捕われの異人
その日青龍は、杜摯経由でもたらされた情報の是非を確認するために、赤龍の命で行動を開始していた。青龍は日頃から赤龍にこき使われるので、鬱憤が少しずつ溜まっており面白くない。
元々は赤龍も話しの判る奴だったが、青龍がある日の事、地元の漁師と仲良くしている様子を観て以来、手の平を返した様に彼に冷たく当たるようになったのである。
彼としては他意は無く、単に好きな魚は食えるし、魚に詳しい奴だし、面白い仕掛けを考えるのが好きな"そいつ"と意気投合しただけであった。それに彼からは魚を扱う人特有の臭いがするので、彼の生地に近いアムール川の事を思い出して、暫しの気分転換にしていただけなのである。
魯粛が聴いたら、さぞ困惑するに違いない。『(-∀-`; )漁と調理の時だけで~す!普段はそんな臭いは絶対しませ~ん!』それはそうで在ろう…特有の臭いを付けた間諜なんて仕事に支障があり過ぎる…。
青龍は"髪の長い、金の耳飾りをした、背の高い男"という特徴だけを頼りに捜索させられているのであるが、この秦国にそんな奴いるのか?と疑問を持っていた。
なぜならば、彼自身がそんな奴見た事が無かったからである。檪陽宮内で見た人物らしいが、明らかに"大后に会いに来た客人"と判っているから、またいつ訪ねて来るかは判ったものでは無い。
「大勢の家人を抱えているのだから、そいつらに捜索させればいいじゃん!」
「駄目だ!公には動けないのだ。任命式や新法発布が迫る中で、都の中は人で溢れる。人目に付く行動は極力避けたい。お前だけが頼りなのだ!」
赤龍の口癖である。
『お前だけが頼りなのだ』
この言葉の重みは、青龍にとっては、当初はとても心地好かった。余り人から頼りにされた事が無かった彼にとっては、甘龍や赤龍から自分が頼りにされていると思うだけで、素直に嬉しかったのだ。
その彼に出来る事と言えば、戦いで敵を倒す事だけであった。彼は元々、女真族の戦士だから、それ以外に特に取柄という程のものはない。
強いていうならば魚獲りぐらいのものだ。泳ぐ魚を鷲掴みにする特技は、彼にとっては自慢の部類に入るが、そんな事をして喜んでくれる人はいない。
となると、彼の長所は戦士としての能力に限定されるのだから、飯を食うにはその特技を生かすほか無かった。彼は今まで赤龍に唆されて、甘龍の政敵をどれだけ闇に葬って来ただろう。
彼も既に想い出せない程であるのだけは確かだった。彼は以前とは違い、最近は余り人を殺めるのに積極的では無かった。魯匠に会ってから、不思議と自分の心の中で変化が起きていたのである。
『アムール川のある故郷に帰りたいな…』
青龍はふとそんな事を想っていた。但し、少なからず甘龍様には御恩がある。匈奴の奴隷から解放して貰ったのだから…。
普通に考えれば彼はその恩に見合う以上の仕事は務めているのだから、もう解放されて然るべきなのだが、長年の柵が彼の判断力を鈍らせている。
そんな時にこの捜索命令が出たのである。赤龍は再び彼にこう言った。
『お前だけが頼りなのだ…』と!
しかしながらその言葉も、時間と共に彼の心の中でだんだんと色褪せていた。彼らに都合のいい時だけその言葉は巧みに使われ、いつの間にか後始末をさせられている自分に気がついてしまっていたからである。
彼は頗る乗り気では無かったが、やむを得ず承諾して出て来ていたのである。しかしながら、いつもの様に真剣にやる気は失せていた。彼は既に赤龍や、強いては甘龍様のやり方に疑問を抱いていたのだ。
それはある事が切っ掛けとなり、もはや決定的となっていた…。
『もしかしたら…自分はいい様に利用されているだけなのではないか?』
彼は赤龍に漁師との付き合いを止められた前後から、だんだんとそういう穿った見方をする様になっていた。本来、彼らに素直に尽くして来た自分を疑う事は微塵も無かったが、その時に些細な疑念を抱いたのである。
『自分には気に入った相手と付き合う自由すら無いのか…』と!
それではまるで自分は行動を制限された奴隷と同じでは無いか…確かに匈奴の奴隷の時よりは、待遇はいいし、当たりは柔らかいし、自分の行為に対して褒めても貰える。
しかしながら、よくよく考えてみると、お屋敷の中から自由に出られる時間には限りがあり、大抵の場合は命令に基づく暗殺を行う時にだけ、自分の自由行動は保障されている様なものだった。
実際に彼が魯粛と出会ったのも、暗殺をした帰り道であったのだから、彼の身体から血の臭いが漂っていたとしても不思議はなかったし、それを切っ掛けにして、魯粛の所に通い詰めていたところ、赤龍に咎め立てされたのだから、彼にはさして自由が在った訳でもなかったのだ。
『駕籠の中の鳥…』
自分にはその表現が一番当てはまるのでは無いか…要は自分は『人殺しをする道具』として飼われているに過ぎない。そう感じた時に、即ちそれは奴隷と同じでは無いのか?…そう気がついたのである。
そう考えれば考える程に、過去を顧みれば、当てはまる事柄が多過ぎる気がした。彼はだんだんと居心地が悪くなり、自分の今の身の上を嘆く様になっていた。
それは当初すごく小さな傷口に過ぎなかったが、事ある毎に赤龍から感じる命令口調や人を殺める時に生ずる血の臭いが、彼の心をだんだんと蝕んでいった。
そして遂には、彼に勇敢であった戦士としての自分を思い出させ、両親に深い愛情を注がれて育った子供時代等の愉しかった過去を振り返らせる切っ掛けとなったのだ。
ある日の事、彼はいつも通り、刺客の役目を果たして、ふと自分の足許に屍と為って倒れ臥している男を見た。いつもならそんな事は気にしないのだが、心の荒んでいた彼には、その男の無念さが感じられたのだ。
雨に打たれた男の遺体は、暗い街路樹の下で踞る様に倒れており、その眼からは涙が絶え間なく流れている様に想われた。本当は雨が頭や顔に当たり、流れているだけなのだが、それを見下ろす彼にはそう感じられたのかも知れない。
彼はその新鮮な驚きに自分の今までして来た事を否定する気持ちが芽生えていた。彼はハッと気がついた瞬間に、自分は何て事をして来てしまったのだろうかと、自責の念に苛まれていたのである。
戦士として戦場で勇敢に戦い、その結果として大勢の敵を骸にして来た彼は、自分のしてきた事を否定した事は一度も無い。それは自分も相手も部族の威信をかけて勇敢に戦った結果であったからだ。
しかし今自分のしている事は、相手の不意をついた暗殺であり、それは単なる人殺しで、卑怯な行いでは無かろうか?彼は思い詰めた結果として、ついに自分の行動の過った問題点に気づいてしまったのである。
『戦士としての誇りだけを生き甲斐として来た筈なのに…自分は何て事をしているのだ!』
結果として彼は忸怩たる想いに苛まれた。自分のやっている事は明らかに自分の誇りを否定する事だと気づいてしまったのである。そしてそんな自分の行いを両親が知ったらさぞ嘆くに違いないと自覚したのだ。
彼は今回は暗殺の命令では無かったから、渋々承諾して出て来たのであるが、そんな気持ちを抱えた儘であったから、端からやる気はなかった。『勝手にしろっ!』そんな気分であったのだ。
そんな事だから、街を歩き廻ってみたものの、収穫は無く、歩き疲れただけで彼はほとほと困ってしまっていた。そして彼の足はいつの間にか自然と渭水の河辺に向かっていたのである。
その日は魯粛も気持ちが和らいでおり、久し振りにのんびりと釣りに勤しんでいた。何しろ、目的であった車家の再興は成り、車英もようやく自分と御同業の宿屋の主人から解放されて、明日には正式に貴族の身分に戻る事になったのだから、もう自分の気遣いからは離れて、自由に振る舞える身分となったのだ。
『良かったな…本当に良かった!』
彼はとても嬉しかったのだ。それというのも全ては今、彼の横で胡座をかいて魚籠の中の魚と戯れている、この掴み所の無い男のお陰なのだ!そう秦初である…。
趙良は事の顛末を報告するために、今朝一番に櫟陽を立ち、今頃は白雪の商団を追って西に向かっている事だろう。秦初は約束を守り、衛鞅と面会に及び彼女の想いを伝えた。
そしてその事を律儀にも伝える為に、自分の腹心である趙良を寄越したのである。無論、白龍が秦の都・櫟陽に拠点を設ける事に成功して、今は改装工事に余念が無い事も伝えられる。
彼は当初、自らそれを担うつもりであったのだが、よくよく考えてみれば、趙良にやらせた方が気が利いていると気づいたのだ。何しろ趙良は殆ど彼に付きっきりで、護衛の任に勤しんで来た。
たまには彼から離して自由に振る舞える機会を与えてやろうとの彼特有の気遣いであったのだ。そしてそれは趙良の愛する喬燕と過ごす細やかな愉しいひとときに成るに違いなかった。
「そんな事は出来ませぬ…私の任は貴方様を守る事!」
生真面目な趙良は、当初その任務を拒絶した。彼にしてみれば、役目を放棄してまで御使いに出る謂われは無かったのである。
「お前も馬鹿だな…俺なら喜んで受けるぞ♪」
魯粛は主人の趙良に対する気遣いに理解を示すと共に、趙良のこれまでの長い忠節に対して感謝していたのである。何しろ、趙良という稀代の生真面目な男が居なければ、自分がその任を担って来なければ成らなかったので在ろうから…。
彼は主人の気持ちを切々と趙良に説いた。そして最後にこう伝えた。
「お前はまだまだ甘い!御主君に命じられたら、直ぐに離脱してしまう嫌いが在った。だが今回の事で己の過ちに気づき、お前は一段成長した…」
「…こんな機会はまたと無いぞ!それこそ、今度御主君から離れてみろ、この俺が許さん!だが、今回は特別な計らいだ。それに運良くこの俺様が御主君には着いて居られる…」
「…お前が離脱して居る間は、この俺に大船に乗ったつもりで任せろ!必ず御主君を守ってやる!そしてお前に無傷で返してやるよ♪だから、お前は安心して恋人と宜しく遣るんだな♪おっと!あからさまに言い過ぎたか(´∇`)ブハハハ♪」
秦初はそれを聴いていて苦笑いしている。趙良はキョトンとしていたが、主人の気遣いにようやく気がついて、それを魯粛に面と向かって説かれたのだから、一気に意気消沈して尚且つ、事の真相を自覚して顔を真っ赤にしながら俯いてしまった。
「判りました!行って参ります♪」
彼は素直に主人や魯粛の気遣いに感謝して、跳び跳ねる様に喜びながら出掛けて行ったという訳だった。
『本当に細やかな気遣いの出来る御方だ…』
魯粛は魚と戯れるのに飽きて、船の縁に足を乗せて寝転がり始めた主人の顔を眺めながら、そう感じていた。秦初もようやく重責から解き放たれた様に、久々に柔らかな表情をして、うたた寝している。
そんな時だった…彼は突然、不用意に背後から声を掛けられたのである。
船は沖に出ていた訳では無く、岸に係留したままだったので、彼らはちょうど岸に背を向けた恰好と為っていたのだ。それでも普段の彼ならば、用心していた事だろうが、久々に解放されたひとときに油断が在ったとしても不思議はなかった。
彼もまた血の通う人である事に違いは無いのだから…。
一方の秦初はそれでも少し前から見知らぬ男が接近して来る事には気がついていた。しかしながら彼はその男の身許は知らないのだから、必要以上の用心はしていなかったのである。
それでも面と向かえば、こちらの身許に不審がられるかも知れない。そこで彼は寝た振りを決め込んだという訳だった。それでも薄目を開けて、周りの様子は窺っている。
魯粛は咄嗟に振り向き相手を見た。青龍であった。彼は驚きの表情を抑え込む事には成功したが、ややそれでも焦りの心は拭えなかった。秦初が一緒にいたからである。
「よう!久し振り♪今日もたんと釣れているかい?」
青龍は当初、そう気楽に話し掛けたが、次の瞬間に船に寝転んでいる髪の長い麗人に気が付くと、「あっ!」と言って反射的に戦闘態勢に入っていた。それが全てであったと言っても過言では無かった。
彼は戦闘態勢から次の行動に移るまでの刹那にいったい何が起きたのか理解出来ていなかった。彼が戦闘態勢に入った瞬間、起き上がった秦初にその腕を取られて、勢いよく河の波間に叩き付けられた。そしてそれを感じ取った魯粛は体当たりをする様に飛び込み、河の浅瀬で青龍を捕縛していた。
その全てがほんの一瞬の間に行われる事になったので、青龍は考えている暇が無かったと謂える。
魯粛は主人を守る為に、青龍を放す訳にはいかなかった。その身を雁字搦めに抑え込んでキツく動きを封じ込んだのである。
青龍はかつて感じた事のない戸惑いを感じざるを得なかった。この体術で後れを取った事の無い自分が、戦闘態勢を敷いていたにも拘わらず、簡単に腕を取られて投げられたのも去る事ながら、あっという間に、恐ろしい圧力で抑え込まれているのだ。
自分もかなりの化け物だと自負していた彼にしてみれば、青天の霹靂とはこの事である。しかもそれは自分が唯一この中華の地で心を開いた魯匠の手で絡め取られているのだ。
彼は長年の経験から、彼らがおよそ自分には敵わない恐ろしい程の戦闘力を秘めている事を既に自覚していた。あの魯匠がそんな力を隠し持っていたのにも驚きを禁じ得なかったが、自分を始めに投げた男が相当な戦闘力の持ち主である事も自覚していた。
彼はかつて自分と闘い、一瞬のうちに絡め取った匈奴の男の事を思い出していた。彼らはあの男よりも更に強い…彼は肌身でそれを感じていたのである。
とどのつまりは、喩え相手がどちらかひとりでも自分は敵わないだろうに、二人を相手にしては確実に逃れる術は無い、そう悟り、足掻くのを辞めた。
彼がまだ目に殺人者の心を宿したままであったなら、それでも最後まで逃れようと踠いたであろうし、無駄な抵抗を試みたであろう。
けれども、彼は色々あって人殺しには辟易していたので、一瞬のうちに観念していた。それが自分の好きな魯匠に依って行われるとは想いもしなかったが、それと同時に、魯匠に捕縛されて良かったのだとさえ感じていたのである。
「魯匠…お前、何者なんだ!」
彼は咄嗟にそう叫んでいた。
「青龍…運が悪かったな!悪いが諦めてくれ…」
魯粛はそう答えるほか無かった。
そして魯粛に抑え込まれた彼の許に、その男はやって来た。長くサラサラの黒髪…そして背が高くがっしりとした佇まい。耳には黄金の耳飾りを付けていた。危険は過ぎたと判断して、今朝付け直したばかりの耳飾りであった。
彼は青龍の膝下に立つと、やれやれと言った表情をしてこう言い放った。
「予想外の大物が釣れてしまったね…」
そう言って大きな溜め息を漏らすのだった。




