に余力が出てきたらしく、失ったと思った加護が動くようになったのだ。手のひらに作った小さな氷は、星神の属神である氷神の代表的な加護の一つだ。
「オルヴェールさま!」
思わず飛び跳ねてしまった。小さな氷を見たオルヴェールは、一瞬目を細め、それをぱくりと食べてしまう。
「あっ!」
「うん、美味しい」
「食べちゃダメです!」
そうは言っても、マリスタだって食べたことはある。甘みの強い味がするのだ。
「それじゃあ、どうするつもりだったの?」
「え、えっと…………」
多分、食べていただろう。その為に小さく作ったのだから。
「マリスタ?」
「え、えっと、あの…………オルヴェールさまが、食べるのは、ダメ、です」
「…………」
何故か問答無用で抱きしめられて、マリスタは慌てて辺りを見回した。女官にも護衛にも生暖かい目を向けられている。昼間の室内は、いつも通りの顔ぶれだ。
「オルヴェールさま!」
「これくらいは、そろそろ慣れて」
「見られてますっ」
「見せてる」
「!?」
時々、彼が分からない。助けて欲しいと、ついナンシスの方を見てしまう。彼は訳知り顔で頷いて、何故か、女官も他の護衛も下がらせてから、部屋を出てしまった。しんと静寂が訪れる。
「良かったね、マリスタ?」
味方がいない。二人きりにされると、マリスタは大変な目にあう。それなのに、マリスタさえ差し出しておけばという謎の認識が、護衛から使用人に至るまであるのだ。
着るものでも「オルヴェール様のお好み」と選ばれ、髪も油断すると編まれそうになるし、寝間着に至っては、あちら側が透けて見えるものを勧められた事まであった。
「殿下を悩殺できますよ!」
などと意気込んで言われたのだが「のうさつ」とは、一体何なのか。不穏な響きに思え、すぐに却下した。
「考え事かい、マリスタ?」
息苦しさに顔を上げると、オルヴェールが苦笑している。抱きしめられた時は、ひとまずじっとしている事を、マリスタは学んだのだ。
抵抗すると離して貰えない。
下手をすると、身体が彼に食い込みそうになる程、力を込められる。少し痛いし苦しいから、大人しくするのが一番なのだ。
どうしたらまた、触らせてくれるのだろうと、紫がかった黒髪を見上げる。
「今日は調子が良いんだね」
マリスタの頬には、もう赤みがなかった。きょとんと見上げてくる銀の瞳は、明らかに「終わった?」と問うようだ。
加護が安定してきた事で、精神的にも安定したのだろう。それは良い事だ。
しかしオルヴェールとしては、抱擁に慣れたのではなく、心的に折り合いを付けたらしいマリスタが、少し不安だ。そんな彼女に、言わなければならない事もある。
「あのね、マリスタ…………一晩だけ留守番できる?」
「留守番?」
こてんと首を傾げ、銀の瞳が髪間に見える。長い前髪を耳に掛けると、まだらで美しい双眸は、まっすぐにオルヴェールを見てくれた。
「毎年恒例の、南方三王国威嚇祭だよ」
「い、威嚇、祭…………?」
「さては知らないな? 南方三王国が、昔ヴェシールと戦争していたのは知っている?」
マリスタは、自身に回る腕を見てから内心、首を傾げた。このまま話しをするのだろうか。大人しくしていたのに、離してもらえない。
「マリスタ?」
「は、はい。え、えっと確か、帝国が勝って、南方に領土を、広げた、と?」
「合ってるよ。その時ジーラ王国の火山にも、大きな天罰が落ちたんだ。それで彼らは火竜の多くを失って、未だに、昔の領地を取り戻せない」
南には、世界最大の大きさを誇る火竜が住む、と聞いたことがある。でもその竜は、氷竜と違い凶暴で、懐かせるには数十年を要するらしい。
「火竜を倒すの?」
「まさか。彼らが昔の土地を取り戻すのは不可能だって、教えてあげないといけない。それが通称、南方三王国威嚇祭だ」
「お祭り?」
「竜騎軍の大編成がいくつか、七日間に渡って空を飛ぶだけ。南方領では、お祭りだよ」
それは少し羨ましい。北の空には、竜など滅多に飛ばないからだ。そこで、留守の理由に思い至った。
「オルヴェールさまも、飛ぶの?」
淡い紫の瞳を細め、彼はくすくすと笑った。
「まさか。そんな事をしていたら、半月くらい帰って来られなくなる…………淋しくて、マリスタに泣かれてしまうよ」
「な、泣きませんっ」
やっぱり子ども扱いだ。留守番なんて、店番と大して変わらないだろう。むすっとふくれていると、髪を梳かれて、額に口づけが落ちてきた。
「っ!」
「そうだといいけれど…………」
せっかく落ち着いていた熱が、再び顔まで湧き上がる。頬に添えられた手のせいで、マリスタは彼を見上げるしかなかった。やっと収まったのに。胸まで早く鳴り出した。
「皇帝領の端まで、見送りに行くだけだから、明朝に出立して、明後日には戻るよ。ちゃんと食べて、良い子にしていてね?」
「…………は、はい」
「マリスタを、連れていけたら良かったのに」
「…………ちゃんと、留守番、しますから」
「うん」
あまりに見てくるので、視線を逸らす。頬の手が温かくて、顔の熱が一向に引いてくれない。目をぎゅっと閉じても、変わらない。どうしよう。
「マリスタ…………僕は、マリスタが好きなんだ。でもね、いきなり君に、同じくらいに思ってもらうことは、難しいって、分かってる」
何故、そんな事を言うのだろうか。もしかして、好きが違うと、気づかれた?
「…………オルヴェールさま?」
不安になって顔を見上げる。好きって言ったら、誤魔化せる? それともいつか、同じ好きになるのだろうか――――誤魔化そうとしてるから、オルヴェールさまは、疑ってるの?
「いいんだよ、マリスタ。ゆっくりで。僕をもっと好きになってくれたら、嬉しいけれど。ちゃんと優しい先生になるから…………」
紫色が近付いて、息が止まった。唇はすぐに離れて、困った様子で微笑んでいる。
「息を止めたら、苦しいよ」
「で、でも…………」
勝手に止まってしまうのだ。どうすれば良いのか分からない。それに先生って…………?
「先生って、オルヴェールさま?」
「他の誰とするつもりなの?」
「…………先生って、言う、から」
マリスタは今更ながら、自分が傷ついていた事を理解した。先生と言うから、知らない人に任されるのだと。そんなことを、知らない人に。それがとてもイヤだった。
「ごめん、分かりにくかったね」
「…………厳しい先生は、イヤ、です」
「うん、気をつける」
どう気を付けるのかを聞く前に、再び唇は塞がれた。逃げる術はなく、やっぱり彼は、少し厳しい先生だった。
翌朝、目が覚めたマリスタは、日の出前にオルヴェールが出立したと、聞かされる。
一人の朝食は初めてで、好きなものを小皿に取り分け、一人で食べる。何故か味がしなかった。
「…………?」
それでも約束がある。どうにか口に押し込んで、小さな溜息が出た。
留守番くらい出来るはず。
店番が長くなるだけだ。それなのに何故か、落ち着かない。いつもの女官に、護衛はナンシス以外、あまり見かけない面々だ。
きっと共に出掛けたのだろう…………一緒に行けたら。いや、竜に乗ったら気絶するかもしれない。マリスタには、負荷の高い加護がある。
もしかして、オルヴェールさま不在の今こそ、最初で最後の機会なのでは。
思い立ってテーブルを離れ、窓辺に寄った。地面が必要だ。土の地面がなければ、祝福は描き直せない。
でも部屋は三階で、テラスもなかった。
飛び降りても死なないとは思うけど、衝撃で確実に気絶する。骨も多分折れるだろうし、そうなると治癒の加護にも体力を使ってしまう。
それがオルヴェールさまにバレたら、窓が開かなくされそうだ。
やっぱり、何処かで逃げるしか…………ただ、中にも外にも護衛がいる。マリスタを守っているのか見張っているのか、分からないくらい、たくさん。
「姫様、お庭を散策なさいませんか?」
「!」
それだ。マリスタは、笑顔で次席女官に頷いた。気の進まない朝食を下げてもらい、逃げやすいよう軽装に着替えさせてもらう。主席女官は相変わらずの無口だが、そういうものと慣れてしまった。
金緑宮の庭に、一人で出るのも初めてだ。
花盛りと言われた東の庭は、レンガやタイルで装飾された道に、低木と咲き乱れる草花でいっぱいだった。香りの海だ。
「すごい…………」
故郷のディアバーグは、まだ雪の舞う冬の終わりの頃になる。帝都は春が早いのだろう。絵でしか見たことのない花に吸い寄せられて、花壇の前にしゃがみ込む。
花弁の数と形、花芯の形状、花の付き方。横から見て、葉の形も確かめる。
「…………一緒、良かった」
安心した瞬間、マリスタはハッと我に返った。
違う、そんな事をしている場合ではない。彼は祝福が見えるのだ。流石にどんなものかは、分からないみたいでも、ここのところ、流石に気を失い過ぎている。
そのうち絶対に、何か言われる…………殴られたら即気絶したくて、こんな調整をかけていたのだ。知られたくない。
しかし、前には二人の女官、後ろには護衛が三人もいる。強敵のレンダーク卿ナンシスは当然ながら、庭には点々と人の姿が見えていた。その全員が騎士の白い隊服だ。
警護の硬さに、庭を見回してみる。地面は見当たらない。手入れが行き届き過ぎている。
「ど、どうしよう」
地面があるところ。地面があるところに、一人で行きたい…………!
そう強く思った時だった。
ふと風が吹き始め、それは突風となり、唸りを上げる。女官がよろけて前が開けた。マリスタの足は駆け出している。今しかない!
「姫様!?」
「ちょっとだけ!」
「いけません!」
ひとまず叫ぶ。レンダーク卿ナンシスは、流石に巻けないだろう。一人くらい、もうバレても仕方ない。
庭のアーチを抜けると、前から人の背丈ほどある白竜が、二本足で走ってくるではないか。
「!?」
慌てて横道に曲がる。その先の鉄扉は開いていて、直ぐに飛び出し右に曲がったマリスタは、地面に置かれたままの荷箱に躓き、見事に中へ倒れ込む。その衝撃で、意識がプツリと途切れた。箱の蓋がパタンと閉じる。
「姫様!?」
ナンシスの前には、もうマリスタが居なかった。居合わせた皇宮内御用商人に、行方を聞くも、彼らは衣装箱の荷運びに忙しい。誰も姿を見ていないと首を振るばかりだ。
「嘘だろ…………」
あまりの事に、思わずカラ笑いが出た。
また雪が降り出している。
夜会の会場ホールから逃げ出したマリスタは、暗い廊下を急いでいた。
花月も最後のディアバーグは、やっと吹雪も終わる頃。それでもドレスは、春向きの薄く軽やかな物になる。暗い窓の外には、雪の庭があった。
――――急がないと、帰ってしまう。
その思いだけで、胸が苦しくて、涙が出そうだった。テラスに繋がる窓を開け、庭に飛び出すと辺りを探す。僅かに見える明かりは、庭の奥の東屋だ。そこを目指して駆けていく。
「こんばんは、マリスタ。今夜は頑張っていたんだね」
息切れ気味のマリスタに、彼は苦笑交じりにそう言った。
黒髪と同色の、極度に飾り気の少ない装いをした、オルヴェールだ。菓子や茶器を並べて、もうすっかり寛いでいる。
「…………オルヴェールさまは、もう少し、頑張った方が、良いと、思い、ます」
尻つぼみになりながら、マリスタは言った。男性貴族で他領の夜会に出られるとなると、次期当主しかいないのだ。彼は、この領に遊びに来ていると言うけれど、交易なりなんなりの話をする為だろう。
ただ、結局この場所に逃げてきたマリスタに、彼を責める事は出来ない。
「人付き合いなど、面倒なだけだ」
「…………」
「腹の探り合いなんて、楽しくないよ? 僕はマリスタに会えれば十分だ。ほら、おいで」
そう言って席を立ち、手を引いてくれる。やっと気持ちの落ち着いたマリスタは、右手でスカートを摘み、夜会用の礼をした。
「こんばんは…………」
「こんばんは。そのドレスは、雪の妖精みたいだね。似合っているよ」
ディアバーグは豪雪地帯で、妖精なんて、可愛いらしくも儚い雪は降ってこない。首を傾げると、何故か笑われた。
「ふふ、妖精さんには興味がないの? それじゃあ、お茶はいかが? ハーブは好きかい?」
「ハーブ…………お薬の、草?」
「まぁ草だけど」
彼はくすくす笑いながら、マリスタの椅子を引いてくれる。用意されたお菓子は、どれもとびきり美味しくて、あまり食べられない事が残念だ。時々ポケットから出てくる、キャラメルやクッキーも、包み紙までマリスタを魅了する。
この瞬間のためならば、どんな苦痛にだって耐えられた。
初めてのお茶を飲みながら、胸に静かに蓋をする。誰にも取られない宝箱。それはもう、ここにしかない。
「マリスタ、これが新作のレモンバタークッキーだよ。おひとつ如何?」
「レモン? すっぱい?」
「食べてごらん?」
彼は平気で手づかみするし、皿にも触る。摘まれて小皿にやって来たそれは、一見普通のクッキーだった。
小さく割って、口に入れてみる。レモンの爽やかさに砂糖の甘さ。それをまろやかに、バターが包み込んでいる。
「美味しい?」
「はい!」
つい大きな声で言ってしまった。あまりに恥ずかしくて、しばらく顔が上げられない。どうしてオルヴェールさまは、笑うのだろう?
ガタリという、強い揺れに意識が戻る。
真っ暗闇で意識を取り戻したマリスタは、一瞬、自分がどこに居るのか分からなかった。
東屋もお菓子も、皇子様も居ない暗闇に、ぶるりと震えが走る。耳を澄ませると人の声がした。
荷物や番号といった内容に、複数人の足音がする。息を詰めていると、そうした音はやがて聞こえなくなった。
そろりと身を起こす。箱の蓋はすんなり開き、見知らぬ景色にゾッとした。慌てて中から抜け出すと、外回廊から庭に飛び出し、茂みの影にしゃがみ込む。
「…………ど、どこ?」
胸が早鐘を打っていた。望んだ地面は、足元にある。しかしもう、それどころではなかった。
回廊から人の気配が消えるまで、マリスタは震えながら小さくなっていた。
見知らぬ人の話し声。荷物の擦れる音や響く足音。こわい。荷物に人が紛れていて、気づかないなど、あるのだろうか。それとも攫われてしまったか。
どう見たってマリスタは、第二皇子には釣り合わない。
彼らに見つかれば、どんな目に遭うのだろう。殴られ…………いや、きっと命も。その方が、喜ぶ人も居るのだろう。分からない。マリスタを望んでくれるたった一人は、今、皇宮にはいないのだ。
だから足音が近付いて来ても、身を硬くするばかりだった。
「具合が悪いのか?」
背後から、男の声が降ってくる。薄く目を開くと、履き慣れて汚れたような、灰色の靴先が見えた。それは数歩下がって、紺の生地が膝をつく。
マリスタは顔を上げた。質素な白いシャツに、艶やかで長い藤銀の髪。回廊にいた商人では無さそうだ。
「…………」
相手の首から足元まで確認し、マリスタはいくらか警戒を緩めた。昼間に見える複雑な星空と氷竜という、見た事もない祝福の持ち主だったからだ。
「茂みに隠れる子ウサギさん? 誰かを待つなら、此処は危うい」
「う、うさぎ?」
思わず聞き返す。すぐに辺りを見回してみたものの、それらしい生き物はいなかった。首を傾げたマリスタに、男が小さく笑う。
「ウサギとは、君の事だよ。その髪色だ、言われた事は無いのか?」
何を言っているのだろう。マリスタは不思議に思って、顔を上げた。優しげに微笑む紫の瞳は、知っている人にそっくりだ。切れ長で鋭くて、でも少し儚げな色。首を傾げる。思考は停止状態になっていた。
「オルヴェールさま? 変装中?」
「…………どう思う?」
初めましてのマリスタに、不思議と友好的なのだ。声の違いは流石に分かるが、まさか家族だろうか。それならば、似ていても仕方ない。
今度は血の気が引いてきた。彼の家族は全員、高貴な身分である。
青くなって震えはじめた子ウサギに、彼は茶化す事を諦めた。手を差し出して、言い聞かせるように言ってみる。
「いいからおいで。警備に見つかると、叱られる」
「で、でも」
マリスタの頭は真っ白になった。叱られる。叱られたら、嫌われる。嫌われたら、また酷い事をされるかもしれない。
「あ、あの、ご、ごめんなさい、わた、わたし、こんな、ところに」
とてもその場には居られない。慌てて立ち上がると、茂みの奥へ、暗い方へと必死に走る。
一目散に逃げていくマリスタに、彼は虚をつかれた。本当に、野生のウサギみたいだ。そう思うとおかしくなって、出していた手で口元を隠す。
彼女はどうやら、世間知らずであるらしい。
立ち上がると、気配を消していた二人の護衛が横に来た。
「…………ウサギ狩りをすべきか?」
一応聞くと、当然のように不可の答えだ。しかしこの庭は広い。皇宮で彷徨う少女が、不審者と間違われても憐れである。
「オルヴェールに連絡は?」
「もう既に。しかしご到着明日になるかと」
「あのバカ」
居ないときに逃がすとは、警護の配置を見誤ったのだろう。仕方なく逃げたウサギを追いかける。ただの少女に対し、こちらには訓練を積んだ騎士二名。すぐに居場所が知れた。
「あまり奥へ行くと、熊が出る」
呪いを受けて陰る灰色の髪。それをひと房取って囁くと、彼女は見事に飛び上がった。絵に描いたような反応だ。
「!?」
「危ないから、追いかけたんだ。君が餌食になったら、オルヴェールが悲しむだろう?」
警戒した様子で、じっと見つめてくる銀の瞳は、氷竜のそれにそっくりだった。竜好きの大半は、この目にやられるだろう。その中にオルヴェールが入っているかと思うと、少し複雑だ。
ただ、何時まででも見詰めていたくなるような、複雑な色合いをしている。
「ここにオルヴェールが来たら、どうなるかな?」
意地の悪い問いをかけると、子ウサギは瞳をまたたいた。表情が少し乏しいところまで、妙に氷竜を思わせる。狙っているなら相当だ。
「わたし、わたしは、ここに居ます」
彼女はすとんと、地面に座り込んでしまった。予想とは逆に、動く気が全く無いらしい。見かけによらず、なかなかに反抗的な態度である。
「そう。じゃあ俺が何をしても、君は動いては駄目だよ?」
「え? え、えっと」
近付くと、どんどん青ざめていく。それがあまりに可哀そうだから、数歩手前で止まって、後ろの護衛に問いかけた。
「ナンシスは何処」
「まだ此方には」
「何でだよ」
溜息をついてから、草むらにあぐらをかいた。キョトンとした顔を向けられたが、皇宮内にて正式な身分を持たない彼女が捕まれば、どんな罰を受けるかは知っている。
未来の妹が鞭打ちになっては、流石に後味が悪い。
たとえ数か月の激務に追い込んできた元凶だとしても、見方を変えれば嬉しい悲鳴、ともいえる。
「君、名前は?」
知っていて聞いてみると、マリスタと小さく声がした。彼女は周囲を見回して、それなりに気配を消している護衛の位置を見据えた後、警戒の目を向けてくる。
祝福の気配だけで、隠れた本職を見つけるとは、大したものだ。
「そんな顔をするなって、俺はシルキリーク。オルヴェールの兄だ。名を呼んでいいよ」
「…………!」
顔を両手で覆って、俯かれてしまった。オルヴェールが手を回したようだが、彼女は外貴族が受ける皇族教育を受けていない。内貴族が受ける教育すら受けていないとなると、こういう反応になるらしい。
「怖くないって。そんな反応されると、傷つく」
「もっ、申し訳ありま」
「いいよいいよ、気にしない。あんまり恐縮されると、俺がオルヴェールに叱られる。イジメてないぞ?」
「…………はい」
真っ青な顔で言われても、説得力は皆無である。女はすべからく苦手なものの、未来の妹くらいは大切にしたい。
シルキリークは、どうにか安心してもらおうと、オルヴェールが幼少期の頃の可愛い話や、自身の失敗話、帝都で流行っているドレス、菓子まで話して、四半時を費やした。
「そうだな、他には…………オルヴェールが小さい時に描いた絵とか、興味ある?」
やっと銀の瞳がこちらを向いた。人馴れしていない、氷竜の雛のようだ。興味がないと見向きもしない。
「ナンシスは知ってるね?」
「…………はい?」
「彼は宮殿内で待ってるよ。そろそろ帰った方がいい」
「…………」
「そんなに此処が気に入った?」
「…………あの」
「うん」
「足が、痺れて…………立てなくて」
「…………俺、女の子持ったことが無いんだけど」
「ここに、置いて行って、ください」
「それは駄目。熊が出る」
そこまで言って、第一皇子のシルキリークは背後を振り向いた。護衛騎士の一人を手招きし、耳打ちをする。
「お前、持てるか?」
「命が惜しいので勘弁して下さい」
「俺に持てると思う?」
「大理石の彫像よりは軽いかと」
シルキリークの女性嫌いは根深くて、触っただけでも蕁麻疹が出るほどだ。試しに触れた、あの髪は平気だったが…………本体に触れても大丈夫だとは、限らない。
「あ、あの、わたし、本当に」
「待て待て、無理に立ったらっ!」
とっさに、傾いだ体に手を伸ばす。脇下に入れた手に力を入れると、少女は猫の子みたいにぶらりと浮いた。
「軽っ! 細…………!? ちょっと君、ちゃんと食べてる?」
「お、おろして」
「足が震えてる」
それは彼が持っているせいで、マリスタは全般的に他人が怖い。両手で顔を覆う。足をそんなに見ないで欲しい。
「殿下…………」
「持ち方、これで合ってる?」
「せめて膝裏に、腕を」
「この子、足が痺れてるんだ。触ったら可哀想だろ」
シルキリークは真面なことを言ったつもりだ。彫像よりも軽いし、触れられる女性の中で、彼女はダントツに細かった。そして未来の妹は、やはり何かが違うのだろう。蕁麻疹も出そうにない。
「ひとまず、連れて帰るか」
彼女の無事な姿を見せないと、護衛があまりにも哀れだ。オルヴェールさえ巻けなかったナンシスを、出し抜いてしまうのだから、逃がすともう、捕まえるのは無理かもしれない。シルキリークはマリスタを肩に担ぎ上げ、腰下に腕を回して歩き出す。
「で、殿下! お待ち下さい! それではあまりにも…………!」
荷物のそれだ。しかし護衛騎士だって命は惜しい。皇子の妻を抱き上げた、なんて事になったら、首は物理的にも胴とサヨナラするだろう。
「殿下! シルキリーク様! ゆっくり、ゆっくり歩いて差し上げませんと!」