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南門の中央広場

【参考資料】


十金=約100万円


一丈=2.76m


(秦の度量衡に依る試算)

ある日の事、櫟陽の中央広場に多くの民が集められた。皆、また何か良からぬ事を押し付けられるのかも知れぬと、いい顔はしていないものの、御上の命令に逆らう事も出来ずに、ゾロゾロと集まって来る。


中央広場は櫟陽の南門近くに造られており、民への布告や祭事、刑の執行などに利用されている。御上が集合を呼び掛けた時に、民が集まる場所と考えて頂ければ間違い在るまい。


すると中央広場の壇上には若い官僚が一人立ち、すました顔で佇んでいた。そこへ何人もの官僚たちが協力して、『エイホ♪エイホ♪』と賑やかな掛け声を掛け合いながら、三丈はあるのではないかと見える長さの大木を運んで来る。


大木には両端に鮮やかな朱色の布が巻いてあり、人目を惹くように綺麗な結び目が装飾として際立っている。現代でいう所のリボンである。


総勢八人係りの大仕事である。それを広場の壇上に上げて、立たせると皆、眉間から汗が吹き出すくらいに身体全体にも、汗を掻いており、辺り一面の寒さからか、身体の表面から湯気が漂っているのが見えた。


集まった者は皆、いったいこれは何事かと、不思議な顔をしている。只、事が大掛かりゆえに興味も持ってくれた様だった。その仕掛けの端緒は上々の様である。ここで興味を惹き付ける事が出来るかどうかがとても重要であったのだから…。


若い官僚は皆の視線が十分に注がれるのを待った上で、おもむろに告げる。


「お集まりの皆さん!私はこの度、秦国の政務を担う事になった左庶長府の役人です。皆さんが今、御覧になっているこの大木を、この南門にある中央広場から北門に移した者には十金与えましょう♪如何ですか?我と想わん方は名乗り出て下さい!早い者勝ちです♪」


若い官僚の名を犀倫(せいりん)という。彼は体躯が良く、腹の底から大きな声を出す事が出来た。また、人の衆目を集める事に長けていたので、この度の布告に抜擢されたのだ。


但し、皆その話を聴いていても半信半疑である。およそ国の役人という者は自分たちから搾取はしても、褒美をくれた試しが無い。だから皆、またぞろ嘘八百を並べ立てて、何か酷い目に遭うのではないかと恐れていた。


民は統制が取れないと、烏合の衆と化す。この場合も、何かまた良からぬ事に巻き込まれたりしない様に皆、互いに顔を見合わせて逡巡(しゅうじゅん)している。


ある種の人間に取っては、こういう状態の群衆心理を巧みに操り、主導し、煽動するのは思いのままである。そしてこれだけの群衆が集まれば、そういう(やから)は必ずといって良い程、紛れ込んでいるものだ。


そして案の上というべきか、ご期待に応えたというべきか、それはひとりの男の言動から始まった。


皆、口々に周りの人と呟く様な小声で言葉を交わしているものの、群衆全体が一様にそんな感じなのだから、ガヤガヤとした騒がしい状態には成り得るものだ。そういう奮囲気の中が、煽動するには一番もってこいの条件である。


逆にシーンと静まり返った状態の中では、誰しも発言しづらいものだ。俗にいうお見合い状態になるからだが、この時は、そういった意味では非常に発言しやすい雰囲気であったのである。男は近くの人々を巻き込む様に、こう言い放った。


「そんな言葉、いったい誰が信じる。また御上の気まぐれに決まっている。皆、騙されるなよ!」


その言葉に、近くに居た者は皆、口々に「「「そうだ!そうだ!」」」と言葉を重ねる。そして、別の者もそれに乗じる様に、「騙そうったって、そうは行くか!そうだろ、みんな!!」と煽る様な物言いをした。


こうなって来ると、群集全体がその煽りを受けて、口々に賛意の方向に向かい始める。広場は先程から打って変わった様に騒然とし始めた。犀倫はこれは不味いと、右の手の平を突き出すと、「静粛に!」と何度か声を掛ける。


そして再び注目が集まった事を確認すると「これは決して嘘では無いのだ!北門にこの大木を運べたら十金だ!約束は必ず守る、誰かいないか?」と再度呼び掛けた。


「幾ら御託を並べても無駄だぜ!どうせ誰も信じやしない。そうだろ、みんな!」


それは見事なくらいに、その言葉尻を捉えた男は、一旦引き戻された衆目を再び自分の方へと引き戻す。人々は再び懐疑的に成らざるを得ない。仮にこの男が煽らなければ、一人くらい『俺がやってやろう!』などという者が居たかも知れない。


しかしながら、この煽りの繰り返しにより、今まで黙って見守っていた者の中からも、やいのやいのと口々に文句を言う者が出て来た。こうなると、群集心理は統制から離れて、てんでバラバラに勝手な言動を行い始める。


犀倫(せいりん)は再び「静粛に!」と叫んで、注目をさせようと試みたが、もはや抑えが効かなくなってしまった。彼は想わず顔を手で覆って、困り果てている。群衆は相変わらずやいのやいのと騒ぎ立てていた。




そんな時である。一台の馬車が南門を通って入場して来る。馬車は先頭の一騎に先導されるように入って来ると、そのまま中央広場の壇上の横に付けた。先頭の馬に跨っていたのは景監である。彼は馬を降りると、そのまま手綱を部下に渡し、その足で馬車の傍に寄って行く。


馬車はそれは見事な藍色に染め抜かれており、衆目を集める。群衆は皆、それだけでも「何だ!何だ!」と興味を惹かれた。衆人の注目を一身に集める中、馬車から降り立ったのは、衛鞅である。彼は特別に(あつら)えた白い軍服に白いマント、そして頭上には左庶長を示す官帽をつけている。


彼を出迎えた景監は、その手を取ってそのまま壇上の方へと誘った。衛鞅は相も変わらず冷静である。犀倫の方にチラッと視線をやると、お手上げの様なので、軽く手招きすると、舞台袖まで一旦来させて、耳に手をやると、何事かボソボソと呟いた。


彼はこの衛鞅の一言で気持ちを取り戻した様に頷くと、群衆を前にして今一度、言い渡した。丁度、衛鞅の登場が緩衝剤となって、皆の注目が戻って来ていたので都合も良かったのである。


「皆、聞いて欲しい!たった今、左庶長様よりご提示があった…この見事な大木を北門に移動させた者には三十金だ!どうだ、やりたいと思う者もこれなら居よう、早い者勝ちだぞ!我と思わん者は名乗り出てくれ!こんな機会は二度とないぞ!!」


犀倫はこの機会を逃すまいと在らん限りの言葉で畳み掛けた。彼のこの言葉の勢いで、群衆の中には、隣同士で「やってみようかな?」という姿勢の者も現われ始めた。


只、残念ながら皆、その言葉に自分自身の信念が篭っていないため、「否、止めとけよ…」と言われただけで、簡単にその言葉を翻してしまう。鯔のつまりは皆、自分だけが目立つ事が嫌なのだ。


そして、全体の総意が未だ消極的に働いている中で、勇気を持って名乗り出ようとする者が居なかったのである。それは皆と同じ船に乗っている限り、安全だという群衆心理の際たるものであった。


そこで再び流れが引き戻されてしまう。煽る者にとっては、この消極的な流れは恰好の機会である。こんな絶好の転機を逃す手はない。彼は周りを見渡す中で、その転機を見事に捉えたのである。


「こんな大木運んで何の意味がある?わざわざ八人掛かりで持って来たんだ。その気になりゃあ、そのまま運べるだろ?わざわざ大金を餌に、俺らにやらせなくても良かろう?何か裏があるんじゃあないのかい?」


ある意味、筋が通っているこの意見に皆、抑え込まれた。納得してしまったのである。この留目(とどめ)とも言える一撃に犀倫は最早、ぐうの音も出なかった。人々は再び勝手気儘に喋り始めて、ガヤガヤと騒しい。


『これは駄目だな…』


衛鞅はそう感じていた。ここいらが、犀倫の限界だと見極めたのである。


そこで、彼はやおら白いマントを翻すと、犀倫を下がらせて、自ら衆目の的に踊り出た。そして両の手の平を突き出す様にしながら皆を押し止めると、「静粛に!」と腹の底からあらん限りの声を絞り出す。


これには群衆はおろか、矢面に立たされていた犀倫でさえ、仰天している。皆、びっくりしたままその視線は、自然とこの白い軍服に白いマントという派手な出で立ちの男に集った。

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