92・夢のような場所
平日に学校行かないで出かけるのって、なんだか落ち着かない。
風邪を引いて休む事はあったけど、その時って昼間なのに静かなのが落ち着かない。学校でのガヤガヤしてるのが無くて、じーっと寝てるのが違和感で。それでもベッドで横になって、道路を走る車の音をずっと聞いてるのがすごい長い時間に感じるんだ。
だけど、今は上井先生の車に乗ってどこかへと走っている。梅雨の季節だから曇り空だけど、朝から学校に行かずに出かけているのがなんだか緊張する。
「そろそろ着きますから、もう少し辛抱してくださいね」
「は、はいー……すみません、ズル休みしてるみたいな気持ちで……」
「ふふ、学校に行きたくてたまらないみたいですね」
「そうですね……期末試験も近いですし、赤点取らない為にもがんばらないとで……」
一日くらいなら何とかなるかなぁ……? でも、自分の頭の悪さは痛感してるから不安だなぁ。
ソワソワとした気持ちは止まないまま、もうしばらく待つ……
「学校での友人たちとの関係は良好みたいですよね」
「そうですね。勉強を教えてもらったりもそうですけど、他にも色んな事を教えてもらったりもしてますね」
「ほう、例えばなんでしょう?」
「えっと、バイトだったりハンバーガーの買い方だったり……」
鷹田には色々教えてもらってるし、助けてもらってるなぁ。波多野さんにももちろん、後は熊谷や渋谷さん、近藤さんに月野さんに……
何でもない事なのかもしれないけど、皆のことを話し始めるとなんだか止まらない。
……
「蹴られたらご褒美って言ってるのもいるんですよー。どういう意味かよくわかんないんですけどね」
「ふふ、面白い子もいるんですね。さて、着きますよ」
「あ、はーい!」
思わず話し続けていたけども、我に返ってどこに着いたか周りを見てみる。
「あれ……ここって音大ですよね……?」
「そうですね、ショウくんの通ってる付属高校もある、本来は通ってほしかった場所ですよ」
「なんで来たんですかー!?」
「D高校との環境の違いを知ってほしいなと思ったんですよ。テルくんが一番集中できて本領を発揮できる場所はやはりここだと思っていますしね」
「な、なるほど……でも、なんだかいきなりだと恥ずかしいなぁ……」
「大丈夫ですよ。話は通してありますから」
上井先生は先に車を降りる。俺も倣って降りるけども、なんだか緊張するなぁ……
――
「一日中楽器触ってて良いなんて、天国ッスね……あっちこっちから色々聞こえてくるのも全部聴きたいッスね……」
「えー!じゃあ今からでも付属高校に転校しちゃいなよー! 私も付属高校からだし!」
「一緒にいたカッコイイ狼の人は!? いつも一緒にいるの!?」
「家庭教師の先生っスよ! 付属高校でもずっと楽器触れるんですか!?」
「最低限の勉強あるけど、それ以外は基本的に練習だよー! 座学もあるけど楽しいよ!」
「先生ってやっぱり既婚……!? お付き合いしてる人っている!?」
「先生は独身だと思いますし、そういう人は俺、知らないッスね! 音楽の事なら俺、何でも大好きッス!」
応接室に通されて少し話をした後、自由に見学する事になって音大のお姉さんたちに声をかけられて、音大について話を聞いている。
この場にいるだけでもうとろけそうなくらい、ワクワクしてたまらない!
「楽器は何触ってるのー?」
「先生からは何を教わってるの!? でもたぶんピアノとヴァイオリンとかだよね……」
「そうッスね! ピアノとヴァイオリンを教わってます! だけど、他の楽器も基礎だけ教わりました!」
「おおー、聞いてみたいなー!」
「先生は他の楽器もできるの!? もしかして、ハープとかも……」
「わかんないけども、先生ならたぶんできそうな気がしますね!」
「教えてもらって恋のワンチャンー!!」
「アンタは少しは欲望隠しなさいっての!」
「ハァー!!恋が無くちゃハープなんて弾けねえんだよおおお!!」
やっぱり音大生ってなると人が自由だなぁー!
「とりあえずよかったら一緒に見て回るー?」
「いいんですか!? お願いします!」
「先生が好きそうなのあったら教えてね!!」
そんな風にしてお姉さんたちに連れられて音大を回っていく。
どこだろうと輝いてるように見える。
それは、ポジティブに音楽を捉えてるだけじゃなく、神経質にしていたり悩んだりしている様子もある。だけど、それが真剣さだと思うし、何かしらの軸を持って打ち込んでいるからのように思える。
いいなぁ、楽しいなぁってすごく感じる……でも、それだけじゃなくて、ここに来るなら自分の腕をもっと磨かないといけないとも思う……
……
「ここらへんは練習室だね! いっぱい部屋があるでしょー!」
「えっちょっと見てよなんでエーコとジュン様が一緒にいるの!?」
「パートナーと課題の練習する時にもよく使うんだよ! ピアノとヴァイオリンは定番だね!」
「な ぜ 私 は ハ ー プ な の」
「この恋愛脳は放っておこうねー!」
「あははは……」
そういえば、ショウくんと一緒にデュエットするのってすごい楽しいもんなぁ……
心ゆくまで同じ何かを一緒にできる相手って限られるのを考えると、ショウくんとショウくん以外の皆とでどうしても距離ができちゃうんだよね。
それはちょっと寂しくもあり、だけども仕方ないの事。でも、ここに来たら一緒にできる人がいっぱいいるんだよね。
「あ、あのー……す、すみませんー……」
不意に声をかけられる。見ると厚い丸眼鏡をかけたモグラな感じの女の人だった。
「はーい、どうしましたー? 土田先生ー?」
「実は……その……」
「あー、また道に迷っちゃいました?」
「そ、そうなんです……! すみませんっ……! ここはどこですか……!!」
「はいはい、案内しますよー! 案内ついでに君も一緒に来る?」
「あ、えっと……俺も大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですよー……! す、すみません……」
「ちなみに土田先生は学校ですぐ迷子になる有名人だよ!」
「は、恥ずかしいのでそんな事言わないでくださいー……!」
先生も個性的だなぁって思わず笑っちゃう。
「ご、ごめんなさいごめんなさい……」
「あ、怒ったりしてないですよ!? そういう顔の模様なんです!!」
「あ、ああう……」
そういえば最近、気が緩んでて仮面模様の事を忘れて普通に笑う事が多かったなぁ……!
ともあれ、一緒にテコテコ歩いて快活なお姉さんについていく……
「着きましたよー!」
「は、はうー……き、緊張します……」
「そう話してるって事はプリンス様とのレッスンですよね!?」
「プリンス様……?」
「誰もを寄せ付けない孤高の天才ピアニストなの……とってもストイックでそれが良くってね……」
あれ、それって――
気がついた時にはドアが開く。
「とっくに開始時間を過ぎているんだが、また遅刻を――」
今日は会いたくなかったような、でも、会いたかったような……
「マイナ、お前どうしてここに……?」
「そ、その……気分転換のために?」
「……全く意味がわからない」
「あれ? もしかしてふたりは知り合い……!?」
「あ、はい。小さい頃からの――」
「ただの知り合いだ。友達でもなんでもない」
そう言ってショウくんは背を向けて、練習室へと入っていく。そして、何故かお姉さんたちは両手で口を抑えたり、体を仰け反ったりし始める。なんで……?
「マイナ、お前も来い」
「え、いいの?」
「いいから。土田先生も早く」
「あ、はいー……! あっ!案内ありがとうございましたー!」
「いいえ!!こちらこそ!! ありがとうございます!!ありがとうございます!!」
テンションがおかしいお姉さんたち、練習室のドアを閉めるとそのまま奇声をあげはじめる。本当になんで……???
「言っておくが、この学校の誰であろうと僕の事は話すなよ。面倒だから」
「お、おう……」
ショウくんもなんか苦労してるんだなぁ……
……
――ショパン:ピアノ・ソナタ第2番第1楽章
何事においても一番最初はとても重要なのだけど、ショパンの曲の始まりは本当に素晴らしい。
この曲も一音で心を惹きつけ、その後は大雨のように打ち付ける重くシリアスな音が続いたかと思えば、不意に穏やかで甘い音が。でも、コロコロとその雰囲気は変わっていく……
例えるなら、ベートーヴェンの曲は建造物のように精巧なものだが、ショパンの曲は現と夢と灯と陰で織りなされる朧気なものな感じだ。
ひとつひとつの音の意味で考えても仕方なくて、奏でる事で初めて姿が見えてくる……
それは音に限らず、このピアノ・ソナタ第2番全体を通してもそうで、ひとつひとつの楽章が独立しすぎていて、繋がりがわからないと言われることもある。
だけど、全てを聴いた時に何故か腑に落ち、心に染み入るのが、ショパンだ。
「あ、あれ……? 緊張していますかぁ……?」
「なんだかんだ競う相手の前だ。万が一にでも舐められたくない」
「すごい良い演奏だったと思うんだけども、普段と違うんですか?」
「えと……いつもより震えるっていうんですか……? すごく良い揺れです……」
「いつも思っているが、土田先生は独特過ぎるんだ」
「あー……うー……普段はすごい綺麗過ぎてて……なんていうのか……」
「それなら何故、コンクールの課題曲をショパンにしたんだ……」
「そ、そのー……あー……うー……」
「……マイナは何を弾くんだ?」
「ん、俺はベートーヴェンの《悲愴》の第1楽章だよ」
「何故、お前がベートーヴェンなんだ……」
「お互い、苦手な方を練習してるのかもね!」
「そ、そうなんですよぉー……」
"正しい音を奏でる"っていうとすごく語弊があるんだけども、楽譜に書かれているのは作曲家からのメッセージで何が正しい音なのかを考えるのは演奏する人なんだ。
ひとつひとつの音を計算して整えて作られた古典派、並んだ音の対比や流れを感じ取り表現をしていくロマン派、みたいな。うーん、もっと良い言い方があると思う。
ショウくんは綺麗に並べるのが得意だし、俺はドワーってやってみちゃう所があるみたいな。
「けども、今日は揺れてますよぉ……良い揺れでぇ……」
「わかったからレッスンを続けてくれないか……」
「あぁ、そうでしたぁ!」
それからショウくんのレッスンが続いていく……
――
「で、何故ここにいるんだ?」
お昼休み、ショウくんに連れられて学食へとやってくる。
「うーん……なんて言ったらいいんだろう……」
上井先生に連れてきてもらった……っていうのはたぶんちょっと違うし、いうなら速水先輩との事が発端。理由を話すならそれなんだけども、話しても……きっと大丈夫だよね。
「人付き合いでトラブルがあって……落ち着いてほしいって、それで上井先生に色々お世話になってて」
「トラブルというのは?」
「良くしてもらっている先輩がいて、その人が大変なんだけども、だけどもその人のためになってないから付き合い方を考える……のかな?」
「その人のためにならない、というのは?」
「優しくするのはその人のためなのか、それとも自分のためなのかって感じ」
う、うーん……言葉にすると要領よく話せない……ショウくんに伝わってるのかなこれは……
ショウくんも少し考えている様子。
「……例えばだが、注射を嫌がって暴れる相手を見かねて注射を代わりに受けるようなものか?」
「ん、んー……そうなのかも。でも、なんでそんな例えなの?」
「小さい頃、お前は注射をすごい嫌がってただろ。覚えてないか?」
「あー……!! そんな事あったね!」
「この世の終わりみたいにお前が泣いてて……哀れに思って予防注射を代わりに受けたらお互い後から大変な目に遭ったからな」
「うん……病気にかかっちゃってそれで……ってあれ? ミヤネも大変だったの?」
「……言ってないから知らないか。その時、僕も寝込む事になってな……」
「そうだったの!? ずっと知らなかった……ごめんね……」
「お互い悪かっただけだ。子どもだったしな」
忘れてる事も多いけど、知らなかった事も多いなぁ……
「でも……確かにそんな感じかも。可哀想って思ってもその人のためにならない事をしちゃいけないんだよね」
「そうだな。子どもながらに僕も学んだ。時には心を鬼にするのも大事という事をな」
「なるほどなぁ……」
優しくするだけが優しさじゃない……って事だよね。
「……と、そろそろ別れよう。午後は授業だ」
「ん、わかった! がんばってね!」
「ああ。くれぐれもだが、ここの奴らに僕の事を聞かれてもあまり話すなよ」
「ん、わかった!」
学食を片付けてショウくんと別れる……
「ねえねえ!? キミって宮音様の友達なの!?」
「えっ、うん、友達だと思ってるけど……」
「宮音様の事教えて! 好きな食べ物とかわかる!?」
「え、えっとー……」
ショウくんもやっぱり大変なんだなぁ……!
――
「やっぱりここに通う人って個性的ですね……」
「そうだねぇ、それに男の子はどうしても少ないし注目されがちだもんねぇ」
今日はなんだかんだ一日過ごしてしまい、音大の職員さんに声をかけられて改めて案内を受けている。
「ここは男子寮なんだけども、比較的男の子は少ないからそこまで部屋数は無いのよねぇ」
「へー、寮もあるんですね! 誰かとの共同生活ってなんだかワクワクしちゃいますね!」
「防音室もあるけども、しっかり閉めないと迷惑になるから忘れないでねぇ」
「おー……流石ですね!」
「お夕食は17時からで、遅くなる時は連絡をしてくれれば取って置けるのよぉ」
「家に連絡する時みたいですねー!」
「そうねぇ、できる事ならお家みたいに過ごしてほしいからねぇ」
移動時間とかも大変だし、寮に住んだら練習時間たっぷり取れるようになるのかなぁー!
「それで朝ごはんは6時半からねぇ。早くなりそうな時はやっぱり連絡をちょうだいねぇ」
「へー、そうなんですね!」
「大きいお風呂もあるけど、時間が決まってるから気を付けてねぇ」
「皆でお風呂入ったら楽しそう!」
「ふふふ、はしゃぎ過ぎないでねぇ。他に質問はあるかしら?」
「特にはありませんよー! あ、でも上井先生はどちらにいらっしゃいますか?」
「あらぁ、もうお帰りになられたわよぉ?」
「えっ!?なんでですか!? 俺、どう帰ったらいいんですか!?」
「えぇ? 今日からここで暮らすんでしょう?」
「……えっ?」
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