清浄無垢の聖人様は、私が絶対おとしてみせます!
これまでやってきた系統のギャグ要素と、最近挑戦中のしっかり恋愛要素を掛け合わせてみました! 堕とす系の作品なので、R15ですが、比較的爽やかな気がします。(個人の感想です)
「はじめまして、アリシャ修道女。いや、セザール伯爵令嬢と呼んだ方がいいのかな?」
大臣の言葉に、私は肩をぴくりと震わせる。
私の生家、セザール家は、かつての伯爵家だ。しかし、政争に巻き込まれた結果、家ははあっけなく取り潰された。失意の中、両親はすぐに亡くなり、娘の私は修道院に放り込まれた。
「そんなことより、早く本題を。わざわざ辺鄙な土地までいらっしゃるくらいです。何か重要な話をされるおつもりなのでしょう」
「はは、話が早くて助かるよ。時にアリシャ殿は、ユリウス聖を知っているかね?」
「ええ、多少は」
ユリウス様——四年前、二十という若さで聖人に認定された人物。その魔力は当代随一とまで言われ、優秀な人物として評判が高い。
「彼なんだが、ちょっと問題があってね」
「問題、ですか?」
聖人の抱える問題。なんだろう……。
「……不能なんだ、男として」
凄い! 全然聖人に似つかわしくない問題だった!
「彼の優秀な血は、ぜひ残してもらわなければならない。だから、国としても、彼に大勢の妻をめとらせるつもりで、今まで何人も女をあてがった。しかし、一向にユリウスが関心を持たない。女を前にしても、あいつはずっと聖典を読みふけって、しまいには説教を始める始末。潔癖すぎるというか、清廉すぎるというか……。このままでは、彼の血は途絶えてしまう」
なるほど。国としては、これは大問題なのかもしれない。
「そこで、かつて妖精姫と呼ばれた君の魅力をもって、あの聖人様をとろかしてほしい!」
「なぜ私が、そんな他人のために……」
「一回でいい。どうか、あいつに自分が男だと認識させてくれ。もしこの任務を成し遂げたなら、私がかけあって、セザール家の名誉を回復させると約束す……」
「やります! ユリウス様は、私が絶対堕としてみせます!」
気付けば、私は前のめりで叫んでいた。
*
かくして、私のユリウス様攻略はスタートした。
「本日から、身の回りのお世話をさせていただくことになりました。ノイタナ修道院からやってきた、アリシャと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
聖人になった人物は、王都の教会の一つを任される。私はそこに入り込み、さっそく問題の聖人様と対面していた。
「はじめまして。こちらこそ、これからよろしくお願いしますね」
初対面のユリウス様は、いかにも聖人らしく穏やかに微笑んだ。
それにしても、凄い美人だ。全体的に色素が薄く、どこか女性的な儚さを感じる見た目。整いすぎた顔面は、もはや神々しくさえある。これで女に興味がないとは嘆かわしい。世界にとって損失だ。彼にはぜひ、その甘いマスクで多くの女性を喜ばせてほしい。
と、そんなことを考えながら、私は教会を案内してもらった。最後、自分の部屋に通され、一日が終了する。
さて、この後どう誘惑するか。考えた結果、夜這いしよう、と思った。没落しても、貴族令嬢。いかに男を満足させるかは、徹底的に教育されている。シチュエーションが整えば、確実に堕とせるはずだ。
ふっふっふ、覚悟しているんだな、聖人様……! あなたを利用して、セザール家の汚名は晴らさせてもらう! 私は一人、ほくそ笑んだ。
さて、夜も更けた頃。私は足音を忍ばせ、ユリウス様の部屋に侵入した。すかさずベッドに入り込むと、隣に攻略対象の顔がある。あ、まつ毛長い……。髪の毛さらさら……って、なんで私がどきどきしてるんだ! やるぞ! 女は度胸!
ということで、とりあえず相手の服を脱がせることにした。が——
「アリシャさん、どうしたんですか?」
このタイミングで、ユリウス様が目を覚ました。
「……ごめんなさい。どうしても、寝られなくて」
秘儀、上目遣い!
「そうですか……。それなら、仕方ありませんね」
ユリウス様が身体を起こす。きた! これはこのまま押し倒される展開! ふっ、やはり私の魅力の前には、聖人様も耐えられなかったか……。
「じゃあ、少し待っていてください」
うん、ちょっと待って。ユリウス様、ベッドを出て、部屋から去っていったんだけど……。いや、これは水を浴びてくるとか、そういうやつのはずだ!
そして、ユリウス様は戻ってきて、何かを私に差し出した。
「ホットミルクです。飲むと落ち着きますよ」
こ、こいつ……! と思いつつ、私は大人しくミルクを飲んだ。そして、無駄に美味しいな、このミルク……。
「どうですか? 眠れそうですか?」
「だめみたいです。今夜は一緒に……起きててください」
「分かりました。お付き合いしますよ。お説教と子守唄、どちらがお好みですか?」
「せっきょう?」
待って。何を言ってるの、この人?
「では、聖典第一章からお聞かせしましょう。その日、神は……」
かくして、ユリウス様は一晩中聖典の教えについて説き続けた。そして、それ以外何もなかった。本当に、ほんの一欠けらも、何もなかった。
朝日が差し込む部屋の中、私は震えた。そして、思い知った。自分がどれほど困難な任務を与えられたのかを。
*
次の日、朝早く起きたユリウス様は、さっそく庭の掃除に取り掛かった。昨晩の私の衝撃なんて、まるで気付いていないんだろう。手早く掃除を終え、玄関先にまったり座り込むと、優雅にお茶を飲み始める。
やってくる猫を撫でる。往来をかける子供たちを眺める。日光を浴びて、ぽかぽかする。この人の生態、何かに似てるんだよなあ、と思って、気付いた。あ、おじいちゃんだ……。
おかしい。ユリウス様は二十四歳で、私と五個しか変わらないはず。なぜ、こうなった?
そして、もう一つ判明したことがある。
「アリシャさん、後は私がやっておきますからね」
ユリウス様は、にこやかに私から物干し竿と洗濯物を取り上げた。そう。私は、物凄く家事が下手だった。そんな私に、身の回りの世話ができるはずもなく、ユリウス様に私が師事する、という謎の状況が発生していた。
さて、その中にあっても、私は不屈の意思で誘惑を続けていた。
「あっつーい……。脱いじゃおっかなあ……」
「その前に、水分補給ですよ。今、飲み物を取ってきますから」
「わっ! 濡れちゃいました……」
「大丈夫です。ちょうどタオルを干してたので、これ、使ってください」
「まだ……帰りたくないです」
「帰るも何も、ここに住んでるじゃないですか」
最後のは私が間違ったといえ、ここまで華麗にスルーされると、流石にそろそろ傷ついてきた。
「ユリウス様、私、魅力ないですか?」
一週間後、私はぽろりとそう漏らした。
「いいえ、アリシャさんはとても魅力的ですよ」
その言葉に、どきん、と胸が高鳴った。これはついに、誘惑が成功したんだ!
「初日より、料理も掃除も上達していて、必死に努力しているのが伝わってきます。神もおっしゃっています。第五章十節……」
あ、そうですよね。あなた、そういう人ですもんね。
「ああ、もう! どうして堕ちてくれないんですか!? さっさと私を押し倒せよ!」
私はついにしびれを切らす。
「アリシャさん。やっぱりあなた、私をどうにかするよう、お偉い様に送り込まれたんですね」
ユリウス様は、驚いた様子もなく、にこやかに微笑んだ。ばれてしまった……というか、とっくにばれてた気もする。まあ、私の前にも前任がいるらしいし、当然か。
「ばれてしまったのなら、もうお頼みするしかありませんね。任務達成のため、私と……」
「それはできません。私は神に仕える身ですので」
「聖職者の妻帯は認められています。別に何も悪……」
「言い方を変えましょう。できないんじゃなくて、やらないんです。やりたくもないです」
「噓です! 成人男性なら、絶対にそういうことがしたいはずです!」
「いいえ、まったく」
何なんだ、この悟りきった表情。ユリウス様の背後に、謎のイメージが浮かび上がる。これは……枯れ木? まさか、枯れてしまっているのか? この歳で?
「ということで、私は菜園を見に行きますね」
と、ユリウス様はご隠居じみた台詞と共に去っていく。
「諦めるなよ! 立て! 立ち上がれ! 自分を奮い立たせるんだ、ユリウスーっ!」
その背中に向かって私は叫んだ——が、それは届かなかった。
*
正体も目的もばれて、それでもユリウス様は私を追い出さなかった。そして、私も誘惑をやめなかった。よって、謎の生活は未だに健在だった。
ユリウス様はいつも教会にいて、人が来たら、病気や傷の治療、説教などをしてくれる。空いた時間で、教会の整備、畑いじり、隣の孤児院の訪問、などなど、私も一緒に行う。それ以外の時間、ユリウス様はずっと聖典を読んでは、神に祈っている。
「どうしてそんなに神様が好きなんですか?」
と、私は尋ねた。
「神は我々に無条件の愛をお注ぎになる。神に祈ることによって、その真善なる愛の有り様に、我々人間は近づけるんです」
ちなみに、夜這い——という名前の、寝かしつけも続いていた。聖典を読み終わったので、私が寝るまで聞かされるのが、子守唄に変わった。
相変わらず任務は達成できないし、生活は意味が分からない。今日も今日とて、私たちは、炊き出し用の大量のシチューを二人で作成していた。
「アリシャさんも奇特な人ですね。今までの女性たちは、みんな数日で帰っていったのに」
「私、諦めが悪いんです。ユリウス様を堕とすまで、絶対帰りません」
「それだと、一生私から離れられませんよ」
ユリウス様は冗談めかして言った。
「べ、べつに、それでもいいですけど……!」
それなのに、なんでだろう。胸が変に熱くなる。
両親が死んでから、私は一人ぼっちになってしまった。修道院でも、貴族位剝奪、という背景の私を受け入れてくれる仲間はいなかった。
だけど、この人といると、なんだか心が安らぐのを感じる。優しく微笑みかけられる度、自分はここにいていいんだと、そう言ってもらえている気がするのだ。
「嬉しいです。アリシャさんがいてくれると、賑やかで楽しいですから」
後光がさすような笑顔を向けられ、
「おっふ」
と、思わず目をつぶる。
「いたっ!」
そのせいで手元がぶれ、私は指先を包丁で切ってしまう。どうしよう。そう思っていると——
「ちょっと失礼しますね」
と、いきなり手を取られた。
ユリウス様は私の手を握りながら、祈りの言葉を呟き始める。大きくて骨ばった手。女の人みたいにきれいなのに、きちんと男の人なんだ。そう実感する。指先をじっと見つめられるのも、なんだかこそばゆい……って、なんでこの人相手に、しかも傷を治してもらってる最中に、こんな変なこと考えてるんだ……!?
私の内面も知らず、
「はい、もう大丈夫ですよ」
と、ユリウス様は爽やかに笑って手を放した。
*
「君には期待していたんだがねえ。まあ、相手も相手だから、仕方ないか……」
経過報告に訪れた私に、大臣は肩を落とす。
「今後としては、媚薬や魔術を使うことを検討中です」
「そんなの、今までの女たちがとっくに使ったさ。だけど、あちらは聖人様だ。すぐに解呪、解毒された。打つ手なしなら、君ももうやめ……」
「やめません! 絶対に私がユリウス様を堕とします!」
前のめりで訴えると、
「こちらも気長に待つから、頑張ってくれ」
と、大臣はため息をついた。
帰り道、私は町の魔術屋で、愛の媚薬を購入した。これを飲ませると、相手が欲しくてほしくてたまらなくなる、そんな薬のようだ。
「片思いかね。頑張りな」
店主のおばあさんに笑われ、
「そんなんじゃないです!」
と、顔が熱くなる。
「べ、べつに? あの人のことなんて、好きじゃありませんし? ただ、頭の中がずっとあの人でいっぱいで、いつもあの人のことを考えてるだけ。手を取られて、胸がどきどきしただけ。ずっと一緒にいたいだけ。好きなんかじゃ……」
「あらら、お嬢ちゃん、こりゃあ完全に恋に落ちてるね」
「なっ……!?」
ありえない。社交界で百戦錬磨の私が、あの枯れ聖人に? そもそも、堕とすのは私の方だったのに? あああ、目の前がぐるぐるして、もうだめだ……!
「さよなら!」
私は店を飛び出して、その後、精神の安定を保つため、お気に入りのチョコレートを買ってから教会に戻った。
私が狂ったようにチョコレートをむさぼっていると、
「あ、おかえりなさい、アリシャさん」
と、ユリウス様が食堂を通りかかった。
畑帰りなのか、帽子、タオル、手袋、と完全なる土いじりおじいちゃんルック。うん。この人にときめくなんて、やっぱりない。絶対にない。
「ユリウス様も、よろしければどうぞ。いつもお世話になってますから」
平静を装って、私は箱を差し出す。
「わあ、嬉しいです」
ユリウス様は着替えて戻ってきた後、天使の笑みを浮かべ、チョコレートを一つほおばった。しかし、その瞬間——
「これ……何か、入ってますか?」
ユリウス様の顔が真っ赤に染まっていく。身体がふらふらして、立っていられないのか、テーブルにしがみつくように手をついている。
「チョコレートですよ? ただの酒入りの……」
そうか! ユリウス様、普段お酒を飲まないから、耐性が全然ないんだ! これはチャンスだ。アルコールが回った頭じゃ、まともな解呪なんて使えない。
「水です。飲んでください」
私は大噓をついて、買ったばかりの薬瓶を手渡した。ユリウス様はそれを一気に飲んだ。
「アリシャさん、これ、水じゃないのでは……?」
味がおかしいことに気付き、ユリウス様が不安げな顔を向けてくる。
「安心してください。ただの媚薬です」
次の瞬間、ユリウス様が膝から崩れ落ちた。
「ア、アリシャさん……、出て行って……ください」
苦しげに心臓を押さえながら、ユリウス様が声を絞り出す。
「いいえ、私、ユリウス様のそばにいます」
私が近づくと、
「お願いです、離れてください……! 私がまだ正気なうちに……!」
と、ユリウス様がびくりと身体を震わせた。
いける。今なら、堕とせる。ここで、このまま、この人と……。これは任務だ。全ては家の名誉のため。そのためなら、私は何だってしてみせる。そう決めたのだ。
私はユリウス様を押し倒して、身体の上にのしかかった。触れ合った身体が炎のように熱い。きちんと薬は効いているらしい。
「やめましょう……。こんなこと、あなただってしたくないはず……」
「やめません。これが私の任務ですから。それに、あなたにだってずっと、血を残せと命令が出ているんです。いい加減に腹をくくりましょう」
私は強引にその唇に口づけようとして——だけど、できなかった。ユリウス様が、物凄く辛そうな表情をしたから。
心臓がきゅっと音を立ててしぼんだ。ああ、この人は、心底嫌なんだ。そんな相手に、無理やり……って、あれ? どうして私、こんなに泣きたい気持ちなんだろう……?
そうか、私、本気でユリウス様のことが好きなんだ。このタイミングで自覚するなんて、ほんと、大馬鹿としか言いようがない。こんなことをしても、ユリウス様の心は手に入らないのに。むしろ、二度と手が届かないところに行ってしまうのに。
「……神よ」
ユリウス様が必死に口を動かす。
「我が心の中の悪魔を打ち砕きたまえ。我を罪科より解き放ちたまえ」
唱え終え、ユリウス様はそのまま気を失った。自分を止めるため、力を振り絞って、意識を飛ばす魔法を使ったのだ。
*
それから数時間後、ベッドに横たわっていたユリウス様は、ようやく目を開けた。
「ユリウス様……! さっきはごめんなさい……! 私、最低なことを……」
「近づかないでください」
身体を寄せようとした私を、ユリウス様が制止する。
「怖かったでしょう。私の、あんな姿を見て。もしもあのまま、取り返しのつかないことをしていたらと思うと……。私は二度とあなたに近づくことができません」
ユリウス様は深くうなだれている。
「全然私がやったことです。悪いのは私です。ユリウス様は、私が薬をもったせいで……」
「私は汚い人間です。薬のせいとはいえ、邪な欲望を抱いてしまった。そして、その欲望を満たすため、あなたを傷つけ、奪おうとしてしまった。決して見返りを求めず、無条件に与え続ける。それが正しい愛の形です。私には、それができなかった。もう聖人、いえ、人間失格です」
肩を震わせるユリウス様に——
「私、ユリウス様が好きです。大好きです」
いきなりの告白に、ユリウス様はぽかんとする。
「手を握られると、幸せで、どきどきしてしまう。もっと触れたくて、触れてほしくて、たまらなくなってしまう。それは、ユリウス様のことが大好きだからです。だから、同じように、ユリウス様にも、たくさん私を求めてほしい。たくさん望んでほしい。そう思うのは、間違っているんでしょうか。私は人間失格なんでしょうか」
「それは……」
「ユリウス様は優しい方です。誰よりも人を思いやって、大切にしようとする。自分は惜しみない優しさを与えても、決して見返りを望まない。求めることは奪うことで、悪いことだと思っているから。だから、相手を大切に思う心と、相手を求める心が、切り離されているんです。
でも、私、相手に何か望んで、求めてもいいと思うんです。相手が欲しいと思って、人は恋に落ちるんです。そうやって求め合って、そして与え合う。それが人と人が愛し合うっていうことじゃないんですか?」
何も言わないユリウス様に、私ははっとする。そうだ、この人、聖人様だった! 勢いに任せて語っちゃったけど、聖人様に愛を語るなんて、お門違いもいいところだ!
「確かに、私は今まで、神の愛だけを学んできました」
ユリウス様はゆっくり口を開く。
「しかし、人には人の愛し方がある。そして神も、愛し合う者たちは幸いであるとおしゃっている。その教えを深く理解するために、私はもっと人の愛情ついて学ばなければ……」
一人で頷いた後、
「教えてください、アリシャさん! 私に、愛を! 私を恋に落としてください!」
ユリウス様は目をきらっきらに輝かせて私を見た。完全なる求道者の瞳だった。
ユリウス様に愛を教えなければ、彼を堕とすことはできない。その日から、私の当面の目標は、ユリウス様を堕とすことから、恋に落とすことに変化した。そして、天下の聖人様に私が愛を教えるという、さらに訳の分からない生活が始まったのだ
*
さて、恋してもらうため、私はさっそく素敵な女アピールを開始した。
まず、凝った手料理。あれ? なんか焦げてる——
「すみません! 教会から邪悪な気配が! いったい何が!?」
私のダークマターは、近隣住民を恐怖に陥れた。
次に、絵画。何を隠そう、私はかつて画伯と呼ばれていたのだ。この才能に、ユリウス様はきっと驚くはず——
「ぎゃあああ、悪魔の絵だああ! 呪われるうううう!」
私の絵を見た孤児院の子供たちが、大泣きで逃げていった。
動物と戯れる私を演出すべく、鳩に餌をやる。が——
「いやあああ! こっち来るな!」
大群で迫りくる鳩から、私は逃げ惑った。
誤算。誘惑はうまかったはずなのに、心を射止めることはまるでできそうにない。恋心に訴えるのは、欲望を刺激するより数倍難しい。ああ、恋ってどうやったら動き出すんだろう……。
こうなったら、もうあの手しかない。
「ユリウス様、デートしましょう」
私はユリウス様を城下町に連れ出した。
「行きたいところ、どこにでもついていきますよ」
さて、ユリウス様に行く店を任せた結果、骨董品屋、お茶屋、園芸店……。完全なる熟年老夫婦の休日コースが完成した。ロマンチックの欠片もない。
そもそもユリウス様、片手に聖典を抱えたまま外出してるし。何? 相棒なの、それ? そういえば、寝てる時も隣に置いてあるし……。私は聖典さんに嫉妬した。
「アリシャさん、これ凄いですよ。かの有名な大聖人トーマの妹の夫の職場の先輩の向かいの店の牛乳屋のおじさんの石膏像らしいです。掘り出し物ですね」
「いや、果てしなくどうでもいい像ですよ、それ」
「わあ、オレンジペコですよ、アリシャさん。オレンジの味して美味しいですよね」
「オレンジペコは茶葉の等級です。オレンジの味はしませんよ」
「ええっ、でも、前飲んだ時、確かにオレンジの味がしたんです」
「それはユリウス様が、妄想で味をブレンドしただけです。逆に凄い能力ですけど」
「ふーむ、これで雑草を全滅させる、というのはどうでしょう」
「ユリウス様、それ、鎖鎌ですよ。雑草じゃなくて、敵を全滅させるやつですよ。というか、なんで園芸店に鎖鎌置いてあるんですか」
だけど、悔しいことに、楽しいんだよなあ。ユリウス様は相変わらず訳が分からないことばっかりするけど、そこが逆に……って、ああ、もう、私ばっかり好きになってどうするんだろう。
その後、私たちが昼食をとっていると——
「おや、アリシャ嬢じゃないか」
私たちのテーブルの前に立ち止まる人影があった。
「デミル殿……」
デミル男爵令息。社交界での顔見知りだ。私が社交界を離れて三年もたったのに、まさかこんなところで出くわすとは。
「アリシャさんのお知り合いですか?」
と、ユリウス様。
「馴れ馴れしく話しかけるな、この修道士風情が。貴族様には敬意を払え」
デミル殿は舌打ち交じりにそう言い放つ。
「二章百十四節、神の前に人は平等である。我々聖職者は、現世においてそれを体現する存在であるべきです。富める者にこびず、また貧しき者に驕らない。この世界における富貴貧賤、それらは人の……」
ユリウス様がお説教モードに入る。
「あいにく、俺はアリシャ嬢に用があるだけで、お前の話を聞くつもりはない。せいぜいここで一人喋ってろ」
そう言うや、デミル殿は私の手を強引に引っ張って、店の外に連れ出した。そのまま路地裏に連れ込まれ、私は警戒する。
「いったい何のつもりで……」
その時、デミル殿がいきなり高笑いをし始めた。
「修道女になったとは聞いていたが、まさかここまで身を落としていたとはな」
デミル殿は、見下した表情で私を見る。
「何だ、その貧しい服は? それに、さっきのあの男。お前、あんな男と働いてるのか? 見るからに貧相な男だよな。青白くって、筋肉の一つもない。おまけに、宗教狂いときた。はっきり言って病気だよ、病気。あーあ、これが妖精姫の末路とは嘆かわしい」
「ユリウス様を悪く言わないでください。ユリウス様は、あなたなんかより、よっぽど立派な方ですから」
私はデミル殿を睨み付ける。
「……お前、まさかあの男に惚れてるのか?」
デミル殿は目を見開く。
「そうです。だから、私たちのことは放っておいてください。さようなら」
立ち去ろうとする私を、
「待てよ、アリシャ」
と、デミル殿が壁に手をついて制止する。
「あんな男が好きだなんて、頭がおかしい。見るに堪えない。このままお前が、どんどん落ちていく前に、俺が救ってやらなきゃだめだ」
そう言いながら、デミル殿がぐいと身体を寄せてきた。
「俺がお前をもらってやる」
浮かべられた歪んだ笑みに、ぞくりと背筋を悪寒が走り抜ける。
「伯爵令嬢時代、お前はお高くすまして、男爵子息の俺のことなんて気にも留めてなかったろ? でも、今は俺の方がお前より上なんだよ。前々から、ずっとお前を気に入ってたんだ。まさか、こんなチャンスに巡り会えるとはな。今日からお前は、俺の女だ。目一杯楽しませてもらうぞ」
肩を無理やり掴まれたかと思うと、唇が迫ってくる。
好きでもない人間にこうされるのが、こんなに嫌だなんて、昔の私は知らなかった。愛も恋も知らなかったのは、私の方だ。でも、今は違う。私を渡すのは、絶対にあの人じゃなきゃ嫌だ。心がそう叫んでいる。
「触るな、この変態野郎!」
私は思い切り頭突きして、迫りくるデミルの顔を押しのけた。
「お前のことなんてだいっきらいだ! お前なんかに、私は渡さな……」
瞬間、私は思い切り殴り倒されていた。あまりの衝撃に、身体が動かない。
「お前が悪いんだからな。大人しくしていればいいのに」
デミルは私を抱えると、そのまま運び出し、通りにとまっていた馬車に押し込んだ。ただ事ならぬ様子に、乗車を拒否しようとした御者だが、デミルが貴族だと分かると、恐ろしそうに萎縮してしまう。
そして、デミル自身も馬車に乗り込もうとした時——
「あなた、何をしているんですか?」
ユリウス様が駆けつけた。
「今すぐアリシャさんを放しなさい」
デミルはそれに、小馬鹿にしたようなため息をついた。
「アリシャは俺が連れ帰る。貴族の妾として過ごした方が、修道女より余程いい生活ができるからな。お前なんかといるより、俺といた方がいい。全部、アリシャの幸せのためなんだよ。人の幸せを願えって、お前の大好きな神様は言ってなかったっけ?」
「……そうですか」
どうしよう。私の幸せなんて言われたら、きっとユリウス様は納得してしまう。このままだと、私は本当に、デミルに……。
だけど——
「でも、私は嫌です」
ユリウス様はそう言って、デミルをまっすぐに見据えた。
「私のアリシャさんは、絶対にあなたなんかに渡さない」
そう言うユリウス様は、いつもは枯れ木のような人なのに、今はまるで、激しく燃え盛る炎みたいだった。
「それで? 力づくで取り返すつもりなのか?」
デミルは嘲笑う。
「聖典第七章二十四節に、愛のために戦いなさい、という言葉があります。その教えの意味を、今は前より深く理解できた気がします」
ユリウス様はそう言って、聖典を構える。
「修道士の雑魚魔法か? あいにくだが、祈る前に、その口が使い物にならないようにしてやる」
デミルが剣を抜く。しかし、ユリウス様はまるでひるまず、むしろ不敵な表情を浮かべた。
「仕方ありませんね。聖典の真の力、あなたに見せてあげましょう」
真の力……? いったいどんな力が……!?
ユリウス様は聖典を振りかざした。デミルが剣を振るより早く、間合いに入り込み、そのまま一気に距離をつめ——
「食らいなさい! 聖典アタック!」
聖典の角で思い切りデミルの頭を殴った。がつんっ、という鈍い音と共に、デミルが倒れる。
「思い知りましたか。これが神の教えの重みです」
と、ユリウス様は聖典の埃を払う。
初めて見た……。聖典をそうやって使って攻撃する人……。
デミルを倒した後、ユリウス様はまっすぐ駆け寄って、私を馬車から下ろした。そして、そのまま何も言わないでぎゅっと抱きしめた。あ、私、こんなに震えてたんだ……。抱きしめられて初めて、そう気付く。
「ごめんなさい。怖い思いをしたばかりなのに、こんなことをして、もっと怖がらせてしまいましたよね」
ユリウス様が、苦しそうな表情をして身を引いた。私がユリウス様に怯えていると、勘違いしたんだろう。
「……怖かった。本当に、怖かった」
私は声を振り絞る。
「でも、今はもう怖くない。ユリウス様が、そばにいてくれるから」
私は身体をユリウス様の胸にうずめた。こうしていると、さっきまでの恐怖が噓みたいに消えていく。やがて、おずおずと腕が回される。その腕の確かな力強さに、温かい気持ちがこみ上げる。やっぱり特別なんだ。この人のことが好きなんだ。そう思う。
「そこの者たち! 男たちが決闘してるという通報があったが、お前たちか!?」
その時、通りの向こうから兵士がやって来た。
「ちょうど良かった。この男は、悪魔に魂を売った大罪人です。懲罰房に連れていってください」
ユリウス様がデミルを指さすが、
「はは、修道士の分際で、この男爵令息様を裁けるとでも?」
と、地面に倒れたままのデミルは、それでもなお余裕ぶった顔をする。
しかし、
「なんと、ユリウス聖ではありませんか! 聖人様直々に捕らえられた罪人、責任を持って捕縛いたします」
そう兵士がかしこまった面持ちをするや、
「え? 聖人? え?」
と、あっけにとられた表情になる。
「そうですよ。私は聖人——あなたを導く存在です。あなたには、後日改めて、私が神の教えを叩き込みますよ。あなたのだーいすきな、この聖典で、徹底的にね」
ユリウス様が聖典をぽんぽん叩くと、デミルの顔が真っ青になる。
「嫌だ! 聖典アタックだけは!」
恐るべし、聖典アタック……。いったいどれだけ痛いんだろう……。
そして、デミルは兵士たちによって捕縛され、しょっ引かれていった。
「あの男は、しばらく世に出させません。出てきても、二度とあなたの前に現れさせません。だから、大丈夫です。アリシャさんのことは、絶対に私が守ります」
ユリウス様は、私を背中にかばいながら、力強くそう言ってくれた。
*
その後、御者がお詫びにのせていくと申し出たので、私たちは馬車で教会に戻ることにした。
私たちは隣り合って座っていた。さりげなく身体を寄せると、ユリウス様が肩を抱いてくれる。きっと、さっきのことをまだ心配してくれてるんだろう。だけど——
「ユリウス様……震えてるんですか?」
震えてるのは、自分だけだと思ってた。
「怖いんです。もしもあのまま、あなたを失っていたらと、そう思うと……」
ユリウス様は、初めて見せる表情をしていた。
「ユリウス様、さっきデミルに、私のことを渡さないって。そう言ってましたよね」
「そう……でしたね」
「私のこと、誰にも渡したくないんですか?」
「……そうかもしれません」
「それに、私のアリシャさんって」
「すみません。失言でした」
「ユリウス様、心の中では、私のこと、自分のものだと思ってるってことですか? それとも、自分のものにしたいんですか?」
「そ、それは……」
「私のこと、欲しいですか?」
顔を見つめると、その瞳が不思議なうるみ方をしている。
「……あなたを失いかけて、気付いたんです。あなたのいない日々が、耐えようもなく寂しくて仕方ないことに。私は、あなたにいなくなってほしくない。あなたにそばにいてほしい。私は……アリシャさんのことが欲しいです」
欲しい。その言葉に、どくん、と胸が拍動する。
「ようやく……私を求めてくれましたね」
「ごめんなさい。こんな、身勝手な欲望で、あなたの自由を奪おうと……」
「いいんです」
私は首を横に振る。
「そう言ってもらえたこと、本当に嬉しいんです。やっと、やっと、少しでも私のこと、求めてくれた。大好きな人が、自分を欲しがってくれる。こんな嬉しいこと、ないんです。ありがとうございます。私、ずっと、ユリウス様のものになりたかっ……」
そう言いながら、私はぼろぼろ泣いてしまう。やっぱりだめだ。結局いつも、私の方が翻弄されて——
え……?
その時、何かが頬に触れた。少し湿っていて、温かい。離れていく顔に、あ、と気付いた。キスで、涙を拭われたんだ。
「な、何をしているんでしょうか、私は……!」
当の本人は、顔を真っ赤にする。
「ごめんなさい。ただ、アリシャさんが泣いていたから、慰めたくて……。でも、その泣き顔がとてもかわいくて。そして、涙があまりにもきれいで。見ているうち、愛おしくてたまらなくなって、変な気持ちを起こしてしまった。涙はどんな味がするのか、とか、肌は滑らかなのかとか、あああ、何を考えているんでしょう……。私はあなたのこと、本当に大切に思うのに、そのせいで、こんな訳の分からないことを……」
「いいんです」
あたふたするユリウス様の口を、私は唇でふさいだ後、ゆっくりと顔を離した。
「それが恋なんですから」
*
「ということで、アリシャさんに、見事おとされてしまいました」
その日、大臣のもとを、私とユリウス様は訪ねていた。
「つ、ついにか! ついに君も、克服してくれたか!」
大臣が顔を輝かせる。
「アリシャ殿、ご苦労だった。君の任務は完了だ。さっそくセザール家の名誉を回復させよう。そして、ユリウス聖。これからは、大勢の女との間に子を設けてくれ。さっそく明日から五人ほど手配する。ぜひ……」
「それはできません」
しかし、ユリウス様は言う。
「なぜだ!? 堕とされて……潔癖を克服したんじゃないのか!?」
「恋に、落とされたんです。私が好きなのはアリシャさんだけです。彼女以外に堕ちるつもりはありません。今日はそれをお伝えしにきたんです」
それを聞いて、大臣は目を白黒させた。
「そ、そうか……。いや、良かった。君にとっては、それも大きな進歩なんだろう。だが、これは困ったことになってしまったな……」
大臣は私を見る。
「アリシャ殿、その、誠に申し訳ないが、どうか任務を続けてくれないだろうか。ユリウスは君以外だめらしい。この男は頑固だから、きっと意見を曲げないだろう。もしかしたら、いや、おそらく、一生君にこの任務をやってもらう……」
「もちろんです! これからも、ずっとユリウス様のそばにいさせてください!」
思わず前のめりになって叫ぶと、大臣は驚いた顔をした。
しかし、
「おやおや、君も落ちていたんだね」
と、すぐに優しく微笑んだ。
「まったく、仕方ない。恋人たちを引き裂くほど、おじさんは野暮じゃないからね。上には私が掛け合っておくよ」
席を立った大臣に、私たちは頭を下げる。
「それにしても、君たちは本当にいい顔になったね。一人でいた時より、余程幸福そうだ。なんだっけ、聖典にもあった……」
「愛し合う者たちは幸いである、ですよ」
ユリウス様は、そう言って微笑んだ。
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