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甘龍の矜持

甘龍は任命式を終えた後、いきり立つ杜摯を柔和な表情で抑えた。杜摯はそれでも何か言いたげな顔であったが、彼が褒め言葉で労うと、表情を柔らげて、照れてさえ見せた。


杜摯が甘龍から褒められる事など、滅多に無い事であったから、彼としても素直に嬉しかったのだろう。甘龍は皆の前で堂々と自分の意見を述べた彼の姿勢を是としたのである。


誰もがその場の空気に呑まれていたのだから、例え結果としてその意見が否定されようとも、彼の存在感はその場で十分な記憶となって残る事だろう。やり込められた事は仕方無い。相手はあの衛鞅なのである。


そもそも杜摯が言葉の力で彼に勝て無い事は予め判っていた事だから、気にする程の事ではなかった。甘龍としては、しっかりとした意見交換がなされた事。正常な手続きを踏んだ事。皆から認められた上で衛鞅が左庶長として任命されたのだという印象を植え付けておきたかっただけである。


彼が望む富国強兵を為し遂げさせるためには、なるべく順風満帆な船出をさせてやり、尚且、必然的に貴族たちを抑え込みやすい様にしておく方が利があったのである。


彼の目的はあくまでも国力向上が成った後の利鞘(りざや)(かす)め取る事にあるのだから、今のうちは出来得る限りの協力体制を構築しておくに越した事は無い。


任命式の場で、見事に反論を展開してみせた事で、彼らの貴族に対する吸心力は、十分に保持される事となったのだ。その姿勢を崩さず見せる事こそが、彼らのあの場での目的であって、状況を覆えす事そのものが、そもそも目的では無かったのである。


「で!これからはどのように?」


杜摯は念を押す様に確認する。せっかく褒めて貰えたのだから、余計な事を言って、またお叱りを受けるのもつまらない。彼はなるべく落ち着き払った様な仕草をみせた。


甘龍は、左目尻を少し上げると『ほぉ~』と感心した表情をみせ、おもむろに立ち上がると、優しい顔つきで頷いた。


「任命式は無事に終わった。しかしながら、まだ油断は禁物である。明日の準備を挟み、明後日の新法発布を迎えるまでは、貴族どもの出入りも多かろう…」


「…儂は新法発布の開会の宣言を担わねば成らないから、明日はその準備に参加せねば成らん!よってお前の御役目はその間に、貴族たちの面倒を観る事にある…」


「…式の最中は大人しくしていたようだが、それぞれに腹に逸物ある連中だ。騒ぎ始めないとも限らない。お前はそれを落ち着かせて、余計な事をせぬように、しっかりと目を見開いて監視するのがお役目である…」


「…くれぐれも出し抜かれぬ様に目を光らせておけ!良いな?文句を言う者があれば、儂の名を出して軽く脅しておけば良かろう…頼んだぞ!」


「はい!承知致しました…」


杜摯は渋々頷いた。


杜摯が甘龍邸を辞し、自宅に引き上げようとすると、玄関にあたる門の前で赤龍に声を掛けられた。


「杜摯様!」


「おう…何だ赤龍か、顔色が良くないようだがどうした?」


「はい!実は昨日の早朝から青龍を例の謎の人物の捜索に出したのですが、未だに戻らぬのです。もう丸々、二日経ちますから少々心配しておるところでして、衝かぬ事とは存ずるが、見掛けたりされておられぬだろうか?」


「否、私はお前も承知の通り、昨日は甘龍様の替わりに貴族の対応で手一杯であった…今日は朝から甘龍様と合流して一日、任命式に参じていたのだ。見掛けようが無いし、見掛けても居らぬ…」


「…そうか、青龍はそれで不在であったのだな?それではお前もさぞかし心配だろう…良し!私もそれとなく、気にかけておこう!」


「お気遣い感謝致します!ではまた…」


「うむ!お前も余り思い詰めるなよ、そのうち、戻って来よう…」


そう言い残すと杜摯は帰っていった。彼にしてみれば、貴族の動きの方が心配であり、それどころではなかった。


赤龍は青龍については甘龍様から全権を委ねられていたので、まだこの件についてはお耳に入れてはいなかった。それに、任命式やら新法発布と公式の行事が立て続けに続くため、なるべく心を(わずら)わす事は避けたかったのである。


しかしながら、既に二日間が経過しており、いつ主人の口から、青龍の名前が出てこないとも限らない。そこで忙しいのは、重々承知の上で、報告だけはしておく事にしたのである。


彼は主人の居室に向かう道中、(いら)つきを抑えながら、考え込んでいた。


『最近の奴はおかしかった。妙に視線を合わせぬ様にしている節があった。面と向かって反抗的な態度は見せないが、私に対して何が含むところがある様だった…』


『…まさかとは思うが、あの漁師(りょうし)風情(ふぜい)との付き合いを(はば)んだ事が原因であろうか…否、まさかな?只の気の迷いだ。いずれケロッとした顔で戻って来るさ!』


赤龍は彼なりに青龍を気にかけていた。彼も殷の末裔として、この中華では最早(もはや)、天涯孤独の身の上である。女真族出身で、匈奴の奴隷となり、只一人この秦国に流れて来た青龍の身の上は、多少自分と重なるものがあったのである。


但し、彼からしてみれば、青龍はまだ故郷に帰れば家族も居るだろうし、そう言った意味では、まだましな方だった。ゆえに赤龍は青龍が里心を起こさぬ様に、関連する物事からは完全に隔離し、彼の居場所はここにしか無い事を自覚させようと、必死だったのである。


漁師から引き離した理由もそこにあったのだ。しかしながら、こうなるとそれが逆効果だったのではないかと想わずには居られなかった。


『杞憂であれば良いが…』


彼は一抹の不安を抱えながらも、そう在って欲しいと願わずには居られなかった。




「お前の懸念は承知した…」


甘龍は只一言そう述べただけであった。彼は赤龍の報告を聴きながら、二つの仮説を頭に描いていた。一つは探索途上で"消された"という事である。


相手の力量は彼らにさえ判っていないのだ。例え今までは、無双と言える程の強さを青龍が誇っていたとしても、世の中は広い…上には上が居るのだ。そして政敵を、情け容赦無く闇から闇に葬って来た人物が甘龍である。


相手が情けをかける等という思考はそもそも働かない。人間というのは、やたらと自分の思想を反映したがる者だ。ゆえに短絡的に"消された"と判断したのだろう。この場合、"消された"のであれば、もはや探しても無駄である。彼らでさえ、後始末は綿密に行うからであった。


『もう少し使い方を考えれば、この先も役に立っただろうが、仕方無かろう…いずれは解放してやらねば!という頭もあったのだ。だがこれも奴の運命というものだろう…元は既にこちらも十分取れたのだから、そう言った意味では未練は無い!けれども、少々可哀相な事をしてしまったかも知れんな…』


甘龍はそう想っていた。但し、これはあくまでも仮にそうならば!という想定の基である。そしてもう一つの想定は『単にこの仕事が嫌に成り、自ら去った』というものであった。里心が付いたのか理由はどうでも良かった。


只、その場合でも甘龍の判断は変わらない。今、この時期…任命式や新法発布で人が集まって来ている中で、公式にも、非公式にも、手の者を捜索に当たらせる訳にはいかない。


なるべく陣営としての在り方は、静かに、そして協力的に動く事であって、高々一人の家宰の捜索に息巻く姿は見せたくなかった。自分は何事も無いかの如く、動ぜず堂々としていなければ成らない。ゆえに考え方は"消された"時と何ら変わる事はなかった。


『むしろ、その方が良かったのかも知れない。無理矢理、暗殺稼業を続けさせるよりも、後臭れ無く、自発的に去ってくれた方が良いのだ!無理押しすれば、やがては証拠を現場に残すヘマさえ起こしかねない…私が翻意して、彼を解放してやった事にすれば済むだけよ!』


彼はそう結論付けたのである。さすがは、甘龍というべきかも知れない。『去る者は追わず』という論理であった。但し、彼はどうせならば、故郷に帰ってくれている事を切に願っていた。彼にしても、暗殺に明け暮れた未に死なれるよりも、その方が随分とましな結論だと思っていた。


『それでは余りに救いが無さ過ぎる…』


彼も一人の人間として情けは一人前に持ち合わせていたと言うべきかも知れなかった。甘龍はゆえにこう結論付けた。


「帰って来れば、温かく迎えてやれ!もし仮に戻らなかったとしたら、その時点で即日、お暇を与えて解放したと周知せよ!この件で変な未練を残したり、わだかまりを持たぬ様に!」


「宜しいのですか?」


想わず赤龍はそう口にしていた。


「構わぬ…逆に追うな!放っておいてやれ!」


甘龍はそう断言した。僅かばかり残っていた彼の真心がそう言わせたのかも知れなかった。

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