待ち人来る
その頃、渠梁は衛鞅の部屋に通されて、面会に及んでいた。景監は入口の傍で控えている。
「有り難う…御主人にはいつも世話をかけるな♪今回の事でも良く宿泊所を引き受けてくれて、しっかりと勤めてくれた。いずれ私から何かしらの気持ちをさせて貰おう♪」
「いえいえ国に尽くすのは当然ですから、お気になさらずに!君主様!私はむしろ嬉しいのですよ♪私の様な者でも何らかのお役に立てたならば、却って喜ばしい限りです♪」
宿の主人はそう言うとお酒とお茶を置いて引き揚げる。景監もその際に軽く会釈を返した。
「どうやら過分無く過ごせているようだな?」
「ええ…お陰さまで!とても彼が気を配って下さるので、何も不足は在りません。落ち着いたら、私からも何かお礼をしてやりたいと思っております!」
「そうだな!実際、かなり助けて貰って助かっているからな…」
二人が水入らずで対面するのは、久し振りの事である。
草案創作時には何日も一緒に頭をつつき合わせたものだが、それが落ち着いてからは、渠梁は段取りや根回しで東奔西走していたし、衛鞅はその時を辛抱強く待ちながら、次の草案を練ったりしていたので、なかなか会う機会も無かったのである。
「それで君主様…直々のお運びとは、もしやいよいよですか?」
衛鞅は相変わらず落ち着いてはいるが、期するところがある様に心は踊っていた。
「そうだ!喜んでくれ、いよいよ動き出せるぞ♪我らの改革が遂に端緒に立てる時が来たのだ!」
渠梁も感慨深い。ここまで到達するのにかなり準備が必要だった。そして彼の国を憂う気持ちをようやく晴らせる機会が訪れたと言っても過言では無かった。彼はその想いを彼と共有したかったのである。
「そうですか…いよいよ叶うのですね!」
衛鞅も勿論、深い感慨はあるが、彼の場合は少々受け止め方が違う。まだ何も始まって居らず、これからの改革が軌道に乗るかどうかは彼の手腕に掛かっているからだった。
彼は想わず武者震いをした。そして彼に取ってそれは新鮮な驚きだった。今まで…何でも冷静に、落ち着いてこなして来た自分が震えている。それは彼にも判っていた。この改革の是非が彼の一挙手一投足に掛かっていると断言しても過言では無かったからである。
「そこでだ!御主には左庶長と為って貰う。身分としてはまだまだ低いが、この改革が成功した暁にはその功績に過分の無い身分と成れよう。任命式の予定もほぼ固まった…」
そこで渠梁は間を置く。少し何か期するものがあるようだ。彼は少なからず言い澱む様に口に出す。
「…そこでだ!御主には最後の喚問に通って貰わねば成らぬ…」
渠梁はそう念ずる様に言い切った。
「喚問とは?今さら臆する事もありません。何でも言って下さい!」
衛鞅もそう易々と地位が手に入るとは思っていない。自分の信念のままに、はっきりと口に出した。渠梁もその言葉に安堵の色を見せた。これならば大丈夫だろう。彼は衛鞅のみせた気概を受けて言葉を継いだ。
「明後日に朝議を参集する。そこには秦国の御歴々が国中から集って来る。ここで彼らに対峙して貰い、御主の信念を披露して欲しい。これは言わばガス抜きの様なものだ。色々な意見を持つ者が世には 数多居る。我が秦国の政治を担う者達もけして例外では無い。否、むしろその傾向が強いとさえ言えるかも知れんな!彼らには自由に発言させる事になるから、それを事如く論破して貰わねばならないだろう…どうだ!やれるかね?」
衛鞅は粛々とその言葉を聞き、受け留める。
『成る程…最後の喚問とはそういう事か!この国の根源を担って来た貴族達の気持ちも無視出来無い…ここで意見を闘わせた上で、一旦同じ方向を向かせる事、恐らく君主様が望んでおられるのは、そう言う事なのだろう。確かに改革に当たっては、皆が方向性を一つにする事が肝要ではあるからな…』
彼もそう感じていたので返事は決まっていた。
「やりましょう!私のこの改革に賭ける想いが、どれ程のものか、彼らにも知らしめねばなりません。今、ここで大切な事は、君主様と私が考えたこの国の未来を体現するにあたり、重要な事は決してぶれない心です。私はそれを念頭に事を進めようと思っております!」
「良くぞ申した!私は生憎と公平な立場を取らねば成らないから、助け舟は出してやれぬ。ここは貴方にとっての正念場となろう!今の言葉を聞いていて安心したぞ。宜しく頼む!」
「いえ、我が君!正念場などまたまだこれから先の事です。これしきの事で躊躇しているようでは、改革などとても進める事など出来ましょうや?ご安心下さい。必ず果たして見せましょうぞ!」
衛鞅は毅然とした態度を貫く姿勢でそれに応じたので、渠梁は頼もしい眼差しを浮かべている。そんな二人の改革に賭ける想いを目の当たりにして、景監は不覚にも目に涙を溜める。
彼らがこの時を迎えるまでに、どれだけの苦労をして来たのか…実際に見てきた彼だからこそだろう。彼はこの瞬間を感無量で眺めながら、涙を拭った。
「そうだ!改めて紹介しておこう、景監は知っているな?こいつをこの度の功績により、左庶長府の首席書記官に認じようと思っている。景監ご挨拶せよ!」
渠梁は手を振ると、入口そばに控えていた景監を呼び寄せた。彼は、一旦落ち着くように、足許を見つめていたが、決意した様にその第一歩を踏み出した。
「衛鞅様、御無沙汰しておりました。この度、縁在って改革の一如を担う事になりました。今後とも宜しくお願い致します!」
景監は少々緊張感を感じさせる挨拶となったが、渠梁はその振る舞いを眺めていて、とても頼もしく感じていた。
『その気概たるや良し!』
そう言った感じである。衛鞅もそれには同感らしい。早速、彼の挨拶に対して返礼を行った。
「景監殿、こちらこそ宜しく!貴方には、それはそれは迷惑ばかりかけてしまい、申し訳なかった。貴方が辛抱強く私のやり方に付き合って下さったからこそ、私の今が在るのだと思っています。貴方の辛抱強さと、正義感と、我が君を想う気持ちさえあれば、必ずや改革の助けに成ると信じております。私の方こそ、今後とも宜しくお願いしたいと節に願う次第です!」
景監も衛鞅の立派な口上を聞いている内に、想わず 武者震いが起きて来ていた。いよいよ現実味を感じているのだろう、震えが停まらない。
景監は拳を力強く握り込んでそれに耐えていた。こうして、二人の対面も無事に済み、景監の引き合わせも終わり、その場はうってかわった様な、和やかさに包まれる。
「どうだ!ここでひとつ決意の乾杯といこうではないか?皆、杯を持ちなさい♪」
景監も衛鞅もその掛け声に応じて杯を持つ。そこに渠梁自らが酒を注いでくれる。
「では改革の成功に!!」
彼のこの一言は、平穏無事な生活への別離でもあった。これから訪れるであろう幾多の苦難をその都度乗り込えて行き、改革を定着させるまで必死に走り切らねば成らない。彼らは皆、その事を判っていた。
「「「乾杯!!!」」」
その瞬間に改革の息吹が聞こえたように、男達は感じていた。賽は投げられたのである。もう後戻りは出来なかった。
「ところで…」
渠梁はいみじくも必要だと言わんばかりに口をつく。
「私はここで、さる人物と会わなくては成らん…この先、我々に寄与するかどうかは、話してみなければ判らぬが、こんな機会はまたと無いのでな…良ければ皆にも同席してもらいたいが…」
「それは構いませんが、先方の御意向もございましょう。それで良ければ、私は一向に構いませぬ!」
衛鞅の言い分ももっともだった。あちらがそれを望まぬ場合も有り得る。
「もしかして…車中で我が君が呼び掛けたあの男で御座いますか?確か秦初…殿?」
「そうだ!あの男だ。あれは景監、お前も聞いていた通り、子規様の三男でな…非常に優秀だが謎多き男よ!」
「ああ!」
景監も渠梁のその発言を受けてようやく思い出す。子規が銀杏屋敷で披露したそれは子息の紹介と分析であった。
「その男なら、知っております!」
今度は衛鞅であった。渠梁は想わず彼を振り返り、驚くような顔をしている。それはそうだ、自分はようやくの事で会う手筈となったのに、既に衛鞅は知っているというのだから…。
衛鞅はその時の事をかいつまんで語って聞かせた。但し、白雪の事は意識的に伏せた。さすがに自分の恋愛事情を如実にさらけ出せない。これはあくまでも個人的な部類に入る事だった。
だから、秦初がわざわざ衛鞅のところに来た目的は当然の事ながらぶれた。けれどもそれは仕方無い事だろう…実際、秦初が来た目的は、彼に白雪の言葉を伝えるためであったのだから…。
これでは、渠梁が多少の誤解を生じさせても当然である。
『ほほう…秦初殿はわざわざ衛鞅殿に会うために、戻って来られていたのか…そしてこの私にも面会したいという。余程、改革に関心がお有りのご様子、もしかしたら力になってくれるかも知れんな…』
大いなる誤解ではあるが、やむを得ない。衛鞅もこれ以上、踏み込んだ説明は避けた。
『成る様に成るだろう…』
これが彼の正直な心情と言えた。
「景監!悪いが表に行って、声を掛けて来てくれぬか?その時、先方の都合を聞いてやって欲しい…」
「承知しました!行ってまいります♪」
景監はさっそく退出すると、その足で表に出る。まだ少し肌寒いが、今日は陽射しの恩恵を受けて空気も穏かだった。
庭では日当たりの比較的良さそうな場所に陣取って、秦初と黒龍が夢中に話しに興じていた。その傍らには、彼らの話に混じらぬよう、気配りをした趙良が佇んでいる。
景監はやや緊張した面持ちながら、そこはなるべく固くならぬように気をつけて、声を掛けた。
「失礼致します!私は我が君の侍従で景監と申します。一つ御相談があるのですが…」
彼は生真面目さを最大限発揮して尋ねる。
「貴方が景監殿ですか…黒龍殿から噂はかねがね耳にしております♪この度は御出世されるとか!楽しみですね?」
「いや、何…それなりに厳しいポストですが、やり甲斐は感じております。さっきから正直、武者震いでして、手がほれ、こんな感じです!」
景監はついつい余計な物まで見せてしまう。秦初が見てみると、彼の手の平は汗でぐっしょりと滲んでいた。
横に居た黒龍は想わず手を顔に当てて、瓜弾く。ところが秦初は苦笑するでもなく、真険に付き合ってやっている。
「おや…本当ですね、これは大変だな!景監殿、肩の力をお抜き下さい。私など居候の三男坊に過ぎませんからね!只、今日はどうしても君主様にお願いの儀これありまして、罷り越しました。どうも改革の大事な時期というのに、全く関係の無い話しを持ち込みまして、申し訳ありません!」
彼は飄々とした物言いをする。景監は『おやっ?』という顔をした。先程、中で聞いていた話しとは、かなりの温度差を感じたためであった。
「失礼ですが…秦初様の御用件とは改革の件では無いのですか?」
「ええ…全く!でも我が国にとっては、とても重要な事柄ですから、お聞きになって損はさせないとお約束致しましょう!」
彼はなるべく自信有り気にそう伝えた。車英のためにはここが正念場だった。




