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左庶長府の船出

大后様のお屋敷を辞し、皆それぞれに解散して行く。渠梁は黒龍と共に居室に引き上げて行った。子巌はこれから再び函谷関に戻る。虔も屋敷に戻るが、甥の駟に対しての責任を感じているらしく、見舞いを終えた後に引き上げると言う事だった。


虔としても自分の不容易な行動に対し、大后直々の訪問を受けてお叱りを被った身であるから、気が気では居られないのだ。大后様との謁見中も只ひとり、眉間(みけん)から冷や汗を垂らしながら、心ここに在らずと言った(さま)であった。


後に残された衛鞅は、その足で新しく左庶長府となる上屋敷を見に行く予定になっていた。これに新しく首席書記官となる景監と、左庶長府付きの武官になる予定の車英が同行する。


三人は櫟陽宮の正門を出ると、既にお迎えの馬車と御者が待っていた。衛鞅の入る左庶長府は、秦の政務を司る言わば、宰相府に当たるため、建物の造りからして立派な物になる。


それはそうだ!そこは歴代の政務を担って来た者達が辣腕を振るって来た場所なのだから…。あの穆公の時代の百里奚(ひゃくりけい)や、先の相国・子規が鎮座していたのも同じ建物であったのだ。


その立場に相応しい建物、そして馬車という訳だ。馬車は四頭立てであり、左庶長専用の移動手段という事になる。たかだか爵位という事なかれ…。立場が変われば雲泥の差になる、誠に良い例と言えるのではないか…。


馬車を降りて、直立不動で迎えてくれた御者は、張亮(ちょうりょう)という。彼は珍しく秦の出身では無い。燕人(えんひと)である。体躯に恵まれ、大柄であり、御者にしておくには、惜しいくらいの分厚い筋肉の持ち主である。


これなら正面から矢を射掛けられても、筋肉だけで跳ね返すのでは在るまいか?衛鞅をしっかり守ってくれそうである。


「張亮で御座る!左庶長殿、今後とも宜しゅう(*`▽´*)♪」


彼は自分の腕力に自信があるのか、両腕の筋肉を見せつける様に「ガッハッハ!」と笑い飛ばした。衛鞅は想わず苦笑する。景監も車英も『こりゃあ…駄目だぁ…』と顔を想わず覆った。


『時間を掛けて、教育せねば成らんな…でも体格が素晴しいのは良い事だ…』


衛鞅はそう思いながら、馬車に乗り込む。呆れていた二人も後に続いた。「はいやぁ~♪」馬に鞭が入り、馬車は勇しく走り出す。衛鞅は流れる車窓の風景を眺めながら、戦国六強に負けぬ国造りをしようと心に誓うのだった。


やがて、左庶長府となる建物が見えてくる。想像していたものよりも、数段立派な構えに、彼は心が踊る。


三人が馬車を降り立つと、目の前には『相国府』と刻まれた看板が目を引く。まだ建物は、子規が整理を終えて出たままになっているのだろう。


手配はもう済んでいると聞いているので、やがてはこの看板が外されて、新しく『左庶長府』という看板が付けられる事になるのだ。


彼らは入口の門兵に声を掛けて、門内に入る事が出来た。中は必要以外の物はすっかり綺麗に片づけられており、子規という人が、しっかりと清めて退居された事が忍ばれる。


『きちんとした方だったのだな…噂通りだ。この退居された後の状態を見るだけで、子規様という人の矜持が判るというものだ。私もそれに恥じぬ様に取り組まねば成るまいな…』


衛鞅は改めて、自分がこれから真摯に取り組んでいく事になる改革に想いを馳せていた。身が引き締るような心持ちに、いつの間にか成っていたのである。


「景監!お前は御主君の政務を垣間見て来たのだから、理解しているだろうが、必要最低限の物を揃えておいてくれ!あと数日後には、この府に配属となる官僚の連中がやって来る。時間に限りがあったゆえ、そんなに多くの者を面接している暇が無かった…」


「…船出に当たっては、当面の間、与えられた者たちで進めるほか無いが、引き続き面接の上、使えない者、私の指示に従わない者は排除してゆく。無論、教育の大事さは、私も心得ているから、素直で飲み込みの早い者はじっくり育てて行くぞ!お前にもそれを手伝って貰うので、常に勉強を怠らぬように!」


「心得ました!」


景監はそう答えたものの、頭は痛かった。官僚連中に実務そのものは、丸投げする恰好と成るものの、ちゃんとした計画に沿って進渉しているか見極めるのは、自分の役目となるのだ。


彼は自分の可能性は否定していなかったが、彼にも多少の不安はあった。それゆえか、身の引き締まる思いを、この男も感じていたのである。


「車英殿!貴方はまだ爵位が決まっていないが、御父上は左更(さこう)の身分だった御方です。ですからもし、そのまま身分が引き継がれなかったとしても、右庶長には成られる筈です…」


「…貴方が私の下で働きたいと御主君に願い出て下さったのは、とても有り難いのですが、場合によっては短期間のお務めに成るかも知れません。因みに左庶長府に配属となる兵には限りが在りますから、物足りないかも知れませんが宜しくお願いします!」


「心得ました!衛鞅殿、私が右庶長になると、貴方より身分が上になる事で、使い難いとお想いなのでしょう?その辺りは私も心得ております。実は…御主君が私の爵位を先伸ばしにしたのには、訳が在りましてね!私が左更も右庶長も拒んだからなのです!」


「なんと!それはいったいなぜです?」


「ハハハ!お恥しいお話しですが、私は先日まで一介の庶民であり、宿屋の主人でした。確かに私の家筋は左更の家柄かも知れませんが、私個人は特にその嫡子としての責務を果たしたとはとても言えませぬ…」


「…そんな時に貴方様を預かる事になり、貴方の国を憂い、豊かにしようと想う気概に触れて、すっかり貴方を好きになりました。それと同時に、他国出身の貴方でさえ、これだけ真摯に向き合おうとしているのに、自分はどうなのか、という事を考えた時に、ひっそりと身を隠したまま命を永らえているだけの自分が、とてもちっぽけに感じて、私は自分をとても恥しいと思うようになりました…」


「…それでも子規様や子巌様の御配慮で隠して頂いている身で、堂々と名乗り出る訳にも参りません。そこに久し振りに訪ねて来た秦初様…私を逃がして下さった恩人…ですが、想わず"国に貢献出来なくて辛い"などと愚痴を(こぼ)してしまったのです…」


「…それでも秦初様は親身になって下さり、遂にはお約束してくれていたとはいえ、私の身分を回復して下さったのです!そんな私が再興になった暁には…と温めていた考えが、貴方の下で国に貢献する事でした…」


「…この事は、渠梁様に爵位の件を尋ねられた時に、申し上げました。そうしたら、お前の爵位では叶わないとの仰せでした。そこで私は爵位を放棄してもそうしたいと願い出ました!」


「何と!…」


衛鞅は、話しの展開の真険さに打たれ、想わず唸った。


「未だ私の爵位が未定なのはそう言う訳です!御主君は、それでも左更の身分は変えぬ!と仰せでしたが、私が改革が成功した暁には、身分を回復して貰う事を条件に出して、ようやくお許しが出たのです。そう言った訳で、私は当面の間、五大夫という事で落ち着く予定ですので、衛鞅殿!私をビシビシと鍛えて下さい。宜しくお願いします!」


車英はそう説明を終えると、まるで何事もなかったかの様にケロッとしている。衛鞅は度肝を抜かれてしまっていた。低い身分に身を(やつ)すのは慣れているとはいえ、普通は自分の身分を正当に評価されたいものである


それを自らかなぐり捨てて、かなり降格する事を承知の上で、どうしても衛鞅の改革を助ける事で国に貢献したいと申し出たのだ。誰にでも出来る事では無い。彼は感動していた。


景監と言い、車英と言い、自分の手足となって働きたいと自ら率先して名乗り出てくれた同志が共に居るのだ。これ程、心強い事がほかに在ろうか?


彼は改革が軌道に乗るためには、血の(にじ)む様な修羅(しゅら)の道を進まねばならないと覚悟している。そんな道程を判った上で、好き好んでわざわざ一緒に同行しようという物好きなど、なかなか居るまい!


衛鞅はこの時に確信したのかも知れない。この改革は必ず成功すると!


『必ずや、この秦国を復興し、中原諸国を見返してみせる!』


彼は二人の笑顔を眺めながら、固く心に誓うのだった。

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