大后様への謁見
任命式が終わると衛鞅は渠梁に声を掛けられた。既に壇上を出て、袖口の辺りで黒龍と合流して待っている。衛鞅はそのままそちらに行き掛けたが、ふと強い視線を感じて反射的に振り向いた。
甘龍と杜摯が無言のままこちらを観ていた。杜摯は明らかに挑戦的な眼で睨めつけているが、甘龍は言葉の応酬を交わした後にしてはそぐわない、涼しげな眼でこちらを見つめていた。
衛鞅は不思議そうな顔をしながら軽く会釈した。杜摯はそれに対して、そっぽを向いたが、甘龍は優しげな瞳で会釈を返した。杜摯はそれを観て驚いている様だったが、甘龍に頭をポンポンと軽く叩かれると、嗜められながら会場を後にした。
衛鞅はようやく袖口に向かうと、陳謝しながら合流した。袖口の幔幕で見えなかったが、既にそこには嬴虔と子巌、景監と車英も待ち詫びていた。
「御主君、お待たせ致しました。これは?」
衛鞅は彼らを見つけて渠梁に問うた。
「あぁ…皆でこれから大后様の所へ報告に行くのだ!お前もまだ母には面識が無かっただろう?左庶長に正式に任官した事だ、この機会に紹介しよう…一緒に来い!まぁ本来の目的は、車英の復権を御報告する事なんだがな…」
渠梁はそう述べながら、車英の肩口に軽く手を乗せている。当の本人は長年、宿屋の主人だったのだから玉体の一部が肩に乗っているだけでも当惑しており、真っ赤な顔で下を向いていた。
総勢7名の大所帯は、往きにやって来た石階段を引き返すのかと思いきや、そのまま左側に在る袖口から抜けて、屋内を進んで行く。
「成る程…こういう構造に成っているのですね…」
「まぁな…本来的にここは君主と同行する者しか通れない。朝儀の度に、皆と同じ石階段の入口から入らねば為らないのは都合が悪いのでな…日頃は連れて歩く黒龍ぐらいなものだ。兄上でさえも単独ならば、石階段から入る事になるゆえな!」
衛鞅は嬴虔の方をチラッと見る。虔はフッと短く微笑みながら頷く。同じ宗族とはいえ、彼は渠梁の臣下なのだ。嗜みは守らなければ為らないのだろう。
今朝ほどの渠梁は通過儀礼の一環として、衛鞅や車英と共に石階段を歩む道を選んだ。これから同じ船に乗って苦楽を共にする者たちである。自分も当事者としてその中核を担う覚悟を彼らに示したかったのであった。
やがて大きな広間を抜けると、廻廊に出る。ここをさらに進んで行くと、大后様の御屋敷に入れるのだ。廻廊をそのまま進んで行くと、入口付近に二人の女性が佇んでいるのが見えて来た。大后様と蘭玉であった。
黒龍の事前の申し入れが覿面効果を発揮した事になるだろう。当然の事ながら、車英も衛鞅も感激している。
「母上、御足労頂きまして…」
「渠梁、気にする事はありません、さあ、皆さんどうぞ中に!」
大后自らの出向えに、皆、恐縮しながら、屋敷の中へと通される。そこは大后専用の大広間であった。あの秦初や子規が通された場所である。
先程、通り抜けて来た君主の大広間と比べると、その半分程の広さだが、質素ながらも、所々に女性らしさを感じさせる工夫が見られる。その顕著な例が燭台である。
見事に枝別れした燭台の一本一本が、まるで木の枝振りの様に広がり延びて、その先端で煌めいているのだ。そんな飾りつけの妙に、始めて訪れる者の心は鷲掴みとなる。
車英や衛鞅も例外では無い。自然と視線は釘付けとなり、目を奪われる。「これは見事な…」二人は感心しきりである。そんな二人を大后も微笑ましく眺めていた。
「母上、御紹介致します…こちらがこの度、我が国の改革を担う事になった左庶長の衛鞅です…」
衛鞅は礼節に乗っ取り、挨拶を交わす。大后もそれに応じた。
「御苦労頂きます…渠梁を助けてやって下さいな!」
「承知しております…誠心誠意相務める所存です!」
「…そしてこちらがこの度、車家の当主として、その名跡を継ぐ事になった車英です!」
車英も礼節に乗っ取り挨拶した。
「今まで苦労を掛けましたね…到らない私達を許しておくれ!これからは、当主としての切り盛りもせねばなりませんから、大変でしょうが、忠節を尽くしてくれると信じていますよ…」
「勿体無い!私は今まで庶民として暮して来ましたので、幸いにも民の心は分かるつもりです。その事も踏まえて、私にしか出来ない忠節の在り方で、尽す所存です…」
車英は感激の余り、目に涙を溜めていた。
一旦、場が落ち着くと、大后は子巌に声をかけた。
「子巌、日頃は渠梁や虔に尽くして下さり感謝しますよ!この度の車家の再興にしても、貴方や子規殿の力添えが大きかったと聞いています。本当に有り難う。貴方も函谷関の防衛に忙しいのに、ちゃんと忘れないで居て下さったのね!」
子巌は珍しく厳しい表情を脱ぎ捨てて、微笑を湛えている。彼も大后様には兜を脱ぐ。
「滅相も無い!慎重になる余り、時間が掛かってしまったのは私の罪です。全ては御主君の御才量によるもの。そして強いてあげるとすれば、その功は我が弟、秦初に御在います。あ奴が道を付けたのだと私は思っています!」
これが、子巌の偽らざる本音であった。彼は常に公平公正であり、平等な姿勢で物を判断する。さして、効果を与えられなかった自分を評価されるのは、彼にとっては却って迷惑だったのである。
「まぁ、まぁ、峻峭だこと!貴方は昔から自分に厳し過ぎますね!まぁ貴方らしいとは思うけど、たまには気持ちを楽にしなさい。過度な禁欲は慎むことです…」
「は!注意致します…」
『それにしても驚いたわね…あの秦初様が、動いて下さっていたなんて!そう言えば…あの時、私の所にやって来たのは、車英の件でこの私に助けを求めに来たのね…悪い事をしてしまったわ!子巌と言い、秦初様と言い、子規殿の子等は欲が無くて遠慮が過ぎるわね…教育を大事にされる子規殿らしい事!』
大后様はそう想い、子家一族の貢献と忠節に感謝していた。こうして大后様との謁見は終わり、皆それぞれの務めに戻る事になる。
蘭玉は謁見の最中は、大人しくしている様に、大后様から厳しく命じられていたので、結局のところ、終始無言を貫く事になった。
唯一、子巌の口から秦初の名が出て来た瞬間だけは目を輝かせながら、喜んでいた。大后はそんな娘の姿を横目で見ながら、「しょうの無い娘だ事…」と呆れていた。




