☆12
暁闇の空が徐々に白み始めた頃、猛烈なモーター音が辺りに響いた。なんだなんだと色めき立つ一行。どうやら山道を駆けあがるバイクのものだと気付いた頃には、もう随分と駆動音は大きくなり、ついには改造マフラーの原付が、おじさんの尻側に現れた。
「きええええ」
運転手は奇声を上げ、バイクを止めるどころか寧ろ加速し、何とおじさんのキンタマへ体当たりしたのだ。
おじさんの顔付近に集まっていた一行からは角度的に事態の全容は分からなかったが、大変な事が起きたとだけは知れた。おじさんは目をギュッと瞑り、酸素を求める鯉のように口をパクパクと動かしている。金的を打ち付け、呪詛の言葉を吐こうとして、しかし痛みのあまり声にならない、という一般男性と同じような動きだ。
おっとり刀で駆けつけた面々が目の当たりにしたのは、60代くらいの女性が遮二無二、地面に転がっているキンタマを拾っては、おじさんのキンタマ(本体)へ投げつけている光景だった。
「ちょっと、ちょっと!」
西園が駆け寄り、取り敢えず羽交い絞めにして止める。しかし物凄い力で振り払われ、逆に彼の方が尻餅をついてしまった。枯れ枝のような体で大の男を易々と吹き飛ばすとは、尋常なことではなかった。鬼女もかくやという悍ましい形相で、キンタマを拾い、男性顔負けの力強いフォームで投擲。近くに石コロがあればそれも拾って投げつけていた。とにかく手当たり次第といった様相だ。
望月も加わり、カップル二人がかりで抑え付けると、ようやく地面に倒れ伏してくれた。それでも「離せ離せ」と連呼しながら暴れ回るものだから、片手を怪我している望月などは体ごと覆いかぶさる他なかった。
「落ち着いて。落ち着いて。増田さん」
そして彼はその女を知っていた。
「お知り合いなの?」
西園が驚いたように訊ねる。言っては何だが、精神に異常をきたしているとしか思えない老婆と、自分のパートナーとの間に、面識があるなど露とも思わなかったのだ。
「ああ。例の……野糞死した増田昂輝さんの母親で、確かお名前が……」
「増田聡美じゃ! そこの巨大生物に息子を殺された哀れなババアさ!」
一瞬大人しくなったかと思えば、二人を油断させるための演技だったらしく、再び体をバネのように跳ねさせ、手の悪い望月の方から拘束を抜け出した。西園が追いかけるが、目にも止まらぬ速さで原付を起こし、再びセルを回し跨ろうとする。もう一度キンタマに体当たりするつもりらしい。
「ちょっと、ダメだってば!」
ようやく追いついた西園。再び羽交い絞めの構えだ。
「離せ! あの駄ちんちんのせいで昂輝は!」
「あの事故に関しては愛知と岐阜の責任ってことで落ち着いたじゃない! おじさんも被害者なんだから!」
「ええい、うるさい! それでもあの駄ちんちんが馬鹿みたいに射精しなければ、昂輝が死ぬ事はなかったんじゃ!」
そこで望月も追いついてくる。
「いきなり尿道を刺激されて射精するなってのは無理な話です。それは事故の後、お見舞いに伺った時も、そういう結論だったじゃないですか」
それを何故、今になって蒸し返すのか。
「……今日は息子の月命日だったんじゃ。線香あげて、手を合わせてるとな、あの子の顔が脳裏に浮かんだ。お母さん行ってきますって。いつも野糞に出かける時にするあの嬉しそうな笑顔じゃ」
聡美は言いながらズルズルと西園にもたれるように崩れ、やがて地面にペタンと座り込んだ。一通り悲しみに暮れた後、やがて加害者への怒りが湧いてくるという被害者側の心情の変遷は、そう珍しい物ではない。それが彼女の場合は原付アタックとして発露されたという事か。
聡美はやがて嘘のように大人しくなり、最後っ屁に手近のキンタマを座ったまま投げつけた。キンタマは放物線を描き、キンタマに当たり、実っていたキンタマが衝撃で揺れ、投げたキンタマと一緒に地面にボトリと落ちた。
そこでおじさんが軽く頭を起こし、半ベソのまま、またぞろクソデカ財布を取りだした。誠意をカネで示すクセがついてるのかもしれない。
「要らないよ、カネなんて! それで息子が帰ってくるワケじゃないんだから!」
再び激しかけたが、そこで今まで静観を続けていたフグリンが、
「いえ。もしかしたら息子さんの息子だけなら現世に戻せるかも知れません」
と言い放った。