02-08. その、名前
──気がつけば、学院に入学して、一年が過ぎ去ろうとしていた。
学年末試験は今日が最終日だった。
徹夜続きで眠気は最高潮。体力的にもボロボロだけど、集中してやりきった。
今日は騎士科の少年と会う日でもある。
疲労困憊した体を引きずって、屋上庭園に行ってみると、あの少年の姿はなかった。
いつものように、一人でランチを食べはじめる。しかし食べ終えても一向に彼は現れない。
今日は来ないのかしら。急な用事とかだろうか。前にも一度あったわね。
そんなことをぼんやり考えながら、何とはなしに晴れた空を眺めていた。
お腹がいっぱいになると、ますます眠気が強くなる。天気も良いから、ポカポカして気持ちいい。
(ちょっとだけ寝ちゃおうかな……)
連日徹夜で疲れていた私は、本が詰まった鞄を枕にして、上半身だけ、ベンチの上にころんと横になった。
すぐに強烈な睡魔に襲われる。心地よい眠気に身を任せ、私はそっと目を閉じた。
──いつの間にか熟睡していたようだ。
すぐ近くで、誰かがこちらを覗きこんでいる気配があった。目を開ける前に、その誰かはパッと私から離れる。
あの少年だ。どうやら遅れて来たらしい。
「……あふ」
私はゆっくり体を起こし、猫のように伸びをして、くぁーっと欠伸した。
眠い目を擦っている私に、少年はさっと後ずさってから声をかけた。
「っ、やぁ……」
「こんにちは。今日はもう来ないかと思っていました」
「……遅れてすまない。その、教師の呼び出しがあったから」
少年はなぜか上擦った声で答えると、すいっと目をそらした。
起きたばかりでボーッとしていた私は、彼の挙動不審な様子に気づかず、少しずれた眼鏡を直しながら懐中時計を確認した。
「もうこんな時間ですか……今日はもう、お開きになっちゃいますね……ていうか、顔が赤くないですか? 風邪でも引きました?」
「いや、ものすごく元気だから! 気にしないで!」
「そうですか。何とかは風邪を引かないって言いますもんね、ふふふ」
「そうだね……って、今僕をバカ扱いしたよね?」
「いたたたた!」
ニッコリ爽やかに笑った彼に鼻をつままれた。
彼の顔が赤いのは……うん、気のせいだったみたいだ。すっごく普通。
いつも通り、まるでキノコの胞子のようにキラキラを撒き散らしている。
そろそろ午後の授業が始まりそうだったので、つままれた鼻を擦りながら、私たちはすぐに解散した。
◇◇◇
──教室の移動で学内を歩いていると、あの少年を見かける事が時々あった。
今日も、教室移動の途中、偶然見かけた。
彼はいついかなる時も、女子生徒から遠巻きにきゃあきゃあ言われている。
あの顔だし、そりゃモテるだろう、と様子を眺めていると、近くにいた女生徒たちが「"氷の貴公子"様だわ」「なんて素敵なのかしら」とはしゃいだ声を上げた。
氷……氷かぁ……
たしかに一見クールに見えるけど、あの無表情は単に眠いだけだと思う。
彼の中身は甘えたな末っ子気質なのに、勝手に作られたクールなイメージ通りに振る舞うのも大変そうだ。
少し同情したけれど、よく考えたら、彼だって私を相応に困らせている。因果応報だ。ざまぁみろ。
私は一人納得して、その場を後にした。
次に彼と屋上庭園で会ったのは、学年終わりの長期休暇に入る直前だった。
いつものベンチに並んで座り、どうでもいい話をする。
話してる間、彼は大抵気の抜けた顔で空を見上げているけれど、今日の彼は、なぜか言葉少なだった。
しかも、私をチラチラ横目で見てくる。何なんだ。
学年末試験は大丈夫だと自信満々に言ってたけど、やっぱり赤点だったのだろうか。
「……何ですか、チラチラこっち見て。もしかしてまた赤点とかですか。でも、あなたの勉強はもう見てあげませんからね」
「……君がコツを教えてくれたおかげで、学年末試験は無事パスしたよ。問題ない」
「では、さっきから何なんですか」
「別に……何でもないよ」
煮え切らない男だな。じゃあ何でそんな態度なのよ……と眉根を寄せると、少年は小さく苦笑して、いつもの雰囲気に戻った。
そして普段のように雑談を始める。
「来週からの長期休暇、僕は領地に戻る予定なんだ。二番目と四番目の兄上も、僕に合わせて顔を出してくれるんだよね。久しぶりに会うから、すごく楽しみ」
末っ子全開で嬉しそうな彼は、学内で時々見かける姿とはまるで違う。
やっぱりこっちが素なんだろうな、と思っていると、「君は領地に帰るの?」と水を向けられた。
「いえ、私はこちらに残って勉強します」
「そうなんだ。君は、ほんとに勉強熱心だね」
彼は目を丸くして唸った。
でも私の場合、ギロチン回避がかかってるのだ。必死にもなりますって!
「帰らなかったら、ご両親が心配しない?」
「お父様とお母様が王都に来られるので、会う予定はありますよ」
「そう、なら良かった」
彼はほっとしたように微笑む。
こういう時、彼は根っこの部分でとても善良な人間なのだな、と思う。
例えば、自分の顔を利用して、他人を操るとか、欲を満たそうとか、微塵も考えてなさそうだ。
前回人生の私とは全然違うわ……
人としての格の違いのようなものを見せつけられた気がする。
一人反省していると、彼は何気ない調子で尋ねてきた。
「そういえば、今まで君の名前や領地って聞いた事がなかったね。せっかくだから、教えてほしい」
「私の名前ですか? ……アデルハイデ・ローエングリムです」
「………………え?」
深く考えずに答えると、少年の目が点になった。
「あのローエングリム!?」
彼はこれ以上ないほど目を見開いた。口もあんぐり開けて驚愕している。それでも貴公子っぽいのがなんか腹立つ。
「そうですよ、あのローエングリムです」
「それは……とんだ御無礼を」
彼はガバッと立ち上がって、直角に一礼した。
……まあ、驚くのも無理はない。
貴族の娘であれば、実家で花嫁教育を受ける事が多く、学校に通う有力貴族の令嬢なんて滅多にいないからだ。私は例外中の例外だ。
「どうぞかしこまらないでください。今さらですし、私は実家を出て文官になる予定ですから。礼儀とか、気になさらずとも大丈夫ですよ」
「そうなんだ……」
「ええ。ですから、今まで通りでお願いします」
私が頷くと彼は安堵を浮かべた。そこで、はたと私も気づいた。
「そういえば、私もあなたのお名前を知らないみたいです」
「本当に、君は僕に興味ないよね……」
「ええ、全くないですね……」
「真面目な顔で肯定されると、さすがに腹立たしいんだけど」
「あなただって、今まで聞かなかったじゃないですか」
「いや、君の場合は、何か事情がありそうだったから、聞かなかっただけだよ」
ほう。一応あってる。
彼は気を利かせて、あえてこちらの事情に踏みこまなかったようだ。
そっか、ちゃんと気遣いできる子だったのね……と内心感心していると、少年はじとっと半眼で睨んできた。
何かしら、このプレッシャーは。
「私の顔に何か?」
「僕の名前、聞いてくれないの?」
「そんなに興味ないので……」
「本気で友だち甲斐がないんだね、君は」
「聞いてほしいんですか?」
「……いや別に?」
別に、と言いながら、完全にふてくされている。ほんと子供っぽいなぁこの人……と思いながら、私は棒読みで尋ねた。
「では、あなたのお名前をお聞きしても?」
「やっと聞いてくれた」
ぶすっとしながらも、声がすごく嬉しそう。
それからすぐに、彼はキラキラ満開の笑顔になった。発光しすぎて眩しい……と思ったその時。
少年の声が、私の鼓膜を震わせた。
「僕は、ジーク・ライヴァルトだ」
…………ジーク・ライヴァルト。
それを聞いた瞬間。
私は頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。全身がじわじわ恐怖に侵され、冷や汗が背中を伝う。顔から血の気が引いて、体が震え出す。
それは、かつての記憶に刻まれた名前だ。
反乱軍を纏めあげ、隣国の侵略を退けて、圧倒的な民衆の支持により王都を無血で陥落させた、若き"英雄"。
──そして、反乱軍の将として、私を処刑台に導いた男。
「……どうかした? 顔色が悪い」
彼と同じ名を持つ少年が──血の気の引いた私の顔を、ひどく慌てた様子で、覗きこんでいた。
次はシリアス回です。




