一歩目
(……負けた)
ライチの脳内にブザーが鳴った瞬間のスコアボードが焼き付いている。七八対八二。四点差の敗北。惜敗は惨敗よりも悔しい場合が多い。今回はそれだ。
ギリギリと歯を噛みしめる。奥歯が軋む音が頭蓋骨に響く。
(あとちょっとで)
腹の底から込み上げてくる感情のままに肩を怒らせて歩き続ける。その合間にも、ぐるぐると嫌な思考が止まらない。
どうすればよかったのか。点の取り合いは決して負けてはいなかった。最終的に勝敗に直結したのはスリーの本数。二点ずつ叩きこむライチと、スリーを高精度で放り込んでくる相手チーム。飛び道具の有無が勝敗を分けた。他の大きな要素としては、三ピリ開始直後のファウルが良くなかった。それ自体は明らかに審判の誤審だったが、その前の二つ目のファウルも合わせて場の雰囲気が決まり、四つ目も強引に取られてしまった。そのせいで動きが非常に制限された。味方へのフォローも足りなかったかもしれない。前半に取ったリードが削られてゆくにつれ、悪くなっていく雰囲気に口出しをしなかったは悪手だ。しかし、ライチも自分のことで精一杯だった。
(そうだ、加奈子が、池っちが、おーちゃんが、シズがもっと……もっと……!)
「あー、もう!!」
最低の、しかし人間であれば当然の思考に流されそうになり、ライチは歯を食いしばって顔を伏せた。
物に当たるのは良くない。そう思っていても怒りのやり場がない。地面に鞄を叩き、続けて首にかけっぱなしのタオルを叩きつけ、バッシュもケースごと叩きつける。
荒い息を吐きながら、ライチは歩道にしゃがみ込んだ。あまりの情けなさに吐き気がしてきた。試合に負けて、物に当たり散らして、どうしようもなく泣きそうになっている。これ以上ないほどに無様だ。
人の気配も車の気配もないのを良いことに、ライチはそのまま十分以上蹲った。
そうして顔を伏せていると、ぐつぐつと吹きこぼれそうな激情が少しずつ収まってくる。粘度の高い泥のようになり、心にへばりつきながらも落ち着きを取り戻していく。
「……帰ろ。帰って、みんなに謝ろ」
よろよろと立ち上がったライチの足は、しかしすぐには動き出さなかった。どちらに歩き出せばよいかわからなかった――要するに迷子だったからだ。
一緒の電車で帰りたくない一心で歩いて帰ることを選択したが、それは誤りだったとライチは反省する。そんなことで意地を張るべきじゃなかったし、歩き出すにしても道筋くらいは確認するべきだったし、そもそも歩かなくても電車の時間をずらすだけでよかった。
(もう、ぐだぐだ。最悪)
しかし今更駅に引き返す気分にもならず、ライチは人通りの多そうな方へ向けて歩き出した。
歩いていると、再び嫌な感情が胸の奥から込み上げてくる。それを無視して歩いていくと、更に嫌な気分が込み上げてくる。明確に吐き気がして、頭痛がして、視界がひりひりと痛くなってくる。
(脱水症状かも。まだスポドリ残ってるかな。けど鞄から出すのだるい。まあ死にはしないでしょ)
ライチの楽観的な予想は外れ、頭痛が段々と強くなってくる。そして、脳内に嫌なイメージが洪水のように流れ込んでくる。
踏み込み過ぎてぶつかる肉の感触に、大袈裟に倒れ込む相手。ボードにあたり、リングを跳ね、彼方へと飛んでいくボール。喜び抱き合う自分と違うユニフォームを来た選手たち。落胆に顔を伏せる見知った顔をした人々。
一歩踏み出すごとに、そのイメージは鮮明になっていき、まるで映像を直接脳内に流し込まれているかのようになる。それに伴う嫌悪感はまるで物理的な力と錯覚するほどの抵抗を生む。
(ああ、ムカツク。ムカツクなぁ!)
ライチが肩を怒らせて歩き続けていると、脳内を弄られているような嫌悪感が唐突に消失した。
そのあまりの消えっぷりに、ライチはたたらを踏みそうになった。
「わっとと……?」
足元を見るが、つまずくようなものはない。痛む頭を触ってみても何かをぶつけられたわけでもなさそうだ。ライチは首を捻りつつ、鞄を担ぎ直した。
しかし、再び顔を上げると三メートルほどの距離に妙なモノがいた。
見た目としては、百七十センチほどの人間。ただし、オリエンタルな覆面をして、全身にはぴっちりとした皮鎧を着こみ、右手には大きなナイフを握っている。
コスプレか? と疑問符を浮かべるライチに対し、その人間はナイフを振るってきた。反射的に躱すが、手のひらに先端が掠り、ぴりっとした痛みが走る。
尻餅をついたライチは目の前の覆面男と血の滲んできた手のひらを見比べ、唾を吞みこむ。そして、再び振るわれたナイフを横に転がってよけ、素早く飛びのいた。
(切られた。なんで。本物。ってか)
カッと頭に血が上るのを感じる。先ほどまで必死に抑え込んできたやり場のない怒りが、全身の毛穴から噴き出そうになる。
「てめえ――正当防衛だかんなアァッ!」
言うなり、ライチは覆面男の方へ踏み込んだ。そして、袈裟懸けに振るわれるナイフをスウェーで躱し、覆面男の顎に掌底を添える。
「おおおラァ!」
そして、気合の声と共に顎を突き上げ、上半身を巻き込み、覆面男の後頭部をアスファルトに叩きつけた。
受け身の取れなかった覆面男は地面に体を投げ出し、衝撃のせいかナイフが手から落ちた。しかし、ライチは油断せずに距離を取る。何せライチは喧嘩などしたことはない。どのくらいダメージを与えれば人が行動不能になるかなど知らない。
覆面男の方に向き直り、ライチは逡巡した。ナイフを取りに行くべきか、追撃を加えるべきか。かなり痛そうな音がしたため、ノーダメージではないだろうと思うが、本当に動けないかは想像がつかなかった。やられた振りでナイフを拾う隙を突かれるのは好ましくない。だからといって素手で揉み合って男に勝てると思うほど、ライチは自惚れてはいなかった。
ライチが数秒迷っていると、覆面男の後頭部から黒い液体が流れ出ていることに気づいた。それも尋常ではない量の。
「やったか……?」
思い返してみると、かぼちゃが潰れるような感触がした気もした。とすると、頭が潰れたのだろうか。そう気づき、ライチは嫌な感触を振り払うように手を振った。
しかし、ライチが思考を纏める間もなく、背後で交通事故が起きたような轟音が響いた。
振り向くと、そこには別の覆面男がいて、中学生くらいの歳の少女に向かって拳を叩きつけていた。ただし、覆面男の身長は四メートル近くある。覆面男の拳が叩付けられたガードレールが交通事故のような音を出したのも納得のサイズ感だが、同時に納得できないこともでてきた。
「巨人じゃん巨人! ビッグフット!?」
ライチの声に少女が振り向き、驚きの声を上げた。
「……人!? なんでここに!」
同時に、その少女の姿を見てライチもぎょっとする。
絣の着物に袴のようなロングスカートと一見大正時代の女学生のような服装でありながら、金属製の胸当てとゴツいタクティカルブーツがその雰囲気を台無しにしている。おまけに、両目を完全に覆っている目隠しをしており、視界がまったく利かなそうだ。なにより、右手には草刈り鎌、左手には鎖と分銅――鎖鎌を構えているのは異常という他ない。まるでハロウィンの仮装大会だ。
もしかして撮影か、とライチが思い至ったとき、目隠しした少女がライチに向かって突進してきた。
ライチは思わずステップで避ける。どうやらライチを担ぎ上げるつもりだったらしい少女は、勢い余ってつんのめる。
「ってなんで避けるんですか!」
「タックルされたら普通は避けるっしょ」
「~~っ、わかりましたっ! 今はそれよりここから離れて! 逃げてください!」
少女が言い終わると共に、巨人が手を伸ばしてくる。しっかりと見えているライチは当然だが、巨人に背を向けていた少女もあっさりと避けた。
(目隠しちゃんあれで見えてんの? 周辺視野ヤバすぎ。いやそれよりも巨人の方か。着ぐるみとかじゃないっぽい? UMAかなぁ? さっき斬りつけてきたナイフ野郎もそれ? なら過剰防衛を気にしなくていいか)
あまりに非現実的な光景を前に、ライチは一周回って冷静になった。
「逃げるのはいいんだけど、目隠しちゃんはあれどうすんの? 戦うの?」
「い、一般人には関係ありません」
「一般人ね。あっそう」
その言い方に少しムカついたライチは、巨人の緩慢な平手打ちを避け、そのがら空きの足首にローキックを入れた。
が、その硬さに悶絶した。
「っあー!! いった! かったい! なにこれ!」
「危ない!」
少女に腕を引かれバランスを崩すライチの頭上を巨大な手のひらが通り過ぎていく。肌で感じる風圧がまさに間一髪だという事実を教えてくれるが、足の甲の痛みで頭が真っ白になっているライチにそれを気にする余裕はなかった。
ライチを引きずって距離を取りつつ、少女は悲鳴を上げる。
「なんで立ち向かってってるんですか! 馬鹿ですか! 死にますよ!」
「ほら。こんなちっちゃい女の子置いて逃げるのはちょっと絵面がさ……」
「私なら大丈夫ですから! あなたの数倍は強いので!」
「強弱で比較されたのは初めてかも」
武闘派だぁ、と呟きつつ、ライチは大きく距離を取った。逃げるまではいかなくても、自分が役に立つことはなさそうだと理解したからだ。
だが、そこでまた嫌なものが目に入った。巨人を挟んでライチとは反対側、ライチが元々進もうとしていた方向に、五人ほどの人が倒れていたのだから。
うち四人は似たような格好の覆面男。しかし、一人は普通の日本人の少年に見える。少女と似たような奇妙な和装からして目隠し少女の身内かなにかだろうとライチはあたりをつける。これを見捨てて逃げるのは後味が悪い。
ライチは鎖鎌を振り回して巨人と戦う少女を眺めつつ、思考を巡らせる。
(どーうすっかな。あの人担いで逃げようとしたら流石に追ってくるかな? 体格からして七十キロくらいはありそうだし、担いで逃げるのは無理だなぁ。けど戦うのは無理だし)
しかし、少女の振るった鎌が巨人の向う脛を浅く切り裂いているのを見て、ライチは思いついた。
直後、ライチは倒れている少年に向かって駆け出し、暴れ回る巨人の横をすり抜ける。途中ライチに向かって巨人の手が伸びてきたが、腕をつっかえ棒に体を入れ替え、目隠しの少女の呼び止めを置き去りにする。
ターゲットを変えて追ってくるかと思ったが、追撃はなかった。目の端に捕らえた巨人の足に鎖が巻き付いていたため、目隠しの少女の方を優先したのだろう。ライチはそう認識し、視線を前に戻す。
目当ては転がっている人々ではなく、その横に落ちている武器たち。小ぶりなナイフに、刺の生えたボクシンググローブのような何かに、和弓にメイス。思ったよりまともそうな武器がない。ライチは口をへの字に曲げながら、手早く武器を物色する。
(ナイフ……じゃ刃渡りが足りないか。トゲトゲグローブも同じ。弓矢は、当たる気がしない。じゃあこの棍棒? 鈍器って効くのかなぁ)
メイスの長さは三十センチほど。総金属製で柄に巻き布すらなし。先端は分厚い板が放射状に張り付いたような形状となっている。装飾はあまりなく、シンプルで実用的な武器に見える。
持ってみると予想外に軽かった。まるで発泡スチロールでできているかのように。しかし、張りぼてを疑ったライチが柄を握りしめると、急にメイスの重量が増した。
「っわ、わ、わわ」
慌てて支えようとより強く握りこむと、更に重量が増す。そしてさらに強く握り、更に重くなる、ということを繰り返し、やがて耐えられなくなったライチはメイスを地面に取り落とした。
地面に落ちたときの音は軽やかで、まるで風鈴のように涼やかだ。おまけに、プラスチック製の玩具を落したかのようにころころと跳ねまわる。
ライチが今度は指でメイスをそっと摘まみ上げると、今度は羽のように軽かった。
ライチは目を輝かせた。
「うっわ不思議素材! 魔法の武器だ魔法の武器! すごーい!」
色々と握りの強さを変えてみたが、すっぽ抜けない程度に指を添えるとバドンミントンのラケット程度の重さになった。振り回しても滑ることはない、遠心力と摩擦力がつりあいそうな丁度良い重さ。
メイスの先端をぺしぺしと手のひらに叩きつけ、ライチは巨人の方へ向き直った。
すると、少女が巨人に胴体を鷲掴みにされているところだった。胴部分を覆い隠すほど巨大な巨人の手が少女を握りつぶそうとしている。
「ってヤバ!」
ライチはすかさず駆け出し、隙だらけの巨人の膝に思いっきりメイスを叩きつける。
(当てる瞬間、強く握りこむ――!)
柄を握りこんだ瞬間、振るう速度はそのままに、メイスが急激に重くなったのを感じる。そこまではライチの予想通り。しかし、狙いは逸れ、当たったのは固そうな脛。
びりびりと響く衝撃に、メイスは暴れるように手から離れて吹っ飛んでいく。その甲斐があったのか巨人は目隠しの少女を取り落としたが、ライチの腕は痺れて震えた。
少女が軽やかに地面に着したのを見て怪我はなさそうだと安堵。ライチも一緒に巨人から距離を取る。
(っつぅ……今のは駄目だった。なんか軌道が凄くぶれた。まっすぐ振れてなかったかな? まあ棒を使う系球技は苦手だし、しかたなし。改善そしてフィードバック)
飛んで行ったメイスを目で追いつつ、ライチは自省する。一々こんなことをしていたら腕が持たない。次はもっと上手く振る必要がある、と。
軽くせき込みながら、巨人からは顔を背けず、少女はライチに礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
「お節介ごめんね。大丈夫じゃなさそうだったからさ」
「いえ、でももう大丈夫です。逃げてください」
「まーだ言うかこの娘は」
巨人の脛の部分の川鎧は大きくへこんでいた。おまけに、ライチは武器を手放したというのにすぐに攻撃を仕掛けてこない。その様子から、ライチは自分の攻撃が効果ありと判断する。
「今の打撃頭に入れれば倒せると思う?」
「えっ、あ、まあ多分。というか今の、どうやって」
「落ちてた武器でぶん殴った」
「あっ、異物……それで」
巨人の手刀がライチに向かって叩きつけられたため、二人は左右に分かれるように跳ぶ。アスファルトの破片が額を掠めたが、ライチは気にも留めずに木に跳ね転がるメイスを凝視する。
「目隠しちゃん、そいつ屈ませて!」
「えっ、いやっ、一般人は」
「私が棍棒拾ったら、数秒でいいからっ!」
「だから、話を聞いてくださいっ!」
ライチは掬い上げるようにして振るわれる巨人の右手をそれより低く身を屈めてかわし、前転しながら落ちているメイスを拾う。派手に吹き飛んだが歪みはなさそうだ。それを確認してライチはにんまりと笑う。
僅かな隙をついて巨人の裏拳が襲い来るが、それがライチを吹き飛ばす前に巨人はガクンと体勢を崩した。少女が踵の付け根を鎌で切ったためだ。
「あーもうなんで私は!」
そう叫びつつも、少女は巨人の体を軽業師のように駆け上がり、鎖を巨人の首に巻き付けて飛び降りる。それにより、後ろ手に尻餅をついたような体勢で巨人はライチの前に無防備な姿を晒した。
好機。そう感じた瞬間、ライチの体は動いていた。
メイスを右手に、右足から一歩。二歩目の左足で深く体を沈み込ませ、伸びあがるようにして跳躍。バトミントンのスマッシュを打つように全身をしならせ、自分を見上げてくる覆面の中心にメイスを叩きつけた。
「ラァッ!!」
肉と骨とその他諸々が砕けて潰れてひしゃげる音がし、確かな感触がライチの腕を駆け抜ける。今度はメイスを手放すこともなく、直径一メートルはありそうな頭をアスファルトに叩きつけた。
ライチは間を置かずに二回追撃し、巨人がピクリとも動かないことを確認すると、そこでようやく息を吐いた。
頬に飛び散った黒い液体を袖で拭きつつメイスを持ち上げると、ぬちゃ、と耳障りな音がした。メイスの尖った部分に生物の内臓っぽい組織片がくっついているのを見て、ライチは眉を顰めた。
「これ生物学者とかに怒られるかな……? いやけど怪獣退治みたいなもんでしょ。正当防衛になるよね」
「あっ、あのっ」
ライチが振り向くと、やや怯んだように覆面の少女が見つけめてきていた。
「怪我ない? 大丈夫? さっきバービーちゃんみたいに胴体鷲掴みにされてたけど」
「大丈夫ですあれくらいなら。見た目ほど馬力はなかったですし」
「ふーん。でこれなに? UMAハンターか何か?」
「……まあ。そんな感じで。はい」
「じゃあこれで解決? 死体とかどうするの? これから論文書いて学会で発表とか?」
「解決は、してないです。ああどうしよう。なんで結界張ってるのに一般人が入ってきてるの……」
「結界?」
両手で顔を覆うようにして、少女はがっくりと肩を落とす。それはなんとなく見覚えのある姿で、頓珍漢な回答に困り果てた数学教師のようだった。
だが、ライチの予想に反して少女はすぐに顔を上げると、ライチの腕を掴んでくる。
「いや、そもそも本当に一般人ですか? 動きがおかしかったんですけど」
「運動部だからじゃない? こんくらい普通だよ」
「魔力は感じなかったし、闘気も……もしかして、超人?」
「いんしおん?」
ライチの腕は少女の枯れ枝のような細腕に掴まれているだけだというのにピクリとも動かない。まるで壁に打ち付けられているかのようだ。
「なにこれ。合気? 合気道ってやつ?」
「……うーん。まあギリギリ普通の人間、かな?」
「んぎぎぎ。こんのぉ、んぐ、ほぉい!」
「ひゃっ」
限界まで引き下げようとした腕を瞬時に反転させ、一気に持ち上げる。その力の向きの切り替わりについていけなかったのか、少女はライチの腕を離した。
「どうだっ、合気返し!」
胸を張るライチを無視し、少女は自身の手を見てぶつぶつと呟いている。その態度にライチは鼻白んだように鼻を鳴らした。
少女は数秒の間そうしていたが、何かを思い返したのか慌てて振り返った。
「あ、それより先に【門】を閉じなきゃ。他のが来る前に」
「門?」
「竜司!」
少女は倒れている少年に駆け寄り肩を揺すったり頬を叩いたりするが、少年は起きる気配がない。頭から血が流れているのを見る限り、あまり動かさない方がよさそうなのはライチの目にも明らかだった。
「あー……どうしよう。あの、とりあえず手伝ってもらえますか? ちょっと、先にしなきゃいけないことがあって」
「救急車呼ぶ?」
「その前に、しなきゃいけないことがあるんです」
「ふーん。まあいいけど何するの?」
「これを」
手渡されたのは一枚の写真だった。何の変哲もない風景写真に見える。
「この写真を風景と重ねられる場所を探してほしいんです。こう、写真を構えたとき、風景と一致するような場所を」
「それは難易度高そうね。大まかな目星がついてたりはしない?」
「します。こっちです」
少女は道路脇の林にずんずんと踏み込んでいく。ライチも慌てて付いていくが、枝やくもの巣が邪魔でついていくのが一苦労だ。
目が見えてなさそうなのに、まったくそんな素振りを見せない少女に、ライチは改めて疑問を覚えた。
しかし、そんなことが気にならなくなる光景がライチの目に飛び込んできた。
それは一言で表すならば裂け目だった。上下の尖った楕円状に空間が歪んでおり、歪みの内部には岩だらけの荒野が顔をのぞかせている。まるで破れた写真を適当に継いだかのようで、視覚的な違和感にライチは酔いそうになった。
「うぇえなにコレ」
「【門】です。これを閉じなければ、先ほどの異客がまだまだこちらに来ます」
「閉じるって、取っ手とかないんだけど」
「そこは私がやります。ですので、先ほどお願いした通り、写真と風景を重ねられるポイントを見つけてもらえますか?」
「あ、うん。わかったけど」
それが何の役に立つのだろうか、とライチは首を傾げた。だが、質問しても答えは帰ってきそうにない。
(まあ、この門とやらがさっきのの通り道なら塞いだ方が良さそうだし、ちゃちゃっとやりますか)
ライチは口を閉じ、写真を構えつつ【門】の周りをぐるぐると回った。
幸いなことに、遠くに見える展望台が写真の端に映っており、そこがぴたりと重なるポイントはすぐに見つかった。時間にして五分もかかっていない。
「あったよー」
「本当ですか? 早いですね」
「まあ見てみて。ほらぴったし」
「その前に、その写真を風景と重ねたとき、【門】は隠れていますか?」
「うん大丈夫。それでこれからどうするの?」
「失礼します。そのまま構えててください」
「ひょわっ」
写真を構えるライチの腕の間に、少女は身を滑り込ませてきた。そして、ライチと同じように写真の方を向く。
「ちょっと高さ調整してもらえますか? 私の視線に合わせてほしいんです」
「お、オッケー」
後頭部で纏めた少女のお団子が鼻を掠め、甘い花の匂いがライチの鼻孔をくすぐった。同性であっても動揺してしまうほどの良い匂いだった。ライチは思わず息を止め、自身の汗臭さを思い返して死にたくなった。
できるだけ体は離しつつ、しかし顔だけは少女の顔の横に寄せ、唯々諾々と写真の位置を調整する。
「……急に無言になってどうしたんですか?」
「ナンデモナイ。できれば呼吸しないで」
「え? それってどう――」
「お願い。黙って。はい、できた! ここ。写真セット!」
「ありがとうございます。動かさないでくださいね」
少女は自身の目隠しに手をかけ、ゆっくりと持ち上げる。
「ァム、トゥドゥ、ナノ、マィ」
「へ?」
「ありがとうございます。終わりました」
「え? え?」
目隠しを取った少女がライチの腕の間から出る。呆気にとられたライチが写真を取り落とすと、先ほどあった裂け目はすっかり消えていた。
狐に抓まれた気分で頬を抓ってみるが、よく考えてみれば先ほどの光景の方がずっと異常な光景だ。だから別に何もおかしいことはないのではないか、とライチは混乱した。
地面に落ちた写真と少女を見比べるライチ。そんなライチに対し、少女はまっすぐに視線を向けてくる。わざわざ隠しているのだからどんなものかとライチは身構えていたが、目隠しの下にある目は普通の目だった。
「さて、とりあえず片付いたのはいいんですが、どうしましょうかね」
「救急車呼ぶんじゃないの? あと学者? いやマスコミ?」
「それは駄目です。今日のことは秘密にしないと駄目なんです」
「へー。なんで?」
「それは……話せません。今日のことは忘れてください」
「秘密にするのは別にいいけど。忘れるのは難しいと思うよ」
「そう、ですよね」
少女は腰に下げた鎖鎌に手をやり、素早くライチの方へと踏み込んできた。
なんとなく不穏な雰囲気を感じ取っていたライチは、同時にバックステップで距離を取る。だが、少女の踏み込みはそれより早かった。同級生の男子すら1ON1で封殺してきたライチからして、容易く距離を詰められるほどの速度。尋常な速度ではない。
振るわれた鎖は木の枝を掴んでしならせて受ける。しかし、ほぼ同時に腹部に振るわれた鎌の柄は躱せず、ライチは手のひらで受けつつも吹き飛ばされる。
(うっげ、息がっ……なにこの馬鹿力! 中学生のパワーじゃないでしょ)
ライチの経験と比較すると、八十キロ越えの男子に体当たりを食らったとき以上の衝撃だった。それをただの掌底で出しているのだ。もう合気だとかそういう範疇を超えている。
ずざっとライチの尻が草むらを擦ると同時に、ライチは手を付いて跳ね起きる。後ろに飛んでいたこともあり、少女との距離は十分に取れている。
顔を上げ、ライチは背後に視線を向けた。
(よくわかんないけど、走って人通りのある所まで逃げる!)
が、一歩踏み出したそこに地面はなかった。
「あっ」
「ああっ!」
少女の悲鳴を聞きながら、ライチはほぼ垂直の擁壁を、遥か下方に見える地面に向かって転がり落ちていった。