六歩目
広い地下室にライチの咆哮が響く。
「ラァ!」
「うーん、あと二メートルくらいですかね」
「きっつ! これ無理でしょ!」
挑戦を始めて二十分ほど。ライチは既に諦めかけていた。
優雅にソファに腰掛け分厚い本を読んでいる竜司は、頁から目を離すこともせずにのんびりと声をかける。
「女子全中記録ですよ。中学生に負けて悔しくないんですか?」
「悔しいけど、向こうは本職でしょ? しかも全中の記録ってことは日本一の記録じゃん。そんなの真面目にやってる人じゃないと勝てないって」
しかもライチが走り幅跳びに挑戦するのはほぼほぼ初めてである。体力測定として立ち幅跳びは何度もやっているが、走り幅跳びは体育の授業で一回やったかどうか程度の経験しかない。ライチは自身の身体能力にそこそこの自負を持っていたが、専門職にその道で勝てるほど自惚れているわけではなかった。
それに、そもそも条件がおかしいのではないかとも思っている。走り幅跳びと言うのは柔らかい砂地に向かって飛ぶものだ。気持ち土が敷いてある程度の硬い地面に大して飛んでいる分不利であることは否めない。
しかし、笑顔を絶やさず応援してくれている雛菊を見ていると簡単に諦めるわけにもいかず、ライチは何度も何度も飛び続けていた。
(ってもこのまま続けても何とかなる気もしないんだよね)
膝に手を付き息を整えつつ、ライチはちらりと竜司の方へ眼をやり、閃いた。
「そうだ、見本見せてよ見本。ダーリン」
「……面倒なので」
「一回だけでいいから! お願い! それともなんなの? ひょっとしてできないの?」
見え見えの挑発だったが、竜司はため息を吐いて本を閉じた。
「一回だけですよ」
そう言うなり竜司はひょいと跳んだ。
それはちょっとした水たまりを飛び越えるような軽い動きでありながら、ライチの目の前を高い高い弧を描いて横切る。部屋の端から端まで、少なく見積もっても十五メートルは飛んでいる。そして、とんと後方に宙返りしてソファの前に戻ると、腰を下ろして本を読み始めた。
目を丸くするライチの前で、雛菊が手を上げてぴょんぴょんと跳ねた。
「私も! 私もできます!」
たたっと短い助走と共に、雛菊はライチの方へと跳躍する。目標となる九メートル先の線から、ライチの目の前までをふわりと飛ぶ。
褒めてほしいかのように満面の笑みを浮かべる雛菊の頭をライチは反射的に撫でた。
「すごいなー。雛菊インハイ出ない? 優勝できるよ?」
「これはズルなので出ません!」
「勿体ないなー」
ライチの中で自信がぽっきりと折れる音がした。そのことにライチはそれなりのショックを受けた。大してものじゃないと思っていた自身の身体能力にかなりのプライドを持っていたことに今更気付いたからだ。そして、そのプライドがあっさりと失われてしまったことも。
複雑な気分になりながらも、しかしライチはすぐに思考を切り替えた。別に上手くいかないのはこれが初めてのことではない。挫折の経験など星の数ほどにある。つい先日も試合に負けたばかりだ。問題は、これからどうするかだ。それをライチは知っている。
雛菊の柔らかい髪を指で弄りつつ、ライチは駄目もとで聞いてみる。
「ねえ雛菊。コツ教えてコツ。なんかない?」
「んー、コツですか。強いて言うなら、絶対できると思うことですかね」
「根性論かぁ」
竜司の方にも目をやるが、完全に無視された。取り付く島もない。
「ダーリン、他に何かないの?」
「常識に囚われないでください。できないと思ってると絶対にできません」
「やっぱり根性論じゃん」
ライチは思わず口をとがらせてしまった。
「もっとこう、丹田に力を籠めるとか、座禅組んで瞑想とか、オーラを感じ取るとか……」
「ないですね。強いて言うなら筋トレが一番利きます」
「ファンタジー要素、どこ」
雛菊がいつの間にか取り出していた水筒のコップを受け取り、一息に水を飲み干す。ただの水だが喉をすうっと抜ける冷たさが最高に心地いい。
完全に休憩モードに入った二人を見て、竜司は仕方なしと言った様子で口を開く。
「本来、人間の身体能力に限界はないのです」
「ウチの体育教師みたいなことばっか言いおって」
「それを勝手に人間が制限をかけてます。といっても個人で書けているわけでなく、社会として、世界の法則としてもう制限されてしまっています」
「んん? えっと?」
「人間の人体の組成、物理的な強度、科学の法則、計算と演算。そうした積み重ねにより、人間の限界は確定されてしまいました。元々は無限の可能性を秘めていた人間という存在に、重力加速度はこうだ、筋繊維の密度はこうだ、力学の法則はこうだ、と枷を嵌めていってしまったわけです」
「……よくわかんないけど、逆じゃない? 元々そうだったものを発見してるだけでしょ、科学って」
「一般的にはそうですね。でも、闘技に限ってはそうではありません。順序が逆なんです」
疑問符を顔に浮かべるライチ。竜司の言っていることは明らかに正しくないと感じている。
「まあ気休めと取ってくれてもいいですよ。そもそも、言葉で説明したり理屈で考えることはあまり向いてないんです。そういう意味では貴女向きでしょう」
「え、私のこと馬鹿だとおもってる?」
「はい」
憤慨するライチを無視し、竜司は顔色一つ変えずに淡々と話し続ける。
「他にもいろいろ方法はあるのですが、どれも時間がかかるんですよね。一番有名なのだとあれですね。麻を植えてそれを毎日飛び越すっていう、忍者の訓練方法とかがあります。あれは闘技の訓練方法としては最も理にかなったやり方です。昨日は跳べた。だから今日も跳べる。経験則という思い込みで常識を上書きしていく方法ですね」
「あ、それやったことある」
その言葉を聞き、初めて竜司が大きく表情を崩した。
「父さんの漫画読んでやってみた。確かね、一メートルぐらいまでは行けたんだよね」
「……高さ一メートルですか。そこが限界でしたか?」
「いや、なんか邪魔だからって引っこ抜かれちゃったんだよね。流石に学校の花壇に植えたのは良くなかった」
「えっ、学校に麻植えてたんですかライチさん。ロックですね」
「でしょでしょ。スペースなくてコスモス引っこ抜いちゃったのが良くなかったかなー。先生にばちくそ怒られた思い出。懐かしい」
「ロックですね!」
きらきらした目で見る雛菊と、冷え冷えとした目で見る竜司。それらの視線をものともせず、ライチは何度もうなずきながら立ち上がった。
「なんかいける気がしてきた。要するにあれよね、幼少期の全能感を忘れるなって話よね」
「それでもいいです。個人を縛るうえでは常識と言うのが最も強力な法則ですからね」
少し体が冷えているため、スキップをしながら体を温め直す。関節の力を抜いてばらばらに動かし、筋肉の可動域を段々と広げる。
幼少期のことを思い出しつつウォームアップをしていると、不思議とできる気がしてきた。根拠のない万能感が感覚を支配していく。
ストライドは広く、助走は長すぎず、踏切は利き足で。
「ふっ!」
かつてないほどの速度で宙を飛び、踵から着地する。勢い余って二歩三歩と駆け、ライチは自信に満ちた表情で雛菊の方を振り返った。
「どう!?」
「大分伸びました。でも……」
「いやだめかー」
「で、でもあと一メートルくらいですよ! さっきより大分伸びてます!」
何か大きく変えたわけでもないのに一メートルも記録を伸ばしたのは驚異的の一言。しかし、まだ記録には届いていない。
「せめて体育館ならなぁ。足裏のグリップがなぁ。あと着地点が堅いのもなぁ」
砂で足裏がずれる感覚が気にくわなかった。それに、走り幅跳びと言ったらやはり前屈姿勢での着地が必須だろうに、それができないのも気にくわない。ライチの感覚的に、両方が解消されたらぎりぎり越えられそうな気がしている。
ぶつぶつと呟きながら踏切地点へと歩くライチは、ふと違和感を覚えた。
「ん……? えっと、もう一回」
ライチは目標地点へと戻り、一歩一歩踏みしめて歩く。その様子を雛菊は不思議そうな顔をして眺め、竜司はやれやれと肩を竦めた。
ライチは目標地点と踏切地点を三度往復した後、竜司の方へ勢いよく詰め寄った。
「ねえこれ九メートルじゃないでしょ! 絶対十メートル以上あるじゃん!」
「そうですね。適当に長めに距離を取って線を引きましたから、おそらくそのくらいはあると思います」
悪びれもせずに嘘を吐いていたことを告げる竜司に、ライチは言葉を失った。
「いや、でも、じゃあ成功してたんじゃ……雛菊! メジャーない? メジャー!」
「三メートルくらいのならあったと思いますけど」
ライチは雛菊がどこからか取り出したメジャーを伸ばし、三メートルずつ距離を測っていく。そして、自身の着地跡が踏切地点からぴったり九メートルであることを確信し、満足そうに胸を張った。
「なーんだ成功してるじゃん。流石私。まあ日本記録と言えど女子中学生だし? 高校生の私なら余裕って言うか?」
「すごいですライチさん!」
「とーぎだかなんだか知らないけどそんなものに頼らなくてもね、私にかかればこんなものよ。というかこれもう使えるようになったの? なんたら式なんたらって奴」
「うーん、どうでしょうか。竜司はどう思います?」
竜司はしばらく眉間を指で揉んでいたが、深々とため息を吐くと馬鹿にしたように首を振った。
「マグレでしょう」
「は? めぇかっぽじって見てろよ?」
ライチは鼻息荒く踏切地点まで戻ると、再び跳躍する。その体は美しい弧を描いて空を裂き、先ほどとほぼ同じ距離を飛び越えた。
「どうだオラ!」
「九メートル、二センチくらいです!」
「うーん、測り方が適当なので、これ超えてないんじゃないですか? こちらのはかり方も適当でしたが、今のはかり方も正確な距離とは言えないようですし」
「んなっ……ふーん。そう言うこと言うんだ」
「言いますよ」
「んじゃ見てなよ」
ライチはシャツを脱ぎ捨てる。その下は下着同然のタンクトップ。雛菊が悲鳴を上げ竜司が顔を逸らすが、ライチは全く気にせず肩をぐるぐると回す。スカートも脱ぎ捨てショートパンツ姿となり、靴紐をぎゅっと締め直す。
湧き出る闘志を全身から漲らせながら、ライチは跳んだ。
ざざっと地面を削りながら着地したライチに、雛菊が興奮した声を上げる。
「九メートル、ニ十センチです! すごいすごい! 完全に超えてますよ」
「どうよ、ダーリン。これでもまだ文句言う?」
得意げなライチに対し、どこか呆れたように竜司は肩を竦めた。
「まあ最低限は合格で良いでしょう。常識の枠を超えるという第一目標はクリアです」
「ふふん、まあ華女のカモシカと呼ばれる私にかかればこれくらいはね? あ、でも女子全中記録ぐらいじゃ、普通の人でも頑張ったらどうにかなるか」
「因みに、今のは男子世界記録です」
「え?」
「八メートル九十五センチは、成人男子の世界記録です」
悪びれる様子もなく竜司は淡々と言ってのける。
「男子、世界記録?」
「ええ。安定して越せるようなら、ただの女子高生じゃないですね。人間卒業おめでとうございます」
ライチは嘘だと思ったが、竜司は真剣な表情でライチの方を見ている。どうやら冗談ではないらしい。その事実に気づいたライチは、なぜか手が震えてきた。
「う、うーん、やっぱりマグレかも」
「なに今更常識人ぶってるんですか」
先ほどまであれだけ自信満々だったというのに、急にしおらしくなるライチだが、竜司は相手にしない。
「今の感覚を忘れないうちにガンガン跳んでいきましょう。安定して跳べるようになったら技も教えていきます。一式から九式まで覚えたら次の闘技ですね」
「技名なんてつけてんの?」
「その方がイメージがしやすいからです。名づけというのは意識に大幅な影響を与えます。科学的にも説明できますが面倒なのでしません」
「してよ」
「嫌です」
「お願い」
「嫌です」
頬に手を当てて首を傾げたが、無駄だった。竜司は顔色を変えることもなく、。
「ともかく、これで貴女は乙種異能者の仲間入りです。もう逃げられません。こちらもその気で鍛えていきますので、引き続きお願いいたします」
「きゃっ、末永くよろしくって? プロポーズされちゃった」
竜司の冷たい視線を感じ、これも悪くないなと思ってしまったライチだった。