八歩目
「ライチ、日に日に怪我増えてない?」
「彼氏のDVがさ……」
「はあ?」
京子の眉が吊り上がったのを見て、ライチは慌てて取り繕う。
「冗談! 冗談だから! これは、なんというか、修行? のせい!」
「あっそう。ならいーんだけどさ。修行って、格闘技かなんかでも習い始めたの?」
「そうそう。彼氏の趣味でさ」
「あたしまだその彼氏っての疑ってんだけど。ほんとに実在してんの?」
「してるよ。このあおたんがその証拠」
「やっぱDVじゃないのそれ」
「違いますぅー。修行ですぅ」
京子は呆れたように息を吐いた。
「別にライチがバスケ辞めようが自由だけどさ、怪我するような危険なことだけは止めなよ。ライチだって女の子なんだから」
それはもう手遅れかもしれない。そう思いつつ、口に出すことはしないライチだった。
椿と出会った翌日から、【剛体】と【大力】の修行が始まっていた。体の痣は【剛体】の修行のせいだし、腕の痣は【大力】の修行のせいだ。どちらもかなり痛い。辛いのではなく痛い。そのうち大けがをしてもおかしくはないし、既に骨は一回折られた。怪我をしないうちに、という意味では明確に手遅れだった。
当初の予定を繰り上げてそれらの修行が始まった切っ掛けは、数日前に本家から雛菊に届いた連絡だった。内容は、竜司の婚約者を連れて挨拶に来いというもの。どうやら椿を経由してライチの存在が伝わったらしい。それを吉報だと捉えるような呑気な人間はライチだけであり、それらを聞いた雛菊と竜司は大いに焦った。今の段階で本家に連れて行った場合、まず引き離されて記憶を消されて終わりだと思ったからだ。本家の決定に異を唱えるには決定的に実績が足りない。そこで、雛菊と竜司は苦し紛れの時間稼ぎを行うことにし、その間にライチを徹底的に鍛えることにした。可能であればその間に手柄を上げ、ライチが有用であることを示すために。
(手柄ったってねー。最初に出会ったときに二人を助けたのでプラス一? カニ追い返すの手伝ったのはプラス入るのかな? そろそろ余震も収まりそうだっていうし、難しい気がするんだけどな)
ライチは背もたれに体を預けてぼんやりと窓の外を眺めていたが、急に立ち上がり、鞄に荷物を詰め始める。
「ちょっ、どうしたのライチ」
「ごめん早退する。先生には生理って言っておいて」
「また? 今月休み多いよ」
「もうちょっと増えるかも。今ちょっとやりたいことあってさ。お願い。一生のお願い」
「そこまでしなくてもいいけど。その負債、既に輪廻転生五回分は溜まってるからね」
「ジュテーム!」
ライチは先生に捕まる前にと教室を飛び出した。
昇降口で靴を履き替え周囲を警戒しながら校門へ向かう。生活指導の教師に見つかると余計な時間取られるからだ。幸い、草むしりをしている用務員以外はおらず、ライチは高校からの脱出に成功する。
出てすぐに、烏がライチの前に丸まった紙片を落す。ライチはそれを拾いながら烏に投げキッスをする。
「サンキュ、とりたろう。場所は、公民館横の噴水広場。近いね」
ライチはローファーを運動靴に履き替えて走り出した。
噴水広場につくと、既に戦装束に着替えた雛菊と竜司は到着していた。【門】はまだ閉じていないらしく、直径一メートルほどの裂け目が二人の前に浮かんでいる。
「待った?」
「ちょうど今から始めるところです!」
そう言って雛菊が指し示したのは、地面に散らばった大量の赤い球体だった。
「うわ、なんかキモいね。これなに?」
「わかりません。が、動いたりはしないので、片っ端から拾って向こうに返しましょう」
「素手で触って大丈夫?」
「無駄な可能性もありますが、一応手袋はつけてください。はい、貴女の分です」
そう言って竜司が差し出す軍手を眺め、ライチはふと思いついたことを口にする。
「そういえば、私もその衣装もらえないの? 戦闘用のヤツ」
雛菊と竜司は顔を見合わせ、ちょっと困ったような顔をした。高いおもちゃをねだられた親の顔をしている。そのことに気づき、ライチは慌てて。
「欲しいからくれってわけじゃなくてさ。あー、ほら! 制服汚れちゃうじゃん?」
「適当にジャージでも買ってください」
「あの、私のは門番用の衣装なんです。竜司のは付き人用なので、正式に付き人になれれば渡すことは可能ですが……あれ、女性用の付き人衣装ってありましたっけ?」
「正式にはないですね。男物着たり、自分で用意したり」
「了解。じゃあお掃除しますか」
ライチは軍手を嵌め、恐る恐るその赤い球体を拾い始めた。
球体自体はさくらんぼほどの大きさで、重さも普通の石といった様子。温かかったり輝いていたり脈動していたりということはなく、つるりと丸いこと以外は普通の石と変わらないように見える。金属のような光沢さえなければスーパーボールか何かと勘違いしそうだ、とライチは思った。
「こういう平和なのもあるんだね」
「警戒はしておいてください。爆発物の可能性もありますし、何かの卵の可能性もありますし、人間の魂を取り込んでくる可能性もあります。とにかく無害とは限りません」
「ゲッ。え、これ【門】の向こうに投げ込んじゃ駄目? そっちの方が早く終わりそうなんだけど」
「外してこちら側の世界で破裂とかいうことになったら目も当てられないので駄目です。このバケツに集めて、集め終わったら向こうの世界にバケツごと投棄。軍手も廃棄焼却です」
「ひー大変だ。あと二千個くらい?」
「頑張りましょう! 三人ならすぐ終わりますよ!」
雛菊の笑顔を見て癒されながら、ライチは無心になって球体を拾い集めるのだった。
とくに【門】の向こう側から妨害が入ることはなく、こちらの世界の人が人払いの結界を無視して迷い込んでくることもなく。そうして三十分ほどで全ての球体を拾い集めると、用意していたバケツ三杯はすべて満杯になった。
ライチは腰に手を当てて伸びをする。
「腰痛ーい。屈みっぱなしの作業って結構クるね」
「【飛脚術】の修行が足りてませんね。やはり四式をもう少し重点的に……」
「違う違う! ダーリンの【剛体】の修行が効きすぎてるだけ!」
「この前のケツバットのせいですかね? プロテクターはもう少し厚めのにした方がよいでしょうか」
「それより、【大力】の修行が出てこなかったということは、キツくないということですか? であれば【大力】の方ももう少し厳しめにするべきか」
「違うっての! ほら、それよりさっさと向こうに返して【門】閉じちゃいましょ!」
そう言ってライチがバケツを持ち上げると、二人もバケツを持ち上げた。ライチの筋力をもってしても腰を入れる必要がある重量だが、二人とも洗濯籠を持ち上げるかの如く軽々と持ち上げている。
先に【門】に近づこうとしたライチを制し、竜司が【門】に近づいていく。それを少し遠くから眺めつつ、ライチは雛菊に話しかけた。
「そういえばさ、【門】の向こうって入っても大丈夫なの?」
「おそらく大丈夫ですが、できる限り入らないでください。【門】の向こうに危険な生物がいる可能性がありますし、入った先の地面が脆い可能性もありますし、【門】が急に閉じて帰れなくなる可能性もあります」
「ふーん。【門】の先って異世界なんだよね。酸素とか大丈夫なの? 入った瞬間窒息したりしない?」
「【門】が開いているということは、そこと異世界がある程度は近しい存在であるということを示しています。あまりに在り方が違う場所だったらすぐに【門】が閉じますし、違い過ぎたらそもそも【門】が開きません。まあ、微生物には気を付ける必要がありますが、目に見えない存在は避けるのが難しくてですね……」
「本気でやるならもっとしっかりとした服いるよね。全身を覆ってそうな感じの」
「ゴースト・バスターズ! ですか?」
「どっちかという頭まで覆ってるタイプの。ほら、アウトブレイクの序盤のさ」
「あれ良かったですよね……こう、酸素供給用の管がにゅっと伸びてるのが、異常さを醸し出してて」
「お、雛菊、通だね」
「ライチさんこそ」
「大丈夫そうです! 二人ともバケツを!」
「はーい!」
また竜司に叱られる前に二人はいそいそと【門】の前に移動する。【門】の向こうは灰色の空が彼方まで広がる空間で、足元にはバケツの中に入っているのと同様の赤い球体が無数に敷き詰められていた。
「ちょっとキモい」
「俺がまず置いてきますので、何かあったらすぐに【門】を閉じてください」
「かっこいー」
「ふざけてると死にますよ」
「ごめんなさい」
竜司はライチを睨むと、【門】の縁に触れないように慎重にバケツを潜らせる。そして、ゆっくりと腕を下ろし、地面に置く。
爆発したりは、しなかった。
「大丈夫そうです。バケツください」
「よいしょ」
ライチが渡すと、竜司はそれを片手で軽々と持ち上げ、同様に向こう側に置く。
順調に思えたが、雛菊の持っていた最後のバケツを渡したときに問題が起きた。
積み過ぎていたのか、手渡した拍子に赤い球体の一つが転がり落ちた。それは落ちた衝撃で何か起こるわけではなかったが、それを拾い上げようとしたライチの汗がぼたりとそれに落ちる。そして、その瞬間、それは爆発的に膨張した。
竜司はバケツを向こう側に放り投げ、雛菊を抱えて距離を取る。ライチは尻もちをついて転ぶ。
「わわわっ」
「構えて!」
ライチは後ろに飛びつつ立ち上がり、中腰でメイスを構えた。雛菊と竜司も同様。
しかし、球体の膨張は直径一メートルほどで止まり、それ以上膨れることはなく、また、動いたりもしなかった。
「……ライチさん、何しました?」
「なんもしてない。でも汗が落ちちゃったかも」
「水分に反応したのか、塩に反応したのか。高吸水性ポリマーってわけでもなさそうですね」
じりじりとそれに近づいた竜司は剣の腹でそれを軽く叩く。相変わらず硬く、そして、微動だにしない。
竜司はさらに力を込めてそれを剣で押し、眉をひそめた。
「重くなってます」
「ええっ、汗って言っても一滴だけだよたぶん。そんなんで重くなる?」
「異物に物理法則を期待しても無駄です。とにかく、問題はこの大きな岩をどうやって向こうに運ぶか、といった話です」
「ダーリンならいけるんじゃない?」
「多分無理ですね」
「お得意の【大力】を見て見たいなー」
竜司がライチを見る目付きが冷たい。無言で睨みつけている。その圧に耐え切れなくなったライチが雛菊に救いの視線を向けると、雛菊は苦笑いしながら人差し指を立てた。
「多少は闘技を身に着けてきたライチさんなら理解できると思いますが、基本的には闘技というのは動作の反復により強化されます」
「そうね。重々承知だわ」
「なので、まあ、竜司は剣を振るう動作は鋭いですが、重いものを持ち上げる動作となると……」
「あんま鍛錬してないってこと?」
「そうです」
言われてみて、ライチは深く納得した。そして、同時に現状がそれなりに困ったものであるということも理解した。
「あ、けどじゃあぱっかーんって打っちゃうのはどう? ゴルフみたいにさ」
「それは、なくはないんですが。二つ懸念点があります。一つは、球体が砕けないか、ということ。二つは、エンタイジュでやると、こいつの機嫌悪くなる可能性があること」
こいつ、といいつつ竜司は剣の腹を叩いた。それを見て、ライチは目を輝かせる。
「えっ、その子機嫌悪くなるの? 切らないと駄目なの? 目的外使用禁止? 料理とかに使ったりしたら怒られる?」
「そうなんですよ。私が明太子切るのに使っちゃったことがあって、そしたら一週間くらい何も切れなくなっちゃって……」
「ウィーン、ワタシ、セイケン。メンタイコ、キリタクナイ。フテネシマス」
「あはははは! 本当にそんな感じで!」
「お嬢」
竜司の額に青筋が立っているのを見て、雛菊とライチは神妙な顔をして姿勢を正した。
しかし、即座にライチは名案を思いつき挙手した。
「じゃあ私やる! 棍棒でぶん殴ればいいんでしょ?」
「あのですね」
「竜司。やってみてもらいましょう。ちょうど良いでしょう?」
「……お嬢がそう言うなら、まあ止めませんが」
竜司の見立てでは、目の前の球体はこの前の蟹もどきの腕と同程度の重さがある。それを吹き飛ばすことができることなど可能だと思っているのか。そう言いたげな竜司だったが、雛菊の意見に抗う気はないようだった。
ライチは二人のやり取りを聞きながらメイスを素振りする。
「ぱーぱーらぱっぱーぱ、ぱーぱーらぱっぱーぱ、ぱーぱーらぱっぱーらぱー、かっとばせー、ラ・イ・チ!」
「きゃー! ライチさーん、【大力】修行の成果、見せてください!」
すっと棍棒を【門】の方へ向け、袖まくりをする。ホームラン予告を見て雛菊は黄色い歓声を上げる。竜司はそんな二人を見てあくびをした。
ライチの脳内でここ数日の【大力】の修行が呼び起される。真っ黒に塗られたピンポン玉サイズの球体を殴って、砕いて、殴って、砕いて。ピッチングマシーンもびっくりの速度で投げつけるボールを、打って、打って、打ちまくって。
(ああ、なんか目の前の球体も似てるしいける気がしてきた。ムカつく。ピンポン玉に混ぜて鉄球投げつけてきたダーリンがムカつく。なーにが砕けると思えば砕けますよ、だ。鉄球が砕けるわけないでしょうが!)
そう考え、ライチはすぐに頭を振って切り替える。常識という名の思い込みこそが一番の敵。何度も何度も繰り返し聞かされていた。砕けないと思い込んでいれば本当に砕けない。まずは気から。ライチは心の中で自身の内側に巨大な腕をイメージする。
赤い巨大な球体の前に半身で立ち、野球のバッターのようにメイスを構えるライチ。その姿を固唾を飲んで見守る雛菊。腕を組んで竜司。
「集中、集中、集中」
深呼吸を三度。テイクバックと共に上半身を捻り、一瞬の静止の後、バネを一気に解放する。
「ラァ!」
最高の手ごたえ。絶対に砕ける。
そんなライチの確信は誤りではなく、パァンと乾いた破裂音と共にその球体は砕け散った。
「……あっ」
膨張する前のサイズの無数の球体があちこちに飛んでいく。スーパーボールのように跳ね回ることはないし、大部分はそのまま【門】の向こうに吹き飛んでいったが、一部は枠をそれて彼方へと飛んでいった。
竜司が声を裏返して叫ぶ。
「回収ー! ほら貴女も! 見てないで吹っ飛んでいった奴を回収してください!」
「あわわわわ! 砕いちゃダメですよライチさん!」
「ごめん!」
「速く! 見失ったらことですよ! 全部見つかるまで終われませんからね!」
竜司の叱咤を聞きながら、二人は慌てて走り出す。
いくつに砕けたのか。どこまで飛んでいったのか。全部とは何個なのか。全くわからない中、三人は延々と周辺を歩き回り、夕日が沈み切り辺りが闇に包まれるまで探し続ける羽目になったのだった。