106・イン・ワンダーワールド
〜〜
マイナくんと上井先生が受付に顔を出しに行く。入場手続きを済ませた私たちは先に座席へと向かう事になった。
「あー、喉乾いたなぁ」
「私、お手洗い行きたくなっちゃった」
「あらぁ、それじゃあ私が席を取っておきますよぉ」
「一緒に行こうー?」
「うん……すみません、席、おねがいします」
そうして三人で、まずはお手洗いに向かうけどもすごい混んでる。
「地図見たらあっちにもあるっぽいから、そっち行こうぜー」
「うんー!」
そして向かった先には……関係者以外、立入禁止って書いてある扉がある。
「えー? ここ、入っていいのー?」
「は、灰野先生……!?」
「平気平気、私たち関係者だろ。たぶん」
堂々と入っていく灰野先生。ダ、ダメだと思うけど、灰野先生が堂々とし過ぎてて私にはわからない……
「お、トイレあったな。ごゆっくりー」
「いってきまーす!」
そのまま灰野先生は、適当な部屋の中に見えたウォーターサーバーから水を飲む。
「あー水うめー」
「えぇ……自販機で買うわけじゃなかったんですか……?」
「金無いしー」
「それなら出しましたのに……」
「羽多野の奢りじゃ申し訳ないじゃん」
「立入禁止の場所に入る方がどうかと思いますけど……」
「そこらへん緩いから平気だろ」
私は素人だからわからないけども、それでもダメだと思う……!
と、その時に反対側の扉が開く。よくない! 絶対に怒られる! ど、どどどうしよう!?
「あぁー! すみません!」
あれ、こっちが謝るより先に謝られた……?
「あのー実は迷子になっちゃって……」
え、えぇー!? 分厚いメガネをかけた女の人の一言に驚愕。いや、でも初めての場所なら迷子になるかぁ……安心じゃないけども、案内する事でここを離れる口実はできそう。
「えと……どちらまで……?」
「はい……客席の方まで行けばなんとか……うー、時間が……」
「は、はい、それなら……」
カナちゃんがまだお手洗いに戻っていないから、まずは道だけ伝えようとするんだけども……灰野先生が壁の方を向いてるのが目に入った。
「あの……? 灰野せんせ――」
「あー! 言うな!!」
灰野先生が静止するものの、その人は反応する。
「この声……少し掠れていますけども、ミキさんですよね!?」
「アー、イエ、ワタシチガウー」
「あー! その声こそミキさんです! お久しぶりですー!!」
「なんでだよチクショウ!!」
「あ、えと……お知り合い……ですか……?」
「はいー! 私は土田と申しますー!」
土田さんはすごく嬉しそうにしているけども、灰野先生は塩対応という奴でなんだか面白い。
「やっぱ一人で来た方がよかったな……チッ」
「あっ! ミキさんここは禁煙だからダメですよー!」
あの灰野先生に全く物怖じせずに対応する土田さん。その様子が面白くってたまらない。
そして、ちょうどカナちゃんも戻ってきて、一緒に客席へと向かう事にした。
「高校大学とずっと仲良くしてくれていてー!」
「ちげーから!」
「ミキさんはこう言ってるんですけども、ずーっと助けてくれて、私は恩人で親友だと思ってますー!」
「やーめーろー!!」
「灰野先生照れちゃってカワイイね!」
「うぐぐ……」
学校での灰野先生は大体の人が怖いって印象を持ってる。それは間違いじゃないんだけども、他にも色んな一面がある。たぶん、この一面も他の人には秘密にしてほしいんだろうな。
そう思うと、なんだか笑みが零れちゃう。
――
「やっと見つけた。どこに行っていたんだ?」
「はぅ……いつの間にか迷子になってしまって……」
「真っ直ぐ行って帰るのもできないのか……」
「紐付けとくしかないぞ。こいつはマジで」
「考えておく」
「ショウお兄ちゃんは今日は聞きに来たのー?」
「いや、土田先生の手伝いだ」
「そっか! がんばってね!」
その人はお礼を返しつつ土田先生を連れて行く。
所為所作にすごく気品があって、だけども少し冷たく感じる、でもとても真面目な様子がなんだか王子様みたいだなぁってぼんやり思ってしまった。
「知り合い?」
「うん! お兄ちゃんのお友だちだよ!」
「そうなんだ……」
周りを見ると当然だけども、私と同い年だろう子が何人も見える。マイナくんの本来の知り合いもきっと多くいるんだろうなぁ。
「さ、入ろう!」
カナちゃんに手を引かれて、ホールへと入る。
――わぁ、広いなぁ……
知識として知っているはずだけど、実際に来てみて思ったのは私の知らない別の世界で、ホールに繋がる扉はその入口に違いなかった。すごく広いなぁって感想しか出ない私に。小学生どころか、幼稚園児かなっ? て自虐しちゃう。
こっちよぉ、と梶原さんの優しい声が聞こえて、そちらに向かい、促されるままに席に座る。椅子の座り心地はとっても良くって、そのまま上を見上げた。
ここは2階席、でもさらに上に客席がある。そんな空間を飲み込む天井だから、当然高いんだけども、もし重力が逆になったら私は豆粒のようになるんだろうなぁって、よくわからない高揚と不安のようなものを感じた。
「お待たせ!」
マイナくんの声が聞こえて、ここは現実だと思い出させてくれたような気がして、私は少し安心した。
「あ、えっと……」
「あ、う、うん、す、座って」
隣にはカナちゃん、もう片方の隣にマイナくんが座る。まだ、人のざわめきがある。マイナくんに声を……何か…………
…………。……、、、…………。…………? …………?? …………、……………………。
私は、呼吸の仕方も、わからなく、なりそう。
「緊張しちゃうよね」
ウン……私は頷くしか出来なかった。
「そういえば、小さい頃に、ひとりでこういうホールに入って、当然だけど誰もいなくって、それが怖くて泣いちゃった事があるんだよね」
「その後、パパの所に走って、ギュって抱きついたまま離れなかったんだってさ。仕方ないからそのままリハをして、みんな笑ってたんだって。俺、本当に怖かったのになぁ」
「でも、今は良い思い出かも」
――
ここから舞台までの距離はすっごい遠いんだなぁって開会式が始まってから改めて思った。
「審査のために、演奏が終わった直後は拍手をしないようお願いします。いや! 感極まって自然としてしまうのはわかりますが! その情熱は演奏が終わり、奏者が下がる時に! 盛大に! 盛大にいたしましょう!!」
なるほど……たしかに審査の邪魔になっちゃうから、拍手のタイミングは大事だよね。
「では、本日の審査員より、それぞれ一言、どうぞ!」
そして5人の審査員の簡単な挨拶を始めるのだけども……
「あ、え、えーと……つ、土田響子ですー……み、みなさん、きょ、今日のコンクールの、た、ためにー」
土田さんが運営側だったのが衝撃的だったけども、それ以上に段取り良く土田さんが乗り切れるか心配でたまらない気持ちになってしまう……
なんとなく灰野先生を見ると、土田先生を見ないようにしてるのか、明後日の方向に顔を向けながら足を組んで、指をすっごいトントンさせている。すっごい我慢してるんだなぁ……
どうにか滞りなく挨拶も済まされていき、そして開会式が終わる。
それから少し、間を置いてから客席の照明が暗くなる。隣にいるマイナくんの顔は、見える。アナウンスが流れ、1人目が舞台に現れる。
私よりずっと大人びて見えるのは、フォーマルなドレスを着てるからか、それともしっかりとお 化粧してるから?
真っ暗な空間にポッカリと浮かぶように、眩しく照らされた舞台の上は、完全に非現実の世界だった。そこを堂々と歩く彼女は、神々しいような気さえする。
ピアノ椅子に座る。ギッ、と椅子が鳴った音が忘れ去られ、世界から時間は無くなってしまったのかと思うくらいの、永い一瞬の後にピアノの演奏が始まる。
そこには世界があった。私は、そう感じた。
――
「ハァー全員下手くそだったな」
「えー!? 私は上手だと思ったよー!?」
「1番手は少し期待させたけどよ、まぁそいつ含めて結局はピアノの発表会よ」
「灰野先生のレッスン、すごく厳しそうー」
「出来なかったら体罰としてグリグリ攻撃な」
お昼休憩になり、私たちは一旦ロビーへと出る。カナちゃんは灰野先生と楽しそうに話してて、すごいなぁって思う。
「あー、上井先生、俺、まだ早いけどもそろそろ準備に向かった方がいいですかね?」
「ふふ、まだ早いと思いますが、落ちつかないなら向かっても良いかと」
「そうですよねー……」
マイナくんが緊張しているのはすごく伝わる。何か、励ましたりしなくちゃ……
「えと……お、お手洗い、とか済ませておくのも……」
「あっ! そうだね! いってきます!」
「うん! お兄ちゃんがんばってねー!」
じゃあね! とマイナくんが行ってしまう。完全に選ぶ言葉を間違えてるよ私……
「あー、腹減ったなー」
「私もちょっとお腹減ったかも!」
お昼はマイナくんが演奏を終えた後に取る予定らしい。とはいえ、灰野先生もカナちゃんも良い意味で図太いなぁ……
梶原さんは席を、上井先生はマイナくんに付き添うという事で分かれる。私はなんだかんだと灰野先生とカナちゃんについていく事にした。
「あ、あの、灰野先生。軽食の自販機はこっちじゃ……」
「良いところあるの知ってっからさー」
「お邪魔しまーす」
また関係者以外立入禁止の場所に、当たり前のように入る私たち……絶対によくないよー……
「たぶんこの辺りだな」
「えー? 何がー?」
「……?」
運営側の人たちもお昼休憩を取りつつ忙しそうにしてる場所から離れ、ちょっと閑散としたところにやってくる。
「あー! 腹減ったなー!」
「えっ……!? なんですか……!?」
急に灰野先生が少し大きい声を出す。そんな、これでご飯を調達するなんて事できるわけ……
「ミキさぁん!? 私のお弁当食べますかぁ!?」
えぇ……? 土田さん……?? 土田先生……? もしかして、灰野先生ってば土田先生のお弁当をたかりにきたの?
「あー? お前の食べる分だろー? 貰ったら悪いからよー」
「私、少食ですからぁー! むしろ多くて困ってて!」
「仕方ねえなぁー」
「灰野先生と土田先生って仲良しなんだね!」
違う……これは違うと思うよ、カナちゃん。
「おい! また迷子になるから急に走るなと――」
あ、さっきの王子様だ。
「あっ! ショウお兄ちゃんだ!」
「……またお前たちか。ここは関係者以外立入禁止だぞ」
「ショウくん大丈夫ですよー! 灰野先生は私の親友ですし、それに――」
「トマトやるぞ土田」
「わぁっ! ありがとうございます♥」
王子様もふたりの様子にやれやれとしている……
「う、うちの灰野先生が申し訳ありません……」
「……いや、手が付けられないのはこちらも同じだ。まったく……本当に成人なのか疑わしい」
「そ、そうですね……」
同じ音楽の世界に生きる灰野先生と土田先生だから、仲良くできるのかな……仲良く? でも、たぶん仲良く。
「まぁいい……午後の開始に土田先生が間に合えば何でもいい」
王子様は出てきた場所に戻ろうとする。
「あ、あれ……ここでお昼を……?」
「僕も土田先生も、人が多い所はイヤなんだ」
本当に会場の隅っこ。たしかにここなら落ちついてご飯が食べられる。でも、どこからどう見ても王子様にしか見えないこの子がここでご飯を、しかも、私も見たことあるようなのを食べているのがすごい意外だ。
「……なんだ?」
「あっ、いえ……わ、私もこういう所が……好きで……お、同じ事が意外で」
「……違う生き物だとでも思っていたのか?」
私は首を縦に振った。
広いホールってなんか良いですよね。
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