任命式【前篇】
景監はその朝は早起きして、直ぐに出仕すると、準備万端整えて、櫟陽の正門にて控える孫沢に声を掛けた。
「特に疎漏無いな?」
「御座いません!」
「良し!では出発!」
景監の爽やかな掛け声に合わせて、孫沢が鞭を入れると、馬も軽快に走り出す。景監も感慨無量である。この良き日に衛鞅という改革の旗手を迎えに行くのである。豪奢に飾り付けた装飾が映える馬車に乗る気分は格別であった。
やがて、あの坂道に差し掛かる。主君と衛鞅の狭間で板挟みとなり、何度も行ったり来たりする事になったあの坂道である。坂を登ったり降ったり苦労した事を今も鮮明に憶えている。
それがどうだ?馬車に乗れば、何の労苦も無しにひとっ飛びだ!景監はまるで…しんどそうに歩いていた自分を、馬車であっという間に追い抜いた気分で、車窓と共に過ぎ去る背後を眺めていた。
そして馬車が無事に坂の道上にある宿に到着すると、既に衛鞅と車英が式典用の礼服を身に纏い、庭で山岳風景を眺めながら、迎えを待っていた。景監は馬車から一旦、降りると、礼節を以て挨拶を交わした。
「衛鞅殿、お約束通りこの景監、お迎えに参じましたぞ!そして車英殿、おお、髭を綺麗に剃られたのですね!見違えましたぞ、これではどこからどう見ても貴族にしか見えませぬ…」
景監は話しの流れから、とんでも無い事を言っているが、元々、車英は貴族であるから、当たり前である。
衛鞅もそれが判ったのか苦笑いしている。車英はこの恰好にまだ慣れないせいか、そこを指摘されたと想い、少々、照れ気味である。
「お二方共、どうぞ馬車にお乗り下さい!この景監めが御案内つかまつる♪」
二人を乗せた馬車は、颯爽と再び走り出す。三人はそれぞれ背後を振り返り、感慨深げに暫し眺めていた。
馬車が櫟陽正門に戻って来る頃には、大勢の陪臣や官僚がこぞって出仕し始める。それぞれが様々な思惑を秘めて、この任命式に参加するのである。
景監は馬車を降りると、衛鞅と車英が降りるのを再び迎えた。その上で、丁重に行く手に手を指しのべて、「こちらです!」と言って、先導して行く。長い廊下を通り、やがて二人は渠梁の居室に到着した。
「さあさあ、どうぞ!」
そう言って部屋に通された二人を、これまた礼装に身を包んだ渠梁が出向えた。
「我が君!無事にお二人を迎えて参りました♪」
「御苦労だった…」
渠梁は景監を労うと、二人に対面の礼を取った。
「衛鞅殿!よく参られた。いよいよだな…宜しく頼むぞ!」
「はい!大舟に乗ったつもりでお任せ下さい!」
「頼もしい事を言ってくれる…頼りにしておるぞ!そして車英殿!復帰おめでとう!これからが大変だが、早く慣れて欲しい…私はとても期待しておるから、是非頑張って貰いたい。宜しく頼む!」
「は!疎漏無きよう相務めまする…」
二人はこれからの前途に向けて、それぞれが懸命な姿勢を表した事になる。そこへ黒龍が重要人物を案内して来て復唱する。
「我が君、兄上虔様をお連れ申しました!」
「御苦労だった…」
黒龍は手短に会釈で応える。渠梁は兄の到着に喜びを表した。
「これは兄上様、本日はお世話をお掛け致します。宜しくお願いします!」
渠梁は兄を頼もしく見返すと深々と頭を下げた。
「こちらは?」
嬴虔は先に来ている客人の紹介を求めた。
「ああ…兄上ご紹介します。彼が左庶長に就任する、衛鞅です。そしてこちらが兄上の陳情を受けました車英です!今回、万難を廃して御家再興をさせる手筈と相成りました!」
車英と聞いて、嬴虔は慌ててそちらを振り向く。車英はペコリと頭を下げた。虔は車英をしばらく見つめると、心静かに語った。
「よく戻って来てくれた!良かったな…これで子巌も安心しよう!」
嬴虔のこの言葉を受けて、車英は本当に色々な人の支えによって、自分の復権が相成った事を思い知る。彼は不覚にも少々目が潤む。衛鞅は暫し、そんな彼の気持ちに心を馳せていた。何より彼が一番真近でその苦労に触れていたのである。
渠梁もこれで全て役者が揃ったと、満足そうに眺めていた。いよいよである。黒龍の先導で、渠梁、嬴虔が続き、その後ろに衛鞅、車英が続く。そして最後尾から景監が続いた。彼らは、朝儀の間に向けて歩みを進めて行く。
朝儀の間は、櫟陽宮の中でも高い場所に造られており、長い石段を歩いて登らねば成らない。六人はそれぞれの心構えを胸に秘めて、一段一段を踏みしめながら、階段を上がって行く。
既に甘龍や杜摯も登壇しており、朝儀の間の入口前に控えて、君主の登壇を出迎えた。
「おう…上大夫、それに左司空も早いではないか?御苦労である。上大夫!この階段では脚も辛かろう…大丈夫かね?」
「御主君!お気違い有り難う御座いまする…なあに、この甘龍老いたりと言えどもこれしきの事では音は上げませぬ。御心配下さりませぬように!」
「そうか…まぁでも無理はするな、良いな!」
「はい!重々心得ております…」
「では、諸君!参ろうか…」
「「「「ははぁ…」」」」
その直後に朝儀の間には、君主の登壇が知らされる。
「「君主様御成り~君主様御成り~」」
これを合図に既に参集している者達は、緊張感に包まれる。渠梁はそのまま上座の壇上に腰を降ろす。黒龍はその左手にある袖口の前に立つ。朝儀の進行に携わるからである。勿論、彼はずっと立ちっぱなしとなる。まあ、他の方々も似た様なものであるが…。
嬴虔は公子であるから、渠梁の斜め前辺りに少し壇の低い席が設けられており、そこに腰をかける。ちょうど黒龍の前辺りと言えば、イメージしやすいだろう。
甘龍は渠梁の右手前に陣取る。但し、嬴虔の様に壇は設けられてはいない。これは彼が宗族では無く、陪臣であるからで、元々はここにも壇は存在した。
そう…ここは昔、献公の御代に、あの子規が座していた場所であった。甘龍は、足が悪いので、相当に用心しながら腰を下ろす。そしてようやく手に持っていた杖を手から離して、机の横に立て掛けた。
その甘龍の次席の位置に杜摯が座わり、その横に座るのが、尚書の公孫賈である。彼は渠梁の傍で書簡を整理し、内容を吟味した上で、助言をするのが役目である。
景監にエスコートされた衛鞅は渠梁の目の前に用意されたもっとも低い壇上に招かれる。左右、正面に陣取っている貴族階級の御歴歴から注目の的になるポジションと言えた。
彼は大きな体躯で人の波を掻き分けながら、時に身を縮めるようにして、小狭い通路を通り抜ける。しかしながら、終始堂々としており、全くと言って良い程に、不安を感じさせる要素は微塵も無かった。
彼は席に着く前に、御主君、嬴虔様、甘龍様に軽く頭を下げて、最後に会場を俯瞰する様に見渡すと、のんびりと席に着いた。それを確認した景監も自分の席に腰を降ろす。彼の席は嬴虔の居る左側の列の二番手の位置に当たる。
因みに嬴虔の斜前、一番手の席には、子巌が既に座っていた。そして出戻りの車英は三番手の席に座っており、慣れないせいか少し浮いてしまっている。
皆がひとまず席に着いた事で、ざわめいていた場内も一旦、静寂に包まれる。それを眺めていた渠梁が黒龍に合図すると、彼はおもむろに書簡を取り出し、カタカタカタと竹簡の音を立てながら、それを開くと、読み始めた。
彼の声は大きくそしてよく通るので、まさに進行役にはうってつけである。彼はまず朝儀の開催を宣言した。
「これより朝儀を開催する。皆、皆様立ちませい!」
場内の各人はその指示に合わせて立ち上がる。
「本日の予定は、まず新しい貴人の紹介であります。我が君、お願い致します!」
「うむ!有り難う…その前に皆も知っていると想うが、先の献公様の家宰であった黒龍をこの度、この私が大后様より直々に貰い受け、前と同様に筆頭家宰として、力を尽して貰う事となった…」
「…そのうち、皆の所にも取次に行かせる所以そう心せよ!既に会っている者は知っていると思うがな…まずそれがひとつ。買蔣にも引き続き私の家宰を務めて貰う。これがふたつ…」
「…では、さっそく本題に入ろう。これが本日、一つ目の議題である。私はこの度、車家の無実が確実となった事を受けて、その嫡子である車英を迎えて、名跡を継がせる事を決意した…」
「…つまりは車家の再興である。この件については、既に上大夫の甘龍と大将軍の嬴虔にも計って了承を得ておるから、この場では、議論は行わない。車英挨拶なさい!」
車英は立ち上がると、会場を見渡しお辞儀をする。そして挨拶を行った。
「車家の嫡子、車英で御座います。この度、色々な方のご支援の許、再興が相成りました。感謝の心を忘れず、国に尽して行く所存です、今後とも宜しくお願いします!」
「そういう事だ!彼は元々、左更の家系ではあるが、まだ正式に爵位は決定していない。近々決めるものとする…この件は以上である!」
渠梁は正式に朝儀決定をみたので、ようやく胸を撫で降ろしている。虔兄上の方をチラッと見やると、兄も満更ではなさそうだった。
子巌も我が事の様に喜んでおり、子家の面目躍如といった満足感を覚えていた。彼は弟の秦初が貢献した事を全く疑っていない。弟が誇らしく想えて成らなかったのだ。
それでも黒龍は用心を重ねて、直ぐには次の議題に進もうとはしなかった。主君が議論に及ばず…そう言い切ったとはいえ、後から文句を垂れたりする輩が必ず居るものなので、わざとそうして間を置いて、発言する余地を残しているのだ。
これならば、後々文句を垂れても受け付けなくて済む。とどのつまりは、開かれた朝儀であり、意見を抑え込まない事を堂々とアピールしているのだった。
ここらが渠梁の頼む黒龍の老獪なところである。その竹を割った様な性格、そして白黒をハッキリさせ、曖昧を嫌う…黒龍のこの終始一貫とした態度が渠梁の補佐には向いていると云えた。
無論そんな事をしなくても、甘龍の最終決定を覆そうなどと考える、命知らずの貴族は今のところ居ないので、『満場一致』としてこの議決は可決された事に成るだろう。
ようやく黒龍は再び竹簡を広げて持つと、次の議題に移る事にした。
「さて…次の議題は秦国の改革についてであります。かつて我が国は穆公の時代に西戎と呼ばれた西の蛮族を平定し、時の周王より覇者に認定される程の富国強兵に成功しました…」
「…しかしながら、その穆公の死に殉じて多数の文武両官を失い、領国の経営も防衛も儘ならなくなって以降、国の根幹たる民は極貧に喘ぐ一方、内乱が続き、国は疲弊の一途をたどりました…」
「…先の献公様の御代にようやく殉死が廃止され、宗族・貴族両輪体制が確立されましたが、未だ富国強兵には程遠い状況です。我が君はそれを憂いて、即位される折に、国内外を問わず広く人材を求められました…」
「…この度、それに応えて入国して来た人材のうち、国内一円をつぶさに観て周り、その上で我が君に的確な改革案を示され、その指揮官として認められた御仁を御主君から御紹介して頂きます!我が君、ではお願い致します!」
「うむ…有り難う♪…諸君!我が国の現状を今、ザッと説明させたが、それでもこんなに憂いに満ちた状況である。詳しく述べれば切りが無いが、このまま現状に甘んじていると、向こう10年持つかどうか解らぬ…それだけは断言しよう!…」
「…諸君も老齢な者も居るとはいえ、まだ10年以上は生きて行かねば成らんだろう?それに自分達の事だけではあるまい。可愛い子供達が路頭に迷う事に成ってからでは遅いだろう?つまりはだ、今直ぐにでも改革に着手しなければ手遅れに成るという事だ…」
「…ここまでは理解出来たかね?もちろん将来、国が無くなる前に他国に逃れる…そういった愛国心の無い者の事は私は知らん!そんな考えしか持てぬ者は今直ぐにでも申し出て欲しい!直ぐに望みを叶えよう…土地と爵位を没収の上、亡命を認めてやろうでは無いか?…」
「…そんな御無体なというかも知れぬが、改革というのは犠牲が付き物だ!やり始めたらやり直しは効かぬ!挙国一致体制で臨まねば、成功はせぬだろう…そんな時に安穏とした暮らしがしたい者は、我が国には要らぬ!さっさと他国に逃げるが良いぞ!…」
「…但し、この改革に協力し、苦しみを伴に出来る者には、将来、秦国が富国強兵に成功した暁には、富や喜びを分かち合う権利が在ると約束しよう♪私はここに敢えて皆を試す様な物言いをした…だがこの改革にはそれだけの価値が在ると私は思っている…」
「…この渠梁を信じてついて来るか、見捨てて逃げるかは諸君ひとりひとりの決断に委ねる。この改革は必ず成功する!否、成功させねば成らんのだ!そうしなければ我が国には明日は無いと言えよう…」
「…そこら辺を念頭にいれて、この男の話を聞いて欲しい!私の前振りはここまで!私は議論の最中は口を挟まぬ所以、互いに忌憚の無い意見交換を期待しておる…では衛鞅、後は宜しく頼む♪」
渠梁はそう言うと、衛鞅を紹介した。それを受けて、衛鞅は立ち上がる。彼の瞳の奥には、確固たる決意の炎が煌めいていた。それはまるで、これから始まる、火花散る言葉の応酬に備えている様だった。




