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8-01:それぞれの秘密

 



 マリスタが皇宮に来てから、数日が経った。


 昼過ぎまで寝過ごすこと数回。起こして欲しいと頼んだ女官を、オルヴェールに阻止された事もある。そこで一悶着あり、本日はというと…………日が傾きかけた頃から、眠いね、などと不穏なことを言われていた。


「…………」


 マリスタは懸命にも聞き流したが、残念なことに、宵の口には寝支度をされ、寝室に押し込まれてしまう。


 早く起きた分、早く寝ろとは、流石にあんまりだ。さっさとベッドから抜け出して、部屋の扉に耳をつけた。


「…………」


寝室の隣にある私室には、常夜灯と夜守りの女官が一人、大抵残ることになっている。そこまで人が減れば「眠れない」を理由に、起きても困らせはしないだろう。


しばらく様子を窺っていると、女官達が退出し、扉の閉まる音がした。


「行った?」


 何だか早い気もするけど、寝室の扉をそっと開けてみる。目の前には、笑顔のオルヴェールが立っていた。


「来ると思った」

「!」

「目を離すと、すぐ、逃げようとするんだから」

「お、おやすみ、なさい…………」


 むくれながら言うと、くすくす笑われる。子どもみたいに早く寝かせようとする癖に、この人は時々、恋人のような扱いをしてくる。


 それが最近、少し怖い。


「一人で寝れる?」


 子どもだと思っているのだろうか。それとも、もうすぐ大人だと? それも怖くて聞けないままだ。


「眠れます」


 ここに来てから、ずっと一人で眠っているのだ。それをなんだと…………ふと私室に目をやると、昼間と違い、部屋には誰も居なかった。マリスタの警戒心は最高潮だ。扉の影から逆毛を立てて、必死に威嚇する子猫に、オルヴェールはとうとう吹き出した。


「ふふっ、そう、残念だな」

「オルヴェールさま!」

「眠れないって言ったら、寝かせてあげるのに」

「も、もう、お部屋に帰って下さいっ」


 からかわれているのだ。恥ずかしがっているのを、知っているのに。


「子守唄を歌おうか?」

「平気ですから、帰っ」


 扉を盾にしていたマリスタは、あっと言う間にオルヴェールの腕に捕らわれた。私室に誰も居ないなんて、変だと思った。


「は、離してっ」

「嫌だ。マリスタが恥ずかしがるから、ちゃんと皆を下がらせたのに。ご褒美が欲しいな?」

「でません!」

「どうして?」

「でない、ですっ」


 いくら押しても、距離はちっとも開かない。温かい腕。彼のことも嫌いじゃない。むしろ好きだと思うのに、恋人のように扱われると、言葉に出来ない恐怖が、胸の底を撫でるのだ。


「もう、寝ます、から」

「怪しい」

「怪しく、ない、ですっ!」


 背中に回る腕から逃げられない。その腕に、少し力が入っただけで、抵抗など何も出来なくなった。


「抱きしめられるのは、嫌?」

「…………」

「マリスタ?」


 問が重なる。答えられるはずがない。温かくて、すっぽりと包まれるこの狭さ。ここに居たら、怖いことなど起きない、そんな気さえする。でも、やっぱり恥ずかしい。この安心感も、泣きたいほどに怖くなる。


「まだキスが怖いの? ずっと逃げてて、可愛かったよ?」


 人が居ないのに、抱きしめられてしまった。だから言われると思った。初日以降、マリスタはずっとキスを警戒して、オルヴェールから距離を取っていたのだ。


 それでも容赦なく、間は詰められてしまったものの、一度もされずに済んでいる。


「何が嫌なの?」

「…………な、なにって」

「恥ずかしいのは、きっと慣れるよ?」


 こんな話をされている時点で、頭の中身が茹で上がりそうなのに。慣れる日なんて、絶対来ない。


「恥ずかしがり屋だね、もう真っ赤」


 上から顔を覗き込まれて、慌ててぎゅっと目を閉じる。自分でも分かっているから、言わないでほしい。恥ずかいことすら、恥ずかしい。全部恥ずかしい。しかも何故か分からない。


「ずっとマリスタに譲ったわけだし、ご褒美が出ても良いよね?」

「ゆ、ゆずっ…………?」

「マリスタの望むように、キスは控えたよ?」

「…………え、で、でも」


 そんな事で、ご褒美を取られるとは思わなかった。確かに見逃してもらっているとは、少し思ったけれど。混乱していると、不意に身体が浮き上がる。


「や」


 慌てて暴れるものの、余計に密着しただけだ。抱え持たれた足は床に届かず、不安な気持ちにさせられる。


「ちゃんと、ちゃんと寝ます、寝ますからっ」

「どうかな」

「おろして」


 前みたいに、苦しくなるまで口を塞がれたら、どうしよう。怖くて固まっていると、やわらかなベッドの上に降ろされる。


「ほら、横になって?」


 あれっと顔を見てしまった。長い指先が、マリスタの前髪を耳にかけ、澄んだ紫の瞳がよく見える。


「優しくしようと思うのに、マリスタが可愛くて、加減を忘れてしまうよ…………眠くないの? まだ寝ないなら、少し話そうか?」

「…………は、はい?」

「帝都に興味はある?」


 帝都は、森みたいに家が一面に建っていて、とても人が多そうだった。少し困って視線を上げる。薄紫の瞳は、穏やかにマリスタを見ていた。どうしてそんなに見るのだろう。思わず膝を抱え込む。


「その、少し、だけ」

「それなら今度、歩きに行こう?」

「で、でも」

「植物園は、人が少ないよ」


 帝都の人が少ないところ。それなら、誰かとぶつかった瞬間に、加護が動いて気絶することも無いだろう。でも彼は皇子様だ。マリスタだって、ちょっと危ない目に遭いかけた街の「人の少ない」ところへ、行かせて、いいのだろうか?


「…………オルヴェールさま、あまり危ない所は」

「ふふ、別に危なくないよ。国営施設だから綺麗だし、きっとマリスタも気に入るよ? それに僕は、護衛を巻いたりしないから。ちょっと多くなるけれど、そういうものだ」

「護衛は巻けるの?」


 三倍速く走らなければ、一人すら巻けないマリスタだ。彼がその気になれば、逃げきれるのだろうか。なんだかすごい。


「ふふふ、巻いてどうするの。命令して、下がらせた方が早い」


 その通りではあるものの、内心がっかりしてしまう。オルヴェールさまに命令されて、首を横に振れる人が、どれくらい居ると思うのか。


「…………僕に命じられるのは、怖いかい?」

「す、すこし」

「じゃあマリスタは、もう良い子でいてね」


 悪い子のつもりは無いけれど、彼の命令はやっぱり怖い。権力というものが、どれほど理不尽で冷たいものか、知っている。


「返事がないな…………素直でも悪い子には、お仕置きするよ?」

「え、そ、そんな」

「僕を困らせても良いけれど、泣かせたら承知しないから」

「オルヴェールさま、泣くの?」


 思わず聞いてしまった。不意を突かれたように、紫の瞳がまたたく。それから拗ねたように溜息をつき、手が伸びてきた。


「あっ」


 慌てて逃げようとしたマリスタは、すぐに捕まり、膝の上に乗せられる。そのまま抱き込まれて、小さくうめいてしまった。


「もう、本当につれないな。泣くに決まってるだろう? 人なんだから、泣けない方がどうかしている」

「な、泣かないで、ください?」


 言ってはみたものの、泣く姿は欠片も思い浮かばない。ただ、澄んだ瞳から零れる涙は、綺麗なのだろう思った。


「マリスタは最近、僕の前で、泣いてくれるようになったね?」

「そ、それは」

「少しは、受け入れてくれている? 好きなのは、僕だけじゃないよね?」

「っ…………うぅ、は、はい」

「良かった」


 しばらく、ぎゅうぎゅうに抱きしめられた。息が苦しい。胸も苦しい。どうしてこんなに、好きになってくれたのだろう。夜会が嫌いで、一緒に逃げていたのが、そんなに良かったのだろうか。


「オルヴェール、さ、ま」


 ゆるく背中を撫でられて、髪を梳かれる。やっと隙間を得たマリスタは、いつの間にか掴んでいた彼の服から、指を離した。ただ、その手をどうして良いのか分からない。


「マリスタにも、抱きしめて欲しいな」


 呟く声に、顔を見上げる。


「嫌かい?」

「えっと、で、でも」


 どう頑張ってみても、マリスタではオルヴェールがするように、抱きしめることは無理に思えた。腕の長さがきっと足りない。


 胴回りを見て考え込んでいると、腕を引かれる。


「こっちだよ」

「あっ」


 何か言う前に黒髪が、顎の下にすり寄った。伸ばしたままの両手の間に、見上げるばかりだった彼の頭がある。もしかして、触っても良いのだろうか…………?


「あ、あの」

「抱きしめてくれないの?」


 見上げられた瞬間、熱が顔に集まった。よく考えたら、彼の足に膝で乗り上げている格好だ。腰と太ももに回る腕を見おろして、マリスタは顔を覆った。


「は、恥ずかしい、です」

「どうして?」

「…………っ」


 言えというのだろうか。春の終わりの夜着は薄めで、自分でもあまり触らない太ももの後ろに、彼の体温を感じるなんて。


 けれど、腕を放されてしまったら、マリスタはこの微妙な体勢を保てず、床に転がり落ちるだろう。


「抱きしめてくれないなら、僕が二人分、抱きしめてしまうよ?」

「えっ、ふたり、ぶん?」


 腰の腕に力が入る。それだけでマリスタの身体はしなった。


「まっ、まって、わ、わたし、抱きしめた、ことが」

「無いの?」


 必死に頷く。子どもの頃は、本家の義兄が頭を撫でてくれた気がする。でも他の人は、近くに行けば嫌なことをするだけだ。養父もあまりそういう事は、してこない。古書店の店主には、背中を何度も撫でられた。


 でも、マリスタを抱きしめたりは、しなかったのだ。


「…………マリスタを抱きしめたのは、僕が初めて?」

「わ、わたしなんかに、そんなこと」


 酒場では、顔によく膨らんだ胸を押し付けられて、死ぬかと思った事ならあった。見おろす自分の胸は、子どもだと言うように、膨らみすらしていない。


 このまま抱きしめてしまったら、硬いとか骨ばってる、なんて思われるのだろうか。それも悲しい。


「ねぇマリスタ。死ぬほど君を甘やかしても、許してくれる?」

「し、死ぬのは、困ります」

「じゃあ、困らないくらいにするよ…………僕が、誰よりも幸せにするからね。窮屈な思いもさせるけど、愛される喜びを、きっと君にあげるから」

「オルヴェールさま?」

「…………」


 オルヴェールはもう、不憫でし仕方なかった。まさか、抱きしめられない、抱きしめる人も居なかったとは。もっと、もっと早くに出会っていたら。人の温もりを知らない、幼少期を過ごさせずに済んだのに。


「やっぱり僕が、二人分抱きしめる」


 かき抱かれたマリスタは、黒髪の頭にすがるしかない。サラリとするのに短い髪は、すぐに指をすり抜ける。抱えた頭はあたたかく、竜の雛みたいに思えた。


「…………オルヴェールさま」


 きっと、愛してくれると思う。彼はマリスタなのに、大切だと言うからだ。逃げてしまっても、見つけてくれる。怒らない。優しい手は、髪を撫でて、引くこともない。


 こんな人は彼だけで、彼しか居ないと思うのに。


 彼の好きが、マリスタには時々分からない。それも怖いし、自分の胸にあるものが、彼と違うことも言えないままだ。


 好きでも、キスは、なんだか違う…………


 抱きしめられるのも、本当は少し好きなのに、このまま好きになってしまう事が、やっぱり怖い。腕の中の温もりは、いつまであって、いつ無くなってしまうのだろう。


 短くて、サラサラなのに硬さもあって。不思議な触り心地がする。彼が望まなければ、触れる機会も無かったところ。それを留めるすべが、マリスタにはない。


 腕に力を入れる。


 感じたことのない喜びに、めまいがしそうだった。黒髪に頬を寄せて、目を閉じる。小さな生き物が、腕の中にいるようだ。


 後ろ頭を少し撫でると、心地良くてふわふわしてくる。人の頭は、撫でる方もこんな気分になるなんて、初めて知った。


 ずっと、ここにあったらいいのに。それが無理なことが、少し悲しい。


「…………マリスタ?」


 抱きしめていた頭から、ぼんやり顔を上げると、薄紫の双眸が見上げていた。綺麗な色が近づいて、唇を塞がれる。


「…………っ」


 すぐに身を引いたから、それは離れた。ただ、恥ずかしいのか、嬉しいのか、それとも悲しいのかが分からない。身体がほかほかしている。くらくらもする。もっと、その髪に触りたかった。


「眠たくなっんだね」


 ベッドに寝かされ、掛布がかかる。瞼は重く、髪を梳く手は優しくて。まだ起きていたいのに、体が限界なのだと、初めて自分で理解した。


「オルヴェール、さま…………」

「無理をしないで。加護を潰してまで、起きてる必要はないんだ…………おやすみ、マリスタ」


 その声に、返事をすることも出来ないまま、頬に落ちた口づけは、夢への灯火になってしまった。


 マリスタの身体は、無意識に加護を潰して体力の足しにしてしまう。二食は食べさせ、長く寝かせる。オルヴェールを中心に、金緑宮ではマリスタ健康計画を実行中だ。


「…………拐ってきて太らせるとか、僕は悪い魔女だな」


 オルヴェールには、人を癒す加護がない。戦うことは得意でも、平和であればあるほど、使い道のないものだ。皇族の加護など、そういうものばかりで、不満も何も無かったのだが…………加護の魔女、カーラを心底羨ましいと思ってしまった。


 学院から出たマリスタが、無意識の内に辿り着いた先。


 貴重な加護の持ち主は、心を癒す力を持っていた。彼女の望みは、オルヴェールでは叶えられない。それを、見せつけられたようだった。


 人は、内なる祝福を育てながら生きていく。


 けれど中には、生まれながらに強い加護を得て、体力が奪われ続けたり、心の在り方を定められる事がある。


 守るもの、恋する相手、慈悲深さ…………オルヴェールとマリスタのように、自身ではどうにもできない場所は、本人にも扱いにくい。その辛さは、分かるつもりだ。


 マリスタの部屋から出たオルヴェールは、女官を部屋に呼び戻し、すぐ隣にある自室の扉を開けた。


 縦に長く、対で作られた二つの部屋は、最奥にある「開かずの間」で繋がるような設計だ。彼女が、夫婦の寝室を知らなくて、良かったと思う。あの部屋にマリスタが居たら、流石に押し倒すかもしれない。


 皇族のための、特殊な部屋だ。


 竜の背と同じで、人の加護は動かない。花嫁に受け入れられなくても、どうにかする為の部屋とも言える。


 大体、竜以外で脱出不可能な台地の上に城を作るところから、歴代皇族の執念を見るようだ。そして結局のところ、オルヴェールも同じ道を行くのだろう。


 逃がす気など欠片も無いのだから。


 しかし休暇中といえど、城に戻れば書類は様々積まれていくし、面倒な式典には行かねばならない。その中に、マリスタの健康状態やら、採寸表といった物まであるから、当然他にも回せない。


「…………」


 見るなと言う方が、無理な話だ。しかしこの事を知られたら、流石に軽蔑されると思う。マリスタに秘密があるように、オルヴェールにも知られたくない秘密や過去はあるのだ。


 例えばマリスタを見て、初めて恋を知った時、友愛とも親愛とも違う感情に恐怖したこと。


 恋とは、思ったよりも醜悪だったこと。


 醜い欲望が自身にもあって、女がどうのという周りの話を、初めて本当に理解こと。


 そして問題に気がついた――――当時十七歳のオルヴェールは、閨教育を全て拒否していた。これが大問題だと、初めて気づいてしまった事だ。






 朝くらいは揃って食べたい。


 そう父が言い出してから数年。十時という遅い時間は、オルヴェールにとって午前にある「おやつ時」のようなものだった。


 いつも通り遅れてやってきた両親は、公務と違って楽な姿をしている。


 皇族としては珍しく重婚している父親に、嫌悪が無いとは言い切れない。しかし、その手の相談相手として、彼以上の条件を持つ男も知らなかった。


「父上」


 オルヴェールが声を掛けると、暗い紫の瞳が微笑んだ。四十を過ぎても若さも衰えもなく、がっしりとした体格ながら、けだるげな色男の名を欲しいままにする現皇帝。


 その治世は安泰であり、政の手腕も遠く及びはしないのだが、親であることに変わりない。


「閨教育を受けようと思います」

「ごふっ!」


 遠慮の欠片もなくオルヴェールが言うと、妙な音の後に父は、信じられないものを見るような目を、向けてきた。


「あんなに嫌だと突っぱねておいて、何故?」

「妻を見つけました」

「なんと!?」


 こちらに飛び掛かってきそうな勢いの父を、左右の妻が抑えに入る。美しく豊満な姿態は、隠す気の欠片も無いしどけなさ。見ても良いのかと悩む時期を通り過ぎ、今はもう、何も思わなくなった。親が元気なのは良い事だ。


「ねぇオルヴェール。それは流石に、付け焼き刃というものよ」


 実母は皇室男子の性質をよく知っている。明日にでも、皇宮に連れて来ると思ったらしい。


「そうですわ。いっそ、初めてを捧げてしまいなさいな」


 義母の言うことが、参考にならない事だけは分かる。


「…………時間はありますから」


 二人の母は、かなり閨事に明るい。父と三人で寝室に入る姿に、幼い事は仲の良いことだと思ったものの、それは次第に嫌悪となった。


 閨教育を断固拒否していたのは、そのせいだ。そのせいで、兄は女嫌いを拗らせている。


 大体、閨教育に母親が立候補しそうな勢いなんて、悪夢だろう。


「それで、歳はいくつだ?」

「十一歳です」

『…………』

「それが何か?」


 こういう話題で、両親が絶句するとは思わなかった。それに少し可笑しくなって、可愛いですよ、と燃料を投下する。


「成人、いやせめて、十三までは待ちなさい」

「十五までは待つつもりです」

「やけに具体的だな?」

「片側は、星神直下の加護を受けている娘です」

「…………いま、なんと?」

「冗談は申しておりません」


 父は、一瞬だけ何かを考えるようにして、それから額を押さえた。


「まさか、マリスタ・ディアバーグか?」

「はい」


 素直に認める。出会って半年、箱の中の箱で育ったような世間知らずで、だからと言って、清廉過ぎることもなく。笑い方さえ忘れたような、そんな少女が最近、少し笑うようになってきた。


 手懐けたら終わりにしようと、そんな事がもう言えなくなっていた。


 彼女しかいないと、痛感するばかりなのだ。自分の戒めに逆らえず、幼気(いたいけ)な少女に持ってはならない欲望を、胸の内に押し込める。流石に、親に隠すのは限界だ。


「マリスタでは、いけませんか?」

「いや、いい。むしろ回収してくれて助かるが…………あー、そうだな。皇家の閨教育は、お前に向かん。軍で遊んでいる奴に聞いた方が、有益だ」

「どういう意味でしょう?」

「ずっと、痛い思いをさせる気が無いのだろう?」

「なるほど…………」


 とは言ったものの、意味がよく分からない。そもそも、女遊びなどした事もないのだ。意中の娘がいる身で、遊びに行くなど祝福を損ねそうである。


「ねぇ、やっぱりお母さまが教えましょうか、オルヴェール?」

「あらズルい、今度一緒に遊びましょ? 玄人にして差し上げましてよ?」

「謹んで、遠慮させていただきます」


 根っからの奔放な母達だ。父と趣味が似なかったことを、これほど感謝した事はないだろう。息子に対して、それも片方は血の繋がりもあるというに。何という言いぐさなのか。


 ――――しかし後日、父から届いた私信を見て、その認識は改めざるを得なかった。


『見て学べ。お前ならそれで十分だ。むしろ自制の二文字を心に刻め。忠告としては、妻の性質を見誤るな。後悔するぞ』


 喰われているのは、どうやら父の方かもしれない。その点、マリスタには心配がない。ただ、二人揃って無知なのは駄目だと思う。


 問題は、その時の選択を、少し誤ってしまった事だ。


 筆頭護衛騎士にして側近のナンシスは、閨事に明るい男ではなく、玄人だった。


 逃げられないように捕まえて、しがみつかねばならない不安定な姿勢のまま、初めての子の唇を貪った…………鬼ですか貴方は!


 そのナンシスには怒られたが、教えたのはお前だろう、とオルヴェールは思う。ただ、混ぜてはいけないと、やっと間違いに思い至った。


 自制の二文字を心に刻め、という父の言葉が、初めて重みを持った気がする。


 しかし、すぐそばに居るのだ。


 構い倒したいし、困らせても怒らせても可愛いし、恥ずかしがる姿も堪らない。触るな、というのが既に無理な話で、自制の二文字は…………当の彼女に揺すられる。


 オルヴェールは、苦悩の日々にあった。




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