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任命式【後篇】

君主・渠梁の紹介を受けた衛鞅は満を持して立ち上がった。その仕草は特に荒々しくも無く、かといって緊張している様な感じにも見えない。


これだけの参集者を目の前にしても怖じ気付く訳でも無く、しいていう成らば(ひょう)々としており、少々不遜な事ではあるが笑みを浮かべ、のんびり構えている様にさえ見えた。


彼は姿勢を正すと、元々背が高く、横幅も広く健康的な体躯をしているせいか、これだけの大勢に囲まれていても全くと言っても過言では無い程に見劣りせず、大きく見える。


そして一目見た瞬間に一番印象に残るのは、この当時では珍しく、秦君でも着ていない様な贅沢な白貂(はくてん)の衣を身に(まと)っている事であった。これは彼が元々、衛という国の公子であった事が深く関係している様だが、詳しい事は判らなかった。


後の昭襄王(しょうじょうおう)の時代に宰相として招かれた斉の孟嘗君(もうしょうくん)・田文が王に狐白裘(こはくきゅう)という白狐の毛で作った衣を献じる逸話が出てくるので、そういった(たしな)みがこの当時の中華にもあったのかも知れない。


彼は参集者を俯瞰(ふかん)して両の目の視野に入れながら、自然体のまま軽く会釈して、おもむろに主君を振り返り一礼し、左右に陣取る嬴虔と甘龍にも一礼するや、再び直立不動で顔を上げると、ようやく言葉を発した。


「御紹介に預かりました衛鞅と申します!以後お見知りおき下さい…私はこの度、秦国君主・嬴渠梁様の御下命の元、この国の改革を担う事に成りました。やるからには誠心誠意、相努める所存です…」


「…但し、そのためには上は君、下は民まで全ての秦人(しんひと)の皆様が協力して取り組んで行く必要があります。これがまず大前提となります。私個人が幾ら努力を重ねても、然程の効果も上がらないでしょうからね…」


「…そのためにはまず、改革を司る私の全権を否定せず、邪魔をせず、しっかりとそれに従って動いて頂く必要性があります。但し、誤解しないで頂きたいのは、私個人の感情の起伏に左右される様なあやふやな行動に従えと申しているのでは在りません…」


「…それでは()んだ独裁者に成って仕舞いますからね♪それに一個人の裁量など高々知れています。どんなに優秀な、どんなに素晴らしい観念を有した人物が手腕を発揮したとしても、皆が理解して着いて来る事が出来なければ意味は全く無いのです…」


「…そこで私は皆が理解出来て、行動を起こすのに躊躇する事無く、上は君から下は民まで身分や爵位に左右される事が無い行動指針を考えました。可能な限りの不平等を廃し、皆が苦しみややりがいを共有出来れば、この国を豊かにする事が出来るだろう…考え方の根幹はそこにこそ在ります…」


「…結論を申します。私の考えた御提案の核となるのはズバリ法です!現行の法を抜本的に変革化し、その法を基軸として、これからの秦人の行動指針を定めます!ここで大切な事は、この法からは誰ひとりとして、逃れる(すべ)は無いという事です…」


「…君主は勿論の事、下は民までその法の(もと)には平等です。当然の事ながら、この改革を担うこの私もその法には縛られますし、無論、今この発言をお聞きになられている、ここに参集した貴殿方もそれは例外では在りません。これなら私が暴走する事も無く、独裁者となる心配も在りません…」


「…そして極論を申し上げれば、この法が生き続ける限りにおいては、喩えこの私が改革半端で倒れたり、死ぬ事があったとしても、改革への道が閉ざされる事は在りますまい。私のお役目は、あくまでもこの法を作った者として、それゆえに精通している者として、その行く先の道を正しく示す事にこそ在るのです…」


「…いわばこの法を施行するための奉仕者としての役割を担う事こそが、私の与えられたお役目だと心得ている次第です!私の考えはこれで全てご説明致しました。御意見が在れば是非お伺いさせて頂きましょう。忌憚の無い、活発な意見交換を望みます!」


衛鞅は説明を終えると、場内全体を静かに見渡した。皆、余りの堂々たる意見具申に、唾を飲み込んで聞き入っていたが、然りとて完全に理解出来ている者がどの程度いるのかさえ怪しかった。


ここに居る者の殆どは、甘龍の息が掛かった者たちである。そしてその領袖(りょうしゅう)である甘龍から、衛鞅の言葉を途中で遮る様な愚かな事はけしてしない様に通達されていたので、静かに聞き入る他無かったのだった。


本来ならば、彼らはこんなどこの馬の骨とも判らぬ様な部外者の意見を、まともに聞いてやるつもりも端から無いのだから、始めから徒党を組んで野次り倒そうと息巻いている者が大勢(たいせい)を占めていたのである。


だから衛鞅が説明を終えた後も、皆、特段それに対して敢えて反応を示そうとする者は居ないのだった。それどころか皆一様に、互いの顔を見合せながら、誰か発言をする者が居ないかどうか、お見合いに興じている始末である。


誰ひとりとして、ひとりで意見に賛同したり、反論する者は居なかった。そんな勇気は端から持ち合わせていないらしい。それにここで突出して下手を踏めば、領袖である甘龍から、後々目をつけられかねない。彼らにとってみればその事の方が恐ろしかったのである。


無論、誰かひとりでも反論に回れば、それを口火として、彼らが当初予定していた徒党を組んだ野次り倒しも敢行したのだろうが、誰もが口火を切る役目は他人に押し付けたがり、自分から率先して口撃に転じようとする気概は持ち合わせていなかった様である。謂わば烏合の衆という事である。


結局、互いにお見合いした結果として、誰ひとり言葉を発する者が居なかったためか、必然的に皆、甘龍や杜摯の顔色を窺う様に、この二人にその注目は集まったのである。


甘龍は嘆息していた。どいつもこいつも自分の意見を発言しようとする者が誰ひとりとしていない事に彼自身も驚いていた。


確かに衛鞅の発言を途中で遮る事の無い様には徹底させたものの、自由な意見を発言する事までは規制していなかった彼にしてみれば、自分の意見を持たぬ者が多過ぎる事に困惑し、辟易していたのである。


甘龍は想わずチラッと杜摯を見た。杜摯は真顔で呆けている。どうやら真剣に考えている様な素振りを作るのに必死の様である。彼は皆の前で威厳を保つための表面を(つくろ)う事に必死の様であり、どうすれば泰然自若とした姿勢に見えるかにのみ、神経を集中させているらしかった。


『こいつもか!全く…どいつもこいつも阿呆の集まりだな…まぁ端から判っていた事ではあるが…だからこそ統制も取りやすい事ではあるのだがね。しかし、これほどとは思わなかった。酷いものだ。だから継承貴族のボンクラどもは役に立たぬ…』


甘龍は彼らに期待する事は辞めた。ここは自分が反論に回るほか無い様であった。本来的には彼は改革には賛成なのだ。出来ればここで堂々と賛成派に回り、皆に自分の威厳を示しておきたかった。


威厳とは表面で形作られるものではなく、発言や行動の繰り返しにより保たれるものである事を彼は理解していたのだった。


『それにしても…』


甘龍は想う。彼は衛鞅という男の矜持に触れて少し感動していた。衛鞅は『疑行は名無く、疑事は功無し』と言っているのだ。


『疑』とは確信を欠いているあやふやな心持ちの事である。何事も行動に移すからには、自信を持って断行せねば為らない。あやふやな心持ちで行動したのでは、成功も覚束(おぼつか)無ければ、名誉も得られないという意味である。


彼は衛鞅の理念そのものには、とても興味を抱いていた。そしてその信念にも共鳴していた。無論、改革を断行するのだから、苦しみがつきまとうのはやむを得ない事だ。『産みの苦しみ』という奴である。


しかしながら、彼の目的は、秦を豊かな国にするという方針では一致しているものの、その先に観ている景色は当然ながら衛鞅とは異なる。


彼は今のままでは必然的に枯渇して行くで在ろう『既得権益』を憂いているのであり、将来的に秦が豊かな国に成らなければ、それが失われる事を嘆いているのだ。


ゆえに彼は改革賛成派ではあっても、いったん事が成し遂げられてしまえば、衛鞅と最後までお付き合いするつもりは端から無かったのである。だから今は衛鞅の才能を利用する為に賛成には回るが、最終的には自分の『既得権益』を守り増やす事こそが彼の到達点となるのだ。


それは将来的に、甘龍と衛鞅とが完全に敵対する事を意味していた。にも関わらず甘龍が衛鞅に共鳴する事が出来たのは、彼が創造者には成れずともその理解者に成れるだけの、叡知を隠し持っていたからなのだと言えるのかも知れない。


彼はその通りに、この先も衛鞅のする事に理解を示して行く。そしてその先に観ている景色を実現させる為に、この理解力を駆使して、衛鞅のやり方を利用し、逆手に取って追い込んで行く事になるのだが、それはまだまだ先の話になるだろう。


『ここは反論に回らねば、このボンクラ共の支持を失う。喩え烏合の衆だとしても、数は数だ。最終的に勝者と成れるのは、数をより多く制した者である。相手はあの衛鞅だ。ここで恐らく私の論理は通らぬだろうが、目的はそこでは無い。このボンクラ達の支持を堅固にする事こそにあるのだ!』


甘龍はそう決意を固めると、反撃に転じた。


「衛鞅殿、お説はごもっともだ…しかしながら、国法を変えるというのは少々大袈裟に過ぎるのでは在りませんか?私はそんな事をしなくとも、国の君主が徳を示し、民を正しい道に導けば、事は為せると思うのですが…如何かな?」


「国の君主が代々英邁で在れば恐らく不可能では無いかも知れませんね!ですがその保証がどこに在りますか?秦国は穆公という稀代の君主を輩出して以降、何代にも渡って不遇を囲いました。ようやく先代・献公様の御代になり、持ち直すまでの間、貴方の仰有る事が実現しましたか?それが私の答えです。はっきり言わずとも結果が全てを物語っています!お気持ちはお察ししますが、それでは駄目でしょうね…」


「では、どうしても国法を変えるお積もりか?只でさえ、国が疲弊しているこの時期に、新しい事に挑戦して失敗すれはどうなるかは自明の理だ!取り返しがつかない事に成りますぞ!」


「お言葉ですが、秦国は今のままでも10年持たないのは御主君が示した通りです!疲弊しているこの時期だからこそ、新しい事に挑戦しなければ為らないのです!それも皆が試した事の無い様な事で在れば在るほど良いでしょうね…」


「…貴方は失敗した時の事を考える余り、指を咥えて何も為さない方を選ぶのですか?申し訳ないが、秦国は失敗しても、現状維持を選んでも、どちらにしても国は傾くでしょう…であるならば、成功を信じて挑戦する事の方を私ならば選びますね!…」


「…成功も名誉も、その気になって行動を起こす勇気が無ければ得られないものです!そして新しい事に挑戦する者は、とかく非難の的にされがちなものです。民は国にとっては子供と同じ…大人が導いてやらねばならない者です。そしてその子供が可愛ければ可愛い程に、親は必死に導いてやりたくなるものでは在りませんか?それが親の愛情というものでしょう?…」


「…道を示してやらねば動く事が出来ない者が民で在るならば、その道を示してやる事こそが我々に求められた命題です!民は何も分からないうちは愚者かも知れませんが、示された道を追い求める事が出来たなら、知恵も付くし自分で考える事が出来る様に必ず成ります。その環境を我々は作ってやれば宜しいのです!…」


「…なぜこれだけ私が民にこだわるか?貴方なら判るのではないかと私は思います。それは数の論理だからです!我々が幾ら声高に改革を叫んでも、実質的にそれを実施する段階で、実際に実行に移すのは民で在るからです…」


「…それは何故(なにゆえ)か?彼らがこの秦国に於いて、一番数が多いからです!彼らの協力とその労働力無しには我々は何も成す事は出来ないのですよ♪そして結果が出た後には彼らを褒め称え、それに見合った糧を享受させれば宜しいのです…」


「…至上の徳を論ずる者は世俗に迎合せず、大功を修めんとする者は、多勢の人間には相談はせぬもの。国や民の利益に成る事ならば、従来の法や慣習に従う必要は御座いません!これで御理解、頂けましょうか?」


衛鞅は甘龍の抵抗を、熱量のある気概と論理の構築によって論破した。さすがの甘龍もその一言一句が身に染みて理解出来るだけに、戸惑いを見せるほか無かった。何度と無く、論理の破綻を見つけようと試みるが、それは時を無駄にするだけに終わったのである。


ところが、ここで意外な事が起きる。何と誰もが期待もしていなかった杜摯が反撃に転じるのである。これには甘龍でさえ驚いた程で在る。但し、期待はしていなかった。あくまでもその行動力にのみ驚いたと言うべきで在ろう。


「成る程…耳には美しいしらべの様に聞こえますな…ですが、長きに渡り続いて来た因習をそう簡単に打破出来ますかな?むしろ法や慣習を変えずに民を導き、立派な政治を行う事の方が大事なのでは無いでしょうか?それが真の智者だと私は思います…」


「…現行に従って民を導く方が無理は少なく、効果が上がると私は想うからです。同様に従来の法によって統治すれば、その方が実務にあたる官吏が習熟しているでしょうから民も安心して従うのではないかと?…如何ですかな?」


「貴方の仰有る事は俗論ですね。今は変革をもたらさなければ、国は傾くと申し上げた筈です!現状を維持し、御主君の徳だけを頼りとして、最大限の情けと知恵を駆使したとしても、数年間、国体を維持し続ける事が出来るだけでしょうね…」


「…皆さんは何かと言えば変革を嫌いますが、そもそも古来より、礼も法も一定では無く、不変でも無かったのです。夏・殷・周の三代においても、異なる礼に基づき、いずれも王者になっております。春秋の五覇も異なる法によって、それぞれが覇者となっております。つまりは、いつの時代でも智者が法を定め、賢者が礼を改めて、結果を残して来ているのです。これは新しい事に挑戦した者が結果を残してきた事を示す良い例だと私は思いますけどね♪」


杜摯はグゥの音も出ない程に、衛鞅にやり込められて、想わず悪癖が出る。首を竦くめる様な仕草をした後に黙り込んでしまった。そしてそっぽを向いて膨れっ面と成り、顔を真っ赤にして憤っていた。


ここで衛鞅は畳み掛ける。


「政治とは常に固定した理念では駄目なのです。その時代に応じて変革していく柔軟性が無ければ、時代に取り残されてしまいます。時代遅れに気がついたならば、気がついた事を喜びとして対応策を考えるべきなのです。国にとって有益と判れば、遠慮なく変えるべきなのです…」


「…殷の湯王や周の武王は古来の道に従わずに王者となりました。夏の桀王や殷の紂王は古来の礼を変更しないのに滅びました。これが良い例でしょう。ですから…非難されるべきは、現状維持に固執し、新たな挑戦を拒む姿勢なのです…」


「…どうですか?私の言葉に誤りが在りますでしょうか?この改革は良く考えた上での結論なのです。今この時に決断しなければ、秦の明日は拓けないでしょう。よく御考察頂きたいと切に願う次第です…」


衛鞅はそう言い切ると、場内を見渡した。皆静まっているだけで、もはや誰も発言しようとする者は無かった。


渠梁は衛鞅の背中を頼もしく眺めていた。とても大きく見えていたのだ。彼はたったひとりで立ち向かい、その意見をことごとく論破したのだから…。


渠梁はおもむろに立ち上がり、場内を見渡すとようやくその言葉を口にした。待ちに待った瞬間だった。


「どうやら…意見も出尽くした様だな♪皆、良く理解出来たで在ろう。私も衛鞅の考えを支持する。ゆえに彼をここに左庶長に任命し、国政の抜本的な改革を命ずるものである!」


彼はそう宣下すると、左右両大臣に念のため確認を行った。


「大将軍・嬴虔!これに異存無いか?」


「御座いません!」


「上大夫・甘龍!これに異存無いか?」


「御座いません…」


甘龍は内心では(やぶさ)かでは無いものの、一応、領袖としての立場があるので、仕方無くという表情を見せた。


「ではこれにて任命式を終わる…皆、散会せよ!御苦労で在った!」


渠梁は力強く高らかにそう宣言した。衛鞅の矜持を確認出来た今、彼には何の迷いも無くなっていた。

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