存在の証明
子良が渠梁の任官要請書を受け取ったのは韓の都・新鄭である。彼は諸国を漫遊しながら、仕官のための活動をしていると子規が論じていた話しは既に紹介した。
しばらくはその彼の足跡を辿ってみようと思う。彼は鬼谷子の弟子であり、法家であると同時に縦横家の様な事もしている。彼は父・子規には自分の可能性を試してみたいと言って、各国間を移動しながら、その都度、人脈を拡げていた。
但し、仕官活動をしていたかと問うならば、それはやや微妙な具合であった。彼は各国で人脈を拡げながらも、あとひと推しすれば仕官が叶うという段になると、居宅を引き払い、いつの間にかその存在すらも端から無かったかの如くに、綺麗に後始末を為して、塵ひとつ無い様に掃き清めて出奔するという、見事な引き際を演じていた。
だから彼を知る者は皆、本当に彼が存在して居たのかどうかさえ、怪しむ了見であったのである。何しろ引き際が見事過ぎる為、彼を惜しんだある人が、彼の行方を探させても、いったいどこに行ってしまったのか、皆目検討がつかないといった具合であった。
子規の言葉通り、彼が仕官を望んでいたので在れば、それは甚だ奇妙な行動と言わざるを得ない。但し無理矢理、屁理屈を捏ねるとするならば、気に入らない仕官先に留まる事を嫌ったのだと解釈する事も出来たで在ろう。
彼の行方が必ず判らない理由としては、単純な隣国移動をしていなかった事が挙げられる。そして彼は移動の際には必ずといって良い程に、身成りを代えて髪型すらいじっていた。
こうしてみると、何やら不審なものを感じるだろうが、彼は法を犯した訳でも無く、疚しい事がある訳でも無かった。だから特に名前を偽ったり、身分を詐称していた訳ではなく、それ以外は至ってのんびりと構えていた。
どうやら彼は自由気儘に居たかっただけの様である。だからしつこく探されたり、行動に制限を掛けられたりするのを嫌った節がある。彼は彼なりにこの中華漫遊の旅を愉しんでいたので在った。
だから祖国の君主・嬴渠梁からの密使にも彼の所在は掴めなかったのであるが、ひょんな事からその書簡は彼の手元に届き、彼の知る所と成ったのである。
彼は弟・秦初から紹介された縁で、周の会計監である関靖と交遊関係に在った。無論、その時点では関靖が秦初の実弟である事は明かされていなかったが、交遊が深まるに連れて、関靖の口から知る所と成ったのである。
但し、子良はまだ西夏国の存在も、彼らがその関係者であり、太子と公子である事も知らない。関靖は将来、兄の秦初が王と成った暁には、その下で丞相として国の命運を担わねば成らなかった。
そうなると、ほぼ国内からは出る事無く、その辣腕を奮わねば成らない。だからこそ今の内に国外で自由に研鑽を積んでいる。そんな彼だからこそ、子良の自由気儘に居たいという気持ちに相通ずる心境が起きたのでは在るまいか。
渠梁の密使は困った末に子規に相談に行った。子規は君主の熱意に触れていたから、密使を待たせておき、小飼の密偵を関靖に遣わした。子規は関靖の存在は秦遼や秦初から聞いて知っていたので、この際、ひと肌脱ぐ事にしたのである。
子規の密偵は直ぐに関靖に会うと、子良が新鄭に滞在している事を教えられた。子良は緊急時の処置として滞在先が決まると、必ず関靖だけには連絡を入れて居たのである。彼が自由気儘で在りたいという共通した意思を持つ同志で在ったからなのだろう。
密偵は子良に会うと、返事を貰って直ぐに子規に復命した。そして二つの書簡をもたらしたので在った。ひとつは子規宛て、そしてもうひとつは金の封がされている。即ち、渠梁宛である。
子規宛ての書簡に依ると、子良は任官要請を受諾していた。しかしながら、直ぐにという訳にはいかない棟の但し書きが添えてあった。
自分が近い将来に必ず任官要請を遵守する事。その時期は遠い先では無いが、今しばらくは各国を周りたいので、自由行動に制限を掛けないで欲しい棟がしたためてあった。
鯔のつまりは、その時期は自分で決めると宣言したのである。君主を相手にしてかなりの大胆な物言いであるが、これは交換条件として受け止められた。それで良ければ任官しようというものである。
子規は苦笑いしていたが、密使も子規の手前、文句も言えない。それに子規が一肌脱がなければ、その所在すら掴めなかったのだから、やむを得ず、礼を述べて子規邸を辞し、主君に復命した。
渠梁は冷静にその言葉を受け止めた。彼は子良を買っていたので、そんな条件など些細な事と、受諾してくれた事そのものを喜んでいたのである。そして骨を折ってくれた子規にも謝意を示した。
子良が秦国に任官を果たし、左庶長府の補佐政務官と成ってからも、姿を現さない理由はそこに在ったのである。表向きは任官済みであるが、存在そのものは未だその姿を見せず、国外のどこに居るかさえ判らなかったのだった。
さて、子良は既にあれから新鄭の居住も引き払っている。その身は再び地下に潜り、その所在すらも掴めぬほど鮮やかに逐電していた。
その彼がどこに行ったのかと言うと、新鄭を引き払った後は周の都で関靖に合流していた。関靖は日頃は子良にさして関与しようとはしなかった様であり、彼から子良に文を送る事は控えていた。
彼らのやり取りは普段は子良からの文に限定されていたのである。それも所在を知らせるだけであり、さして気の効いた内容では無かった様である。
そんな具合だから、関靖から文を受け取った時に、子良はとても驚いた。彼は何事かと慌てて文を開いてその内容を確認したものである。
するとその中身は呆気ない程に簡単なものであった。ここに記して置く事にしよう。
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子良殿
私はしばらく、やん事無き事情から都を離れる。主上(周の顕王)には既に御許しを得ており、当面の間、都には戻らぬからそのつもりで行動したまえ。戻ったらまた文を遣わすで在ろう。
関靖
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「何て事だ!」
子良は割りと勘の良い男で、この時ばかりは人に金を与えて後始末を頼むと、直ぐに新鄭を出て、東周の都・洛邑へ向かった。そうあの洛陽の事である。
ここは後漢朝以降の王朝が頻繁に帝都とする事になる場所である。黄河中流域にあり、洛河の北岸に位置する。造られたのはまだ周が力を備えていた西周と呼ばれた時代に遡る。
西周の都は鎬京であったが、洛邑を副都として造ったのである。ちなみに鎬京とは後の長安の事であり、こうしてみると、周が造り上げたこの二つの都が、その後長い間、後進の王朝に使用されて行く事になるのだから、先見の明が在った事に成るのではないか。
勿論、後進の王朝が伝統を継承し、王朝の正統性を主張するために利用したとも考えられるのではあるが、その立地条件も良かったのだろう。
黄河は肥沃な大地を造り出す。まだ貿易という概念が希少であったこの時代は農耕こそ主流であったのだから、黄河が運んでくれる黄土は天然の恵みを与えてくれたのであった。
さて、子良は文を受け取ってからの行動が早かったせいもあり、洛邑で関靖と無事に合流を果たした。驚いたのは関靖の方である。まさか子良が来るとは想定外だったので、かなり困惑の表情を隠さなかった。
彼は都を離脱するにあたり、二三、用事を済まさなければ成らなかったので、子良の様な素早い移動は叶わなかったのであった。彼はその任を引き継ぐための委譲のほか、何ヵ所かに文を遣わす必要もあったので、思いの外、時間を要していたのだった。
「おいおい!いったいどういうつもり何だい?」
関靖は少々非難する様な言葉尻で子良を迎えた。子良はそんな事はどこ吹く風とニンマリ笑うだけである。関靖は日頃、自由を求めて干渉される事を事如く嫌う男が、そんな大胆な行動に出るとは想定もしていなかったのだから、少々苛ついている。
これでは本末転倒ではないか?そう思ったのである。すると子良は少し照れた様に陳謝した。
「すまん、すまん!でもな関靖♪お前さんが都を離れるなんて、珍しい事だ…これは何かあると思ったとしても不思議は在るまいよ!こんな素敵な希少体験なんて他に在るまい!是非とも乗らねばと想ったのさ♪なぁ!いいだろう?一緒に同行させろよ!」
彼は純粋な好奇心の塊といった具合におねだりしてくる。その様子はまるで子供のようであり、期待に溢れていた。そのキラキラとした円らな瞳を、関靖は呆れた様に眺めている。
しかしながら、興味を抱いたこの男が一歩も引かない気質である事も既に理解していた関靖は、大きな溜め息を漏らして、やむを得ず頭を降った。
「判った!判った!仕方ないな…お前も連れて行くよ!全くもう!お前さんて奴は案外、厚かましいのな!でもその変わり、秘密厳守・危険も承知で頼む!命の保証はしないから、自分の身は自分で守って貰うよ!いいね?」
「あぁ!本当にいいのかい?有り難う♪でもお前ならそう言ってくれると思っていたぜ!大丈夫♪秘密は守るよ!墓の中まで持って行くさ♪それに私をそんじょそこらの文官と一緒にしないでくれ!子家は代々、文武両道の家系だからね♪何しろ元は嬴氏なんだ!兄にも弟にも剣は習って来たから大丈夫!」
そのあっけらかんとした嬉しそうな瞳で見つめられた関靖は再び嘆息した。
『弟って…兄上(秦初)の事だろうな(^。^;)♪まぁ仮にも完全に他人じゃないんだからいっか!』
子規様は西夏国の事を御存じだ。何しろ父上であり、王である秦遼と義兄弟なのだ。それに子巌様も跡取りだから御存じだし、知らぬは子良ばかり成り!って状況が覆るだけの話である。
『兄上が知ったら怒るだろうな…(^。^;)!』
関靖はそう想いつつもやむを得ぬと覚悟していた。いずれは判る時が来るのだ。それが少し早まったとしても仕方ない事だと割り切る事にした。却って良い機会かも知れない。彼はそう決断すると、おもむろに告げた。
「判った!判った!皆まで言うな!同行を許す!たくもう…お前さんには負けたよ!」
関靖は鹿爪らしい顔をしながら、再び嘆息した。そんな関靖の表情を横目で見ながら、子良は面白くなってきたとほくそ笑んでいた。




