雨の匂いがし始めたとき・大海原で・日記を・不審に思い目を細めました。
あるところに迷信を嫌うひとがいた。言うことの裏付けには全て、都会的で自然に慣れない人間の言い訳のようだった。人工的な強い香りに慣れて、僅かな花の香りが分からないようだった。ひとは、雨に匂いは無いと言い切った。だから雨の匂いはあると言い張ったひとと、意見が度々ぶつかった。意見がふたりの間で真反対になるのはよくあることだった。同じ国で同じ県で育ったはずなのに、二人の体とこころは、まるでアンチポデスで暮らしていたかのようだった。そこは親の嗜好によるところと思うが、雨の匂いが無いひとの両親はキャンプや登山が趣味で、幼い頃はガールスカウトにいたらしい。その環境であるにも関わらず、花の香りの違いは分からなかったし、周囲が雨が来ると得意げに語っていることが分からなかった。逆に雨の匂いが分かるひとは、両親はインドアで、読書やマンガなどを愛して家の中は本棚に溢れていた。両親の嗜好は、子供に生まれ持つ独自の感覚には影響していないようである。それぞれガールスカウトは好きだったし、読書も好きだった。目に見えぬ強制力があり、反発心で雨の匂いの有無を判断する訳ではない。そのままふたりは成長した。それだけのことである。
ふたりの意見は合わないように見えるが、それでも育った環境がほぼ同じなのに、まるで意見が違うところが好きで、雨の匂いが分かる人は無いと言い張るひとを好いていた。傍目には強情なひとに、のほほんとしたひとが包み込んでいる凸凹であると見られていたが、雨の匂いが無いひとも、そののんびりした雨の匂いが分かる人が好きだった。好意は性交に結びつくばかりではない。鳥に例えるのなら、現代社会は忙しなく羽をばたつかせて飛距離を保たねばならない中で、互いに羽を休められる相手という近しさだ。飲み会でも隣同士で、にこにことそれぞれ家路に分かれる。そんな関係である。交友関係を全て把握しているわけではないが、このぬるま湯のような関係は学生時代という不安定な時期を超えて永遠と続く。雨の匂いが分かるひとは、そんな気がしていた。そうして互いに結婚適齢期を迎え、だんだんと遠ざかる学生時代の影を目で追ってしまう日々である。雨の匂いが分かるひとの子供は小学校高学年になり、学校から帰るやすぐに友人宅に入り浸っていることから、一人になることが多かった。友人宅には定期的にお菓子や日持ちのする食品を届けて、良好な関係をなんとか築いてはいるが、そこまで仲が良いわけでもない。子供の為の根回しだけで、これ以上相手の家に深入りするのも失礼だろうかと、大人特有の距離感で互いに近付かず、干渉せず。子供を中心に据えた繋がりが、雨の匂いが分かるひとの手元に残っていないことを知って、少し愕然として、それでも子供のいる日常は続くからと自分の気持ちを押し込めたが、たまには出掛けてもいいだろうとふと考えた。そうなると、相手は雨の匂いが無いひとだ。急激にこころが大学生に戻ってうきうき晴れ晴れとしながらスマホを見やる。決意しただけなのに、スマホを見るのがこんなに楽しいのは久しぶりだ。子供関係の連絡網は、それ自体が嫌ではないが、強制力が目に見えるのでほんの少しだけこころに陰が落ちるのだ。
『久しぶり、会わない?』、とだけ打ち込む。
電話番号が変わらなければ、これで通じるはずだ。ショートメールなので、気付いてくれるか分からないが、雨の匂いが無いひとは、いつも連絡がこまめなのを思い出した。そこが好きな理由でもある。都会的で自立しているような顔をして、派手と捉えられるメイクや格好を好んでいたけど、連絡はマメだった。そこだけは人間の繋がりを欲しているようで、なんだか愛らしく見えたものだ。返事はすぐに来た。
『今はごめん。』
『どうかしたの?子供さん?』
『今は日本のとにいるの』
脱字だろうか、雨の匂いが分かるひとは少し首を傾げる。
『外国にいるの?』
『そう。海の上』
『めずらしいね。海ってそんな好きだったっけ』
学生時代を思い出すと、徹底して都会派だった雨の匂いが無いひとが海にいるのは不似合いだった。メイクの崩れない事を好んだ覚えがある。学生特有の、メイクや服装での武装を固めていた。
『パートナーが、そういうの好きなの』
『そっか。残念』
『あのね、ブログやってるの』
『フェイスブックじゃないの』
『ああいうの、性に合わなくて』
ああそうだ、雨の匂いが無いひとはそういうところがある。そこは変わらない。貼られたリンクを見ると、お揃いのサングラスで目元を隠しながらも、海上スポーツやヨットに勤しむ肌の黒い女性と逞しい筋肉を纏った男性がツーショットが出てくる。そこにいる女性が、あの雨の匂いが無いひとなのだろうか?頭の中で二人の顔が浮かんできて、結びつかなくて混乱して、目を細めて見てしまった。
『いつも更新してるの。よかったら見てね』
宣伝までされた、と感じて雨の匂いが分かるひとはスマホを一旦置いた。目を凝らしていたのだろう、ズキズキと痛み出す眉間を指で押さえる。学生時代からその孤高さが好きだった。でもその好意はいっこうに性欲と結びつかないから、良い友人関係なんだと思っていた。それが一生続くかもしれないとも勝手に思っていたのだ。自分は育児に参加しやすい職場環境で共働きで、愛する妻はバリキャリと呼ばれがむしゃらに働いて、それなのに可愛い子供まで産んでくれた。この家庭を愛しているし、この家庭の中で一生を終えても悔いはない。それが自分の選んだ道である。学生時代に、無限の可能性が目の前に転がっているような事はない。それでも、異性の友人があんなにも生き生きと、そして見たこともない世界を渡り歩いている日記なんて。友人はきっと、騙されて海上に連れて行かれている、そんな想像の方が先に頭に浮かんだことに、心底嫌気がしたのに目は不審なほころびを探して目を細めてブログを見ている。
『すてきだね』
かろうじてそれだけ返した。彼女は、文字の中で喜んだかのように見えた。
『雨の匂いはまだ分からないけどね』
その言葉だけでこころの淀みが濾過され、急激に澄んでいくようだ。森の奥でこんこんと湧く清流が全身を駆けめぐるような。
『変わらないね』
『パートナーが分かるから』
その言葉で、もうライフステージがお互い変わったんだと納得出来た。帰国したら会おうねとだけ打ち込んで、雨の匂いが分かるひとは、そう言えばトイレットペーパーや洗剤が切れそうだと思いこんで、まだストックのある物を買いに外へと出掛けたのだった。
原典:一行作家