御家再興
「「「「え~!!!!」」」」
想わぬ注目と視線を集めてしまった宿屋の御主人は、まるで魂が飛び出したんじゃないかと想えるほど、驚いている。髪の毛が逆立つか、目ん玉が飛び出るかという勢いである。
『何?!…車家の生き残りか?』と渠梁。
『え…誰々??』と景監。
『まさか…』と黒龍。
『……?』衛鞅はじっと秦初を観察している。
余りの注目に彼は視線を秦初にやって助けを求めて居る。言われた通り、頃合いをみて然り気無く扉の前に立ってみたが、想わぬ反響に完全にびびってしまっていた。
そして立って居るのが明らかに宿屋の主人だと判ると、今度は皆、一斉に秦初の方を見る。その中でウオッホンという咳払いの音が聞こえて、渠梁が尋ねた。
「秦初殿!彼が車家の生き残りだと言っている様に聞こえたが…それは確かかね?」
今や皆の注目の的となった秦初は、少し不遜だとは思ったが、一国の君主を軽く手で制すると、まず扉の前で固まってしまっている宿の御主人を手真似いた。
「遠くては話しも出来ない、そこの空いている席に掛けなさい。さぁ、早く!」
彼は秦初に乞われたため、気持ちを強く持って自分の目と鼻の先にある席に歩みを進めて収まる。収まったのはいいが、目の前には君主・渠梁が座っていて当然その視線は彼に注がれている。
「君主様!彼が車家の正当な跡取りであり、暗殺を逃れて生き残る事が出来た"車英"です♪」
秦初は淡々と皆にそう紹介した。
『そういう事だったのか…』
黒龍は今さらながらに表で観ていた光景を思い出す。秦初が趙良に命じたのは、車英に頃合いをみて来る様に伝える事だったのだろう。そして恐らく席が六脚用意される事も端から計算されていたという事だったのだ。
車英自身は、まさか自分が用意した席に座る事に成ろうとは想ってもみなかっただろうが、秦初は景監ならば人数分用意させざるを得無い事も予め判っていたというべきだろう。
少し注意すれば趙良は秦初の付き人に見えなくも無いが、彼らは初対面だし、そもそも景監にとっては秦初でさえ初対面なのだ。
無論、子規の三男だとは理解していようが、官職には付いていないのだから詳しい事は知るまい。こういった場合、必然的に席は確保しておくべきだろうから、景監の反応も正しかったといえる。
『さすがは秦初様…!しかし!あれがあの凛々しかった車英殿とはな…』
黒龍は車英を知っている。昔は献公様の使いで方々の貴族の館に出向いていたのだ。当然ながら車家にも何度も足を運んでいたし、小さい頃から車英には何度も会っていた。そう…あの事件が起こるまでは…。
『言われてみれば、確かに面影が残っている様な気がするな…しかしこいつぁ驚いた…さてこの後どうするのだ?』
黒龍は場の空気を俯瞰しながらそんな事を考えていた。自然と皆、秦初と主君のやり取りに視線を向けている。
驚いたのは渠梁も同様だった。そしてこの秦初という男のする事に驚嘆していた。
『これは何という好運なのだろう…否、しかしまだだ!』
彼には想うところがあった。先日、虔兄上より車家の再興については願いが出ていた。彼はその事をまだ鮮明に憶えている。ところが再興するにしても、その当主となるべき適当な人物が車家には居ないという問題があった。
さすがに女子供には手を出さなかった貴族達であるが、後継者と成るべき男子は事如く消されてしまっているので、渠梁も一旦、頓挫せざるを得なかった。ところが今、自分の目の前には、その目的に叶う人物が鎮座している。
そして、彼を驚嘆させた対象は何と言っても秦初であろう。彼はまさか秦初が車家の再興に尽力していたとは、想いも依らなかったので、さすがに偶然ではあろうが、このタイミングでその隠し玉を撃ち出して来たこの男に、驚きを隠せなかったと言うべきだろう。
しかしながら、ここで慌てる訳にもいかない。車家の再興は、先代の折りから何度も叫ばれて来たが、未だ実現していない。そしてこの目の前に居る男が本当に"あの車英"なのかもまだ疑しい部分はあったのである。
『まずは、そこからだな…』
渠梁はそう想い至ると、秦初に尋ねた。
「けして疑う訳では無いが、彼があの車英だと、どうして判るのかね?」
ハードルは高く無い。君主様は証明しろとは言っていない。
「ああ!…」
秦初は落ち着き払ったままで即答した。それを聞いて皆、慄然とする。
「簡単な事です。車英は私が逃がしました。それだけです!」
「「「なっ!!!」」」
この場で驚かないのは当時者の三人と、全く関係の無い衛鞅だけである。但しその衛鞅は「面白い!!」という具合に、この展開を愉しんでいる。
「逃がしたとはいったいどこに?彼は長い間、死んだと思われていたのだぞ!」
「ええ…そうでしょうね。私が車英と義兄弟の契りを結んでいた事は、皆知らぬ事でしょうが、彼とは昔から浅からぬ仲という奴でしてね、私が配下の趙良と…こいつですが、一緒に彼を恐われる前日の内にこっそり逃がしました。それ以来、彼は成人を無事迎えるまでは、国外に逃がれていたという訳です…」
「本当かね?」
渠梁は目の前に緊張しながら腰掛けている男に尋ねる。男はコクりと頷くと応えた。
「秦初様の仰せの通りです。長らく宿屋の主人として務めて参りましたが、ここらが潮時のようです!はい…私が車家の嫡男で"車英”で御座います。ここは元々、子家の土地だったそうですね!銀杏の木が植わっているでしょう?子巌様が私をここに迎えて、宿屋の主人として身を立てるようにして下さいました。かつての私は車家の嫡男として、父の無念を晴らすまでは、秦国内に残るつもりでおりました。母や妹たちの事も心配でしたし…でも、秦初様はこう言いました。必ず力に成るから、今は逃げよ!と…その御言葉通り子規様が身体を張って、一族を守って下さり、秦初様の言う通りにしておいて、 今は良かったと想っています。今回の事も、恐らくは私が秦初様に言った我儘から来ている事なのでしょう?"国に貢献出来ないのが辛い"…そう言ったものですから!誠に恐れ多い事で御座います…」
彼は長い時を噛み締める様にそう語り終えた。それを切々と聞いていた渠梁は、この男のある言葉を想い出していた。
宿に着いた時に何げなく彼が述べた日頃の感謝に、宿屋の主人は確かにこう言った。
『国に尽くすのは当然です…私はむしろ嬉しい…役に立てたのなら喜ばしい…』と!
『どうやら、この男が車英というのは間違いないようだ。しかし、まさか宿屋の主人に身を窶していたとはな…驚いた!だがこれで少なくとも人材は見つかったな…』
彼はホッと安堵の溜め息を漏らした。
「判った!信用しよう♪車英には、長い間苦労をかけた。もっと早く着手すべきであったが、この私の不得の致すところだ。実際、お前がここの主人として、宿泊所にて…我が国に多大な貢献をしてくれた事は間違いない。現にここにいる衛鞅も世話に成っており、何の不足も感じていないと言っておる。私は先程、お前に褒美を取らせると約束した。それを果たす!お前には本日、この時より車英として正式に車家の継承を許す。その土地として私の離宮を与える。なあに、気にするな!私は死ぬその日まで改革に打ち込むから、どうせのんびりとした余生は送れぬよ!土地は無駄に遊ばせておく物でも無いからな!この私の決意を知れば、古参の連中もきっと文句は言うまいよ♪再興など所詮、君主の威光で決められる事だからな!皆、そのつもりで!」
景監も黒龍も直ぐ様、「「ははぁ…」」と言って服礼する。衛鞅も感心そうな顔をして、君主様の栽定を眺めていた。そして車英の方をチラッと見つめながら、今一度、感心 頻りだった。
『この私の目さえ欺き、完全に成り切るとはな…真の采配だと、つい先程まで疑ってもみなかった。かなり出来る男だな!』
衛鞅は知らないが、車英には先生が付いていたのである。
「ブワックション!!」
その頃、夕げの支度をしていた魯粛は、突如鼻がこそばゆくなって、想わずくしゃみが出てしまった。
「う~ん、いかん!風邪でも引いたかな…」
彼は特に想いあたる節も無く、不思議そうな顔をしながら呟いていた。
秦初は嬉しそうに車英を見つめている。確かに瓢箪から駒であったが、結果オーライである。
只ひとつ懸念が無い訳でもなかった。車英の父親の"罪"は晴らされるのであろうか…。彼はその場の空気を壊す事は承知の上で口を出した。
水を注さないで済むのならば、その方が良いには違いないが、ここは重要な点だ。無論、車英も先程、その事に触れたのだから、支持してくれるに違いない。
「君主様!一つ懸念が御座います!車家の無実は晴れているのでしょうか?例え君主様の御威光とはいえ、罪が晴れていない御家継承は、御正道からは外れます。私はそこが心配なのです!」
この言葉に皆、当初は怪訝な顔を見せる。せっかくの御威光なのに、水を注す様な事を言わないでも…という重い空気が一瞬にしてその場を支配する。ところが、良く良く聴いてみると、確かにそうかも知れない…と今度は皆、一様に相槌を打ち、心配そうに渠梁を見つめた。
彼は自分に集った視線を、頷きながら受け止めている。これにはさすがの衛鞅も、皆と同様の趣である。そして肝心の車英も、張りつめた心が割れてしまいそうなくらい不安げに、君主の言葉を待った。
いよいよ運命の瞬間である。一度、右に振れた振り子の針は、再び左に戻ってしまうのだろうか?皆、その瞬間の言葉の重みを知っていたのだろう。 自然と上座に集ったその視線は、固定された様に、いよいよ熱を帯びてくる。
そんな重苦しい程の熱視線をじっと受けながら、この君主は全くと言って良い程に動じて居なかった。
「秦初殿!…」
やがてゆっくりと渠梁は口を開いた。秦初も注目している。
「…皆も聞いて欲しい。その事については彼の言う事はもっともな言い分だと思う。だが、私はここで心配ない!と敢えて断言しておく。」
渠梁はそう告げると優しげな瞳で車英を見つめた。それは恰かも『安心なさい!』と語り掛けているようだった。
「根拠は?根拠をお示し下さい!」
秦初も一歩も退かない。彼にとっては車英の運命は許より父・子規や兄・子巌の想いも引き受けて、ここに居るのだ。それに彼はあの時、車英と約束した。それは曲げられない。彼にはそれだけの気迫が満ちていた。
渠梁もその想いをしっかりと受け止めようと、おおらかな姿勢で包み込んでくれているようだ。彼はすぐに根拠を示した。
「実はな…御主であれば、ここまでは既に掴んでいようが、先君はもしかすると、自分の寿命というものを理解していたのかも知れぬ…魏国との戦に出る前に甘龍に書簡を渡して、車家の再興を指示していたのだ!」
「ええ…それは兄の子巌が調べた結果として、聞いております…」
「ほぉ~さすがは我が剣よ!そこまでは掴んでおったか…では話しが早い!」
「しかしながら、疑問も御座います!なぜ先君は父・子規にではなく、甘龍に頼んだのですか?そして君主様はどうして…」
「何もしてくれなかったのか…そうであろう?」
「左様です!それに事実をどうやって知り得たのですか?」
「それはな…私がその時、その場に居たからだ。そして二人の話しを聞いていたのだ…」
渠梁はそう応えた。その瞬間、黒龍だけは、『ああ!…』と心の中で反芻していたのである。
『そうだったのか…想い出した!私もあの時、あの場に居た。しかしながら、私と渠梁様は少し離れていたし、私は渠染様の相手をしていたから、詳しい事は耳にしていない…それを我が君はしっかりと耳にしていたのか…こいつは驚いた!』
黒龍は少なからず感心した様に主君を見守っている。
「黒龍!お前も居たな、が!しかしお前はたぶん聞いていなかっただろう…遠かったからな。私も父から予め、耳を傍立てているよう命じられていなければ、聞いていなかっただろう。まあ、父は証人として存在させれば事足りる、と考えている節もあったしな!要は甘龍に圧力を掛けられれば良かったのだ!…話しを元に戻そう。父が子規に頼まなかったのは、子規が既に車家に肩入れしていたからだ。他の貴族達に公正に欠けると思われては、話は進まない。只それだけの理由だった。他意は無い。そこで貴族達に影響力のある甘龍に、敢えて白羽の矢を立てたという訳だ!これで貴方の問いの答えになるだろうか?」
「ええ…ですがまだ不明な点は在ります!」
「そうだったな…これは車英にはすまない事だったが、父はそれ以上は私に求めなかった。そして甘龍がそれを履行する気が無いとは、その当時の私は、思わなかったのだ。まだ若かった所以な…まぁ、しかし貴方は私よりも年端がいかぬ身でありながら、車英を逃がしていた訳だから、言い訳には成らぬな…そういった訳で、私はそれからつい昨日までは、この事を忘れていたのだ。実に申し訳ない事をしたと思っている。許して欲しい…」
渠梁は車英に深々と頭を下げている。車英は恐縮してしまっていた。
「実はな…昨日、兄・虔よりも車家再興の依頼を受けたのだ。私は承諾した。だが、跡継ぎの件で頭を悩ませる余り、今の話しを思い出すのに時間が掛かった。心配ない…車英の父は無実である。父が何を根拠にそう言ったのかは未だ判らぬ…但し、無実であった事は、甘龍も認めている。その時、彼自身がそう言っていたからだ。だが父が戦死し、私も黒龍も、いつまでたってもその事に触れてこない。奴は…甘龍はこれ幸いと指示を守らなかったのだろう。彼にしてみれば、敵対するだろう勢力を、わざわざ再興してやる事も無いだろうからな…。そう言った訳で、私の今回の再興に奴は口を挟んでこないだろう。もし仮に言ってきたら、私が証人だと言うまでである。彼も自分を支持する貴族達の前で、恥は掻きたく無いだろうから、きっと何も言うまいよ!元々は自分がしなければ成らない命令を、放置したのだからな!どうかね?これで私が心配ないと言った理由を判ってくれたで在ろう…」
渠梁の説明は筋が通っていた。そして明瞭な解決策と言えた。秦初は頭を下げて、「恐れ入りました!」と感謝の言葉を姿勢で示した。
こうして、車英は車家を継いで、念願の再興を果たし、汚名を雪ぐ事になった。これも全ては英邁なる君主と、二人の男の交わした約束が、守られた為であったのだ。




