107・オン・ステージ
トイレに来て大正解だったかも。
落ち着こうと思って水を一口飲もうとしたけれど、喉を通らないどころかお腹が締め付けられるようで吐き気がしてくるくらい。
舞台に立てるって信じてたけども、やっぱり無理かもしれない。その理由はなんとなくわかってる。でも、大丈夫って自分自身に言い聞かせようとするたび、頭の中の考えが真っ白に埋め尽くされて自分がどこかに行ってしまう。
眩しく照らされた舞台の上を、真っ暗な奈落の観客席から眺めて、そうしたら自分も視線で刺す側にいる事に気が付いた。君は平気なの? 俺は平気じゃないのに――誰かが拍手で迎えられるたびに、その後に起こる悲劇に身体が備えていた。拍手がその人を見送るたび、心の底から安堵して、でも自分の順番が迫ってると怖くなる。
前日なのに数学の勉強をしたのは、頭の中を少しでも別ので埋めておこうと思ってくれていたのかなぁ? ああ、でも俺が考えなしに張り切り過ぎたせいでダメにしちゃったかも……ごめんなさい、上井先生……
時間を見る。そろそろ行かなくちゃ。
頭の中は真っ白なのに、身体だけは動く。逃げ出したいって叫びは無視されて、しなければならないって無意識だけで、控室に向かう。
――
あれ? 上井先生は?
上井先生が来てくれないまま、ピアノがポツンと置かれている控室にやってくる。直前に行える最後のリハーサルをここではする。時間はあんまり無い。楽譜を広げ、ピアノに向き合う。
頭は真っ白で埋まってるのに、演奏は何も不自由しない。この音はこうする。ここはこうする。機械的に身体が動いていくのに任せるだけで、それ以上の意味は無い。絶望から始まるこの演奏なのに、その絶望の意味を込める事もできない。
心、あるいは頭のどこかでは、この曲じゃなかったらよかったのに、と過ぎった気はするのに。
「――時間だ」
案内係の一言を聞いて、俺は荷物を収めて歩き始める。
――
舞台の袖で、順番を待つ。
すぐ目の前の別の世界はスポットライトに焼かれている。奈落は真っ暗だ。直前の人の演奏は、まるで俺の残りの時間をカウントダウンしているようだ。
演奏が終わる。
ギッ、と椅子の音がする。
拍手の音がする。
――アナウンスが流れる。
俺の番。俺の番。俺の番。俺の番……
息をするだけでも、苦しい。
行かなきゃ。
怖い。
怖い
「なぁ」
声をかけられて、そっちを向く。
「お前の演奏を待っている奴がいる」
〜〜
「あ、い、いえ、わ、わた、わたしは、と、とと、ともだち、友人、で」
「ご、ごめんなさい……い、いえ、その、わ、私なんかが、す、すみません」
「す、すごいなぁって、思ってて、ここに来て、改めて思って」
「ぐ、偶然、知り合って……ホールの中も、ぶ、舞台の上も、わ、私にはと、遠すぎる場所だって、改めて思って」
「だ、だだ、だから、本当に、本当に私たちとは、ち、違う人だって、思っちゃって……」
「あ、でも……えと、あの……私が知ってるものも、た、食べるし……私も、わかる話も、していて……」
「えっ!? 学校で、ですか!? あー……その……私から見ると、浮いていますね……」
「わ、わかりやすいのだと……服……みんなヨレヨレなのに、マイナくんはパリッとしたシャツだったりでパッと見て他の皆と違うのがわかっちゃうんです」
「あ、でも、学校の皆とは仲良しですよ! 一昨日なんて、クラスの子とふざけて、それで笑い過ぎたのか気を失って……でも、そのまま熟睡しちゃって。勉強頑張ってたからだと思うんです。短冊に一緒に卒業できますようにって書いてあって、皆で飾って……」
「マイナくんの演奏は今日で2度目ですね! この間に軽音部でライブをしたのを。私、詳しくないけど、すごく良かったです! すごく、切ない歌だったけど、それが、私たち一人一人に向けてくれているようで……」
「マイナくんって優しいんですよね。少し、抱え込みがちで心配にもなるけども……きょ、今日も、マイナくんの本番なのに、私が緊張してるせいで気を使わせちゃったなって……」
「そ、それが、やっぱり……マイナくんと、私は違う世界で生きているんだなぁ……なんて思っちゃって」
「マイナくんが舞台に上がったら、もう二度とあえなくなるような気すらしちゃって……あ、いや、でも、仕方ないってわかってて……」
……初めは吃ってばかりで呆れそうだった。なのに、マイナの事になると途端に饒舌で早口になった。そして、それは概ね同感する話だし、興味を惹かれる話だった。
「ち、違います! 違います! 友達、友人です!!」
「私は、す、少しだけ……マイナくんの手伝いができれば、そ、それだけでいいんです……」
「楽しそうにしてるマイナくんが見るだけで……」
僕も、それで十分なんだ。
〜〜
ショウくんに声をかけられて、俺はウン、と頷き、舞台へと歩き始める。
なんでここにいるか、今日は聞きに来てくれたのか、そんな疑問とショウくんが居てくれた嬉しさで頭の中が埋まる。
中央まで進んでからゆっくりと一礼する。
――波多野さんたちの居る場所はあそこだ。
顔を上げる一瞬だけ、見る。居てくれた。
――嬉しい。
ピアノへと歩みを進める。
――そういえば。
ママがリハーサルで本当は俺たちの事で頭がいっぱいだったのは知らなかったな。
もうすぐママとお別れで、それがイヤでイヤで俺はグズってたから。
この曲の、初めの音は絶望から始まる。
全てがひっくり返るような悲劇は、確かにある。
だけども、絶望は静かに始まり、そして溢れてくるものだと俺は思う。
この《悲愴》の第1楽章を作った時のベートーヴェンの気持ちは、楽譜に書いてある事だけではわからない。これが正解なんて自信を持って言うのは無理だけど、寄り添い、俺の音で鳴らしてみるよ。
ひとつひとつの音の色が見える。
心のままに響かせるための方法を身体が知っている。
聞いてもらえたら嬉しいな。
届いたら嬉しいな。
――ママとのお別れはイヤだったけども、
ママのオペラは大好きだったなぁ。
――
「お兄ちゃん、本日の最優秀賞だってね! おめでとー!」
「まぁ地区予選だし当たり前だよなぁ」
「き、緊張したんですよ!? すっごく!!」
「ふふ、つつがなく終えられただけでも私は嬉しいですよ」
コンクールが終わってからみんなに褒めてもらえて嬉しい!
一時はどうなるか不安でたまらなかったけども、何とかなって本当によかった!
「あ、あの……マイナ……くん」
「あ! うん!」
「おめでとう……!」
「ありがとう!! 波多野さん!!」
今日、演奏できたのは波多野さんが来てくれたおかげってお礼を言いたいけど、ちょっとだけ呑み込む。だって、ちゃんと伝えたいんだもん。
「ミキさーん!! この後、ご飯を一緒にいかがですかー!!」
会場を出て、車を待っていた時に大きな声を出しながらこちらに近づいてくる人がいる。えっ!? 土田先生って灰野先生と知り合いなの!? 灰野先生は土田先生の猛アタックを足でブロックしてる。なにこれ面白い。
「おい! 頼むから大人しくしてくれ!」
「あぁっ!? ショウくん!?」
「ああ、マイナ。おつかれ」
「う、うん! ありがとう!」
ショウくんにもスッゴいお礼を言いたい。言いたい!
「まだ仕事残ってんだろぉ!?!?」
「すぐ! すぐ終わらせますからぁ!!」
これもどういう事なのか知りたい。
「いや……これはむしろ好都合か……土田先生を持って帰ってくれ、灰野先生」
「ハァッ!? イヤに決まってんだろ!?」
「邪魔なんだ。わかるだろ?」
「何でも!! 何でもしますからー!! ミキさんー!」
灰野先生を好きになれる要素ってなんだろうなぁって思ったけども、これは俺にも好都合かも。
「そういえば灰野先生、夏休みの間に泊まれる場所を探してましたよね」
土田先生がその言葉を聞いて、嬉しそうにする。
「私の家をミキさんの家のように使ってください……」
灰野先生がこっちを見る。後で絶対に殺すって顔なのが面白過ぎる。これは俺の大勝利!!
「さて、車が来ましたよ」
――
帰りの車は楽しかった。
どんな話をしたか頭に入ってないけども、すごく楽しくてフワフワした心地だった。明日からはまた普通の日が始まるのが逆に信じられないくらいだ。
「テルくん、よければ送ってさしあげては?」
「あ……だ、大丈夫ですよ……!」
「ありがとう! じゃあ行こうっか!」
直接、波多野さんの家の前に送るには車が豪華で驚かせるからって事で、上井先生のマンションの前で降りる波多野さん。
そこまで長くない距離だから、話せる時間はそこまて無いけど。
「「あの……」」
「「あっ」」
話しかけようとしたら完全に被っちゃった……
「来てくれて、ありがとうね」
「う、ううん。誘ってくれてありがとう」
……
「ピアノ……スゴかったよ……」
「えへへ……ありがとう」
「ご、ごめんね、詳しくなくて……」
「全然! 全然こっちこそ、ゲームの事とか詳しくなくて」
「でも……また聞けたらいいな……」
「その時は誘うね!」
……ハッ! また、俺、嬉しくて子どもっぽくなってる。落ちついて落ちついて……
でも、あっという間に波多野さんのお家に着いちゃう。玄関をあけて、波多野さんと今日はお別れ。
「それじゃあ……また明日」
「うん……あ、そうだ」
「……?」
そう、ずーっと気になってた事、これだけは聞かなくちゃ。
「その……今日、なんだかいつもと違うなぁって思って……波多野さんの……雰囲気……?」
「え……あ、その……お化粧かな……?」
「あっ! そうなのかも!!」
波多野さんが恥ずかしそうに顔を抑える。
「や、やっぱり変だった……?」
そんな事、ぜんぜ――待って、落ち着いて俺。少しだけでいいからカッコよく言おう……
「あー、えと……その……キレイ――」
待って! 見た目について、いきなり言うのは失礼だよ!!
「……って言ってもいいのかな……?」
伏せがちな波多野さんの顔がパッとこちらに向く。少しの時間、目が合う。
「あ、ありがとう……」
パタン、とドアが閉じられる。
その後、俺は顔が真っ赤になりながら車まで走った。
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