水滴石穿
【参考資料】
水滴石穿
~水滴りて石を穿つ~
『軒下から落ちる僅かな水滴でも、長い間、同じ所に落ち続けると、ついには固い石にも穴をあけてしまうことから、小さな少しずつのことでも継続すれば大きな成果を挙げることが出来るという喩え』
衛鞅は体躯といい、その背丈といい、これだけの群衆の中でも、けして見劣りしない。そんな男がこの時代には珍しく、頭の先から足許まで全て白い召し物で統一しているのだ。少しの汚れすらないその白い出で立ちは、ひときわ目立ってみえた。
それだけでも注目を集めるのは必然であろう。彼は一旦、衆目の的となると、日頃とさして変わらぬ冷静さのまま、落ち着いている。そして一呼吸おく様に、その場全体をジロリと見渡すと、その口火を切った。
「皆さん!私はこの度、左庶長を拝明し、この国の政務を司る事になった衛鞅であります。私はこの国を建て直すために、御主君に信認され、その全権を委ねられました…」
「…私はこの任を拝明するにあたっては、秦国内を隅から隅まで実際に訪問し、時には夜露を凌ぎ、時には泥にまみれて行脚して来ました。ですから、その検分が終わり戻って来た時には、友から乞食と間違えられる程に身体中、真っ黒になっていたのです…」
ここで群集から笑いが起きる。皆、乞食の様に泥まみれになった男と、今実際に目の前に居る白一色の礼装の男との、余りの違いを想像して笑ったのである。
これはある意味、衛鞅が群集の関心を集めた事の、証明であったろう。彼は彼らの心をその一瞬で掴んでしまったのである。彼もその事を如実に感じていたのだろう。引き続き気分良く語り始めた。
「私は旅の途中で様々な人達と出会いました。片足の無い者、片腕の無い者、食べる物が無いために雑草を喰らう者、中には飢えを凌ぐために泥を食う者すら居ました…」
「…田畑は洪水で流され、或いは干魃によって育てた物が枯れ果て、塗炭の苦しみに喘ぐ人達を実際に見ました。こんな事は有っては成らない事です。私は就任するにあたり、こんな悲劇がこれから先も続かぬ様にする事を固く心に誓いました…」
「…けれども、私達が幾ら改善をしたいと望んでも、皆さんが諦めてしまっていては、どうにも成らないのです。ですから、力を貸して欲しい。一人の力ではどうにもならない事柄でも、二人、三人と力を合わせる事が出来れば、その力は倍になります。否、数十倍にも数百倍にもする事が出来るのです…」
群衆は衛鞅の言葉に聴き入っている。けれども全ての人の心を捉えたかに思えても、その心の内は、人それぞれの中で温度差はあるものだ。ましてや彼らの失望感は根が深く、そうそう簡単に言葉の重みだけで変わるものでも無かった。
そこに異を唱える男が立ち阻かる。
「お偉いさんよ!お前さんが少し今までの為政者とは毛色が違う事は良く判ったよ!でもな、口だけは達者な奴も居るんだぜ!結局、お前らはよ!口だけよ!煙に巻いて、後は俺らに皺寄せが来るだけよ!結果的には何も変わらんのだ!この俺も何度も騙された口よ!現実は厳しいのよ!そうだろ?皆?」
「「「そうだ!そうだ!」」」
ここまで我慢して聞いていた者の中にも、同じ感情を抱いている者はいる様だった。衛鞅もその気持ちは痛い程に判る。
だが、それをここで容認してどうする?可哀想だからと言って、そっとしておいてやっても、何も変わる事は無い。それどころかどんどん悪化の一途を辿るだろう。
衛鞅は壇上から降りると、一直線にその男の目の前まで歩みを進めた。それは正にあっという間の出来事だったので、景監は許より、車英ですら、「あっ!」と叫ぶ事しか出来なかった。
彼は、慌てて間に入ろうとする彼らを後ろ手に制すると、「動くな!」と告げる。その姿勢に想わず、彼らもその場に留まり、勇み立つ兵達を抑えに廻った。
男は、体躯良ろしい巨漢の男に突然、目の前に立たれて、唖然としている。但し、その男も背丈は一人前にあるし、農耕で鍛えた体つきは、筋骨隆々だ。だから咄嗟の事で、少し怯んだものの、すぐに態勢を建て直して、胸を張った。
衛鞅はそんな男をしごく頼もしそうに見ている。けして睨み付けたり、脅す事は無かった。そして優しい表情で見つめながら、話し掛けた。
「お前、なかなか勇気があるな…見直したよ!先程の演説は私も感心した。それと言うのもだ、私はお前の言動をずっと眺めていた。お前は口は達者な様だ。だが皆を煽動して廻るのは、いただけない…」
「…確かにお前の言う事も一理あり、言っている事は真実なのだろう。しかしながら、この先も一緒というのは間違っている。お前達のこれまで受けてきた仕打ちは、私も粒さに検分したから知っている…」
「…そして直ぐに信用出来ないという気持ちも理解出来る。だがな…何か行動を起こさなければ、この国が変わらない事も確かなのだ。今、この国とそして民であるお前達の気持ちが変わらなければ、この国はこの先、十年と持つまい…」
「…そしてお前達の今まで通りの苦しみや悲しみも続く事になる。さらに悪い事には、国が亡べばお前達の人生もそこで終わる事になるかも知れぬよ。食べ物に困り餓死するか、他国に攻め込まれて奴隷に成り下がるか…」
「…そうなってみたいかね?それが嫌なら、今が変わる転機だと思ってくれ!今変えられないものを、この先、変える事など出来ない道理だ!そして何もせずに、気がつかない振りをしても、その苦しみは一生変わる事はないのだ…」
「…だったら、今一度この私を信じて、賭けてみる気は無いか?乞食の様に泥まみれになり、少々毛色の変った男だが、信ずるに値する男だと断言しよう。皆が私に従ってくれさえすれば、十年後に国が亡びる変わりに、その十年後は肥沃な大地に恵まれ、お前達もきっとその恩恵に預かる事が出来るだろう…」
「…国だけが栄えるのじゃない!お前たちも一緒に栄えるのだ。そして国の建て直しにも貢献出来る。国に貸しを作れる良い機会だぞ。そしてお前達は、お前達の子供や孫達に、豊かな生活を残してやれる。そしてお父さんが、お母さんが、国の建て直しに一役買ったのだと、孫の代まで自慢する事も出来るだろう…」
「…例え私のいう通りにまじめに取り組んだとしても、改革の効果が出るのには時間が掛かる。だからしばらくは、苦しい期間が続くかも知れない。けれども何もせずに、明るい将来を夢見る事も出来ないなんて、辛過ぎるだろう…」
「…未来は夢や希望に溢れているべきだ。私は少なくともそう思っているよ!そのためには、御前達自身の努力も必要なのだ!どうだね、騙されついでだ!もう一度騙されたと思って、私を信じて着いて来る気はないかね?」
衛鞅はそう言って、その場の人々皆に顔を向けた。皆、静かに一言一句に聴き入っていた。すると目の前の男は、ひとつ大きな溜め息を漏らすと、衛鞅に答えた。
「やれやれ…お前さんは神が使わした救世主か、はたまた稀代の大嘘つき野郎か、どちらか何だろうな?いずれにしても、俺はお前さんには負けたよ!考えてみる事にする…」
そう言うと押し黙ってしまった。まだすぐに『はい、そうですか!』とは行かない様だが、この群集の中で一番反抗的な態度を取っていたこの男からして、そんな姿勢であったから、一定の感触は得られたというべきであろう。
衛鞅は、この時を得た事に感謝していた。今こそ、自分達の姿勢を民に示す時だと感じていた。だから、彼は直ぐに皆を改めて見渡すと告げた。
「改めて問う。あの大木を北門まで運ぶ者は居らぬか?そうだな…長々と私の話しを聞いて貰った事だし…移動させた者には五十金出す!私は嘘は言わぬ…必ず支払うであろう…」
衛鞅の熱の篭った弁舌が、どれ程の効果があったのか、その結果が問われる極面であった。しかしながら、いざその瞬間になると、人という者はそう簡単には割り切れるものではないようだ。
皆、互いの顔を見合いながら、逡巡してしまっている。さすがにもう、牙を抜かれた様に、反抗的な者は一人も居なかったが、申し出る者も居なかったのである。
衛鞅もこの状態には、さすがに嘆息した。でも仕方が無い事も理解していた。まだ彼は何一つ成し遂げてはいないのだから、言葉の重みだけでは足り無い事も承知していたのである。
彼はそれでも諦めたりはしない。あれだけの事を言い放ち、腰砕けになってしまっては、折角、信じてくれたで在ろう人達にも、再び背を向けられてしまいかねない。彼は意を決してこう宣言した。
「では、百金払おう!誰でも良い!申し出てくれれば約束は守るぞ!」
これにはさすがに皆、驚いている。その場は一瞬、ザワザワと明らかにざわめいた。しかしながら、この鈍い動きは、お金の問題では無いようだった。
因みに百金とは今の時代の貨幣単位に直すと、約1000万円である。そしてこの時代の秦の尺度単位で量れば、三丈とは約8.3mになる。つまり一人で8.3mの大木を南門から北門まで移動させれば、めでたく1000万円が手に入る仕組みであった。
この時代と現代ではお金の価値観は著しく異なるだろうが、そこいらを割り切って考えてみれば、1000万円も手に入れば、3~4年は楽に暮らせるだろうからやる価値は在ったのである。
先に述べた様に、このお金は民の信頼を回復させるための捨て石である。否、効果の一如と成れば、生きた金にも成り得るだろう。少々厭らしい話しには成るが、改革が少しでも前進に転じるのであれば、お安い出費だったのだ。
それだけ衛鞅達にとっては、切実な問題だったのである。




