本領を発揮する
「では行って来ますので、後は宜しく!安城やりますのでご心配無く…」
魯粛はそう言うと、いつもの風体では無くなっていた。顔は違うし、服装は勿論、喋り方さえも変わっている。只ひとつ判るのは、彼が"この家"から出て行った事で在った。
この母屋から堂々と出て行けるのは、我ら三人しか居ないのだから、差し引き魯粛本人という事に成る。秦初と趙良はひたすらたまげるしか無かった。さすがは魯粛というべきだろう。
「うわっ!すげ~変わりよう…」
と秦初。
「兄貴ですよね?外で会ったらわかりませんね…」
と趙良が唸る。
魯粛は出掛けてしまった。後に残された二人は当面、待機を約束させられたのだから、当然の事ながら暇になる。但し、前述の通り、秦初は無聊を託つ事は苦手なのだ!そういった意味では魯粛の秦初を観る目は正しかった。
趙良は秦初を見つめながら、ヤバい雰囲気だと既に察している。彼も只、悪戯に長年付き従っている訳では無い。兄貴のいう事などは、端から承知している。だから趙良としても余りこの主人から離れたくは無い。というか離れたら何をしでかすか判らないので、不安が一杯だ!
秦初はそのあからさまな態度が肌身に感じるから、鬱陶しい。もう少し、顔や態度に出さない努力が出来ないものかと想うのだ。俺は歩く爆弾かい?…そう思うくらいそれは判りやすいので辟易する。趙良の生真面目さが醸し出されたエピソードである。
『もう少し大人に成れないもんかねぇ…』
いみじくも二人は同じ言葉を思い浮かべる。秦初は趙良にもう少し魯粛の様に大人の機微を心得て欲しいと思っているし、かたやの趙良は主君に泰然自若の精神で少しの我慢を求めている。
深謀遠慮が有り、英邁闊達なこの主君が、どうして一時の暇を託つ事くらい出来ないのだろう。髀肉之嘆程の長期間の辛抱の上なら理解も出来ようが、たかだか数日の事では無いか?…趙良はそう想うのだ。
一方の秦初にも言い分はある。彼は謂わば海原を行く大魚の様な物であり、泳ぐ事を止めてしまえば、生きている存在価値を見失ってしまうのだ。勿論、人の身体は休めなければ死んでしまうから、彼も寝る間を惜しんでいる訳では無い。只、身体を持て余すのは好きではなかった。
趙良はひとつ良いアイデアを思いつくが、その途端に辞めた。これは不味い…そう思ったからだ!御存知の様に、趙良には喬燕という恋人がいる。生真面目な彼は短絡的に、主君も好きな人と過ごす時間が在れば、少しは落ち着くかも!と一瞬、思ったのだ。
しかしながら、直ぐに思い直したのは、聞いた話では、蘭玉という人が櫟陽宮に住まう公主であったからだった。今問題なのは、主君を櫟陽宮に近づける言質を絶対に与えては成らないという事だ。そんな事をすれば、魯粛に殺され兼ねない。
勿論それは大袈裟な方便であるが、要はミイラ取りがミイラになっては不味いという事である。只でさえ、主君の言う事を鵜呑みにして、直ぐに放置すると怒られたばかりなのに、今度は一緒に成って猪突猛進した等と揶揄されるに決まっているからだ。
『貴方達は、主従揃いも揃って無知蒙昧なのか!』
魯粛の兄貴なら絶対それくらい言いそうだった。しかも、この場合変に絡むと潜入している魯粛にも影響が及ぶ可能性も在るので、趙良はそれは駄目だと被りを振って言を避けた。
何を考えている事やら…秦初は生真面目君が自分を抑え込むための方法を一生懸命考えているのが如実に判って、嘆息した。何て判りやすい奴なんだ…とひとりで苦笑いしている。
『仕方ない…私が方針を決めればこいつも安心するだろう(*´▽`)♪』
彼は早速、態度で示す事にした。
「趙良、私はこれから衛鞅殿に逢いに行く。それならここから目と鼻の先だ…構わんだろう?」
趙良は主君がまたまた出掛ける口実を求めていると知り、嘆息する。本当にじっとしていない人だ。まぁしかしながら、確かにご近所では在るし、縛りつけておけないならば、せめて安全を伴う場所の方が良い。
但し、先方さんが快く受け入れてくれるかは定かでは無い。確かに衛鞅殿も今は任命待ちの身であるから、暇では在ろうが、確かその間にもゆくゆくの法律制定を考えていらっしゃると言っていた筈だが?
それを教えてくれた主君が知らぬ筈は無いだろうに、何でまたお邪魔する必要があるのか理解には苦しむ。
「若君!何ぞ用が在るのでしょうか?さすがに貴方の暇つぶしでは、相手が迷惑ですぞ…」
「(^。^;)暇つぶしとは失礼な!それは建前だ!判らぬか?私が実際に逢いに行くのは車英だよ♪衛鞅殿はあくまで出汁だ、そういう事だからお前も来い!」
「判りました…でも離れませんからね♪」
「構わんぞ!」
そういう事情でけっきょく秦初に圧し切られた趙良は同行する事になった。二人は変装したまま、魯粛の庵を出ると、坂道を歩いて車英の宿に向かった。
そんな事とは露知らない魯粛は、いよいよ潜入のために櫟陽宮に向かった。その端緒はまず買蔣に逢う事である。彼ひとりで櫟陽宮に入る事は簡単だ。勝手に塀を乗り越えれば、それは叶う。
しかしながら、それでは買蔣に内密に逢わねば成らず、面倒臭い。そこで彼が考えた作戦とは、買蔣が必ずお使いに出る先で彼に接触する事であった。買蔣は午前中は必ず茶葉の調達に行く。勿論、毎日ではないが、ここの所、雪のために外出は控えていたで在ろうから、今日辺りは可能性が高かった。
但し、逢えなければ明日にすれば良いくらいの感覚である。彼が今日で決着させる訳ではないと言ったのはそういう意味も在った。買蔣に逢えなければ、違う手をまた考えねば成らないが、これが一番の安全策と云えたから何度か試す価値はある。
この茶屋は櫟陽宮の側に在るのだが、どちらかというと大后様のお住まいからの方が近いので、その近くの門から出る可能性が高い。という事は帰りも当然、その門から入るだろう。
あそこの門兵は割りと宗主関係者の出入りにはうるさくない。現に魯粛も買蔣と一緒に何度か入った事が在ったのだ。魯粛の計算はそこら辺からきている。但し、絶対条件として買蔣の協力が不可欠であったのだ。
魯粛は変装しているのに、これで逢っていいのかって?当然彼は日頃、買蔣に逢う恰好で出掛けている。そう…彼は今は魯粛では無い。またの名を子敬と名乗っている。
彼の存在を認知しているのは子敬としては買蔣だけであった。但し、ここに彼の正体を知っている人がひとりだけいるのだが、それは後程明らかになるので、ここでは割愛する。
え?ならその人に頼めば早いのでは?という疑問も生まれるが、その人はなかなかに忙しい人で簡単に逢えるものでもなかった。勿論その人の方が確実である事は確かであるが…。
茶屋に向かうため、角を曲がると何と都合のいい事か…お目当てさんが前方を歩いているではないか?こんな偶然在るんだな…魯粛はそう想うと、早歩きになる。そりゃあそうだ!こんな機会はまたと無いのだから逃す訳にはいかなかった。
「おい買蔣!」
魯粛はそう呼び掛けながら肩を叩く。買蔣は不意をつかれて少し驚きながら振り向くと知った顔なのでホッとしたようだ。
単なるお使いではあるが、彼らが宮殿から出る事は、稀であるから自分の身は自分で守らなければ成らない。無論、危険な場所では無いから、ひとりで出歩けるのだが、無用な接触も避けねばならなかった。
「なんだ~子敬か!脅かすなよ♪かなりびっくりしたぞ!」
買蔣は少々大袈裟な物言いをする。彼は気が小さい。というよりは腕に覚えが無いので、必然的にそう成るのだろう。ある意味当たり前の反応である。
「逢えて良かったぞ♪少し話せないか?君に用があるんだけど…」
「あぁ、それなら少し待っててくれないか?茶葉を買い込まなきゃ成らん!」
「勿論!待つさ♪」
そんな訳で、嫌にあっさりと約束出来る。買蔣は彼が恩人であり、身許もはっきりしているので疑う事は無かった。買蔣は茶屋の店頭で店の支配人と話をしている。そして少しの茶葉を手に入れると懐に大事そうにいれた。
「後は明日でも届けてくれればいいから♪」
「へい!わかりやした♪」
てな感じで比較的直ぐに身体が空いたので、子敬の許に駆け寄って来た。
「で!なんだい?」
買蔣は単刀直入に聞く。彼にしてみれば茶屋にお使いに行くだけだから、余り長居も出来ないのだった。魯粛もそれは重々承知の上だから、直ぐに応える。
「歩きながら話そう…」
子敬はそう言うと、連れ立って歩き出す。誰かに聞かれない為には、成るべく宮殿に戻りながら、話をした方が都合が良い。
「君は僕の主君を知っているだろう?」
「ああ…あのやんごとなき御方だよね?」
「そうだ!その方が君主様と大后様にお逢いたがっているのだが、黒龍殿にでも頼んで橋渡しをして貰いたいと言ったら出来るかい?」
「ああ…それは勿論、構わないが、という事はあの方は秦国に帰って来られたんだね?」
「ああそうだ!」
「了解した!でも今日は都合が悪い。おい、まさか 今日じゃないよな?」
買蔣の顔は明らかに渋くなる。子敬は溜め息をつくと頷く。
「そうだよな!確かに性急過ぎるよな…判った!でもその話しは内々に進めてくれないか?頼む!」
子敬は頭を下げた。
「それは勿論!直ぐに黒龍様にも、ああ…それも今日は駄目だから、明日以降だな…」
「今日って何かあるのか?」
買蔣がやたらと"今日は駄目"を連発するので、子敬は気になる。この際だから、気になっている事は聞いておくに限る。何かの手立ての一如になるかも知れない。
買蔣は相手が子敬だから、まぁいっか…と少し考えた末に教えてくれた。
「今日は君主様と大后様はそれぞれ予定が入っている。とどのつまりはお出掛けされるのさ!僕は予定に入っていないので、ここに居られるが、黒龍様は君主様と共に出掛けられる。恐らく景監様もご一緒だろう。そして大后様も蘭玉様を伴って出掛けられるのだ。だから、今日はまずいのさ!」
成る程…そりゃあ確かにそうだ。目的の人がいないのなら仕方がない。子敬は今日は断念して、出直す事にした。
「それはそうと…いや何でもない!」
子敬がそう言うと、買蔣はキョトンとした顔で尋ねる仕草をする。彼は宮殿の中に潜む間諜の存在が気になっているので、何か助言を貰おうとしたのだが、君主様付の彼には難しかろうと考え止めたのだ。
魯粛は、間謀がいるなら、大后様か或いは、太子様の辺りだろうと考えている。となると買蔣では難しいとの判断だった。すると、買蔣が急に妙な事を言い出した。
「あの方が来る時には、接見場所は考えないといけないから、黒龍様に相談してみるが、どうも最近おかしな動きをしている女官がいるから、来る際には十分注意してくれ!出来れば少し地味にして貰えると助かる。あの方は見た目からして派手だろう?」
魯粛は苦笑した。主君よりも買蔣の方が余程、常識的だと思ったのだ。さすがに伊達に黒龍殿に教育されている訳ではない。
「ああ…それなら良く釘を刺してあるから心配ない。ところでその女官とはどんな人物だ?」
「ああ…これは偶然見つけたのだけどね…」
買蔣は話し始めた。
「昨日、たまたま見掛けただけなんだけどね…宮殿の裏でその女官が、左司空の杜摯様と話してるのを見掛けたんだ。勿論、慌てて隠れたから見つかってはいないけど、実はその時だけじゃない事に気づいたんだ!」
彼の話しだと、たまたま一回だけなら偶然もあるが、二ヶ月前に一度、半年前にも一度見ているという。但し、ゴシップ好きの宮内にしては、そんな話は出ていないから噂にはなっていないそうだ。
自分の見立てでは、杜摯様とのただ成らぬ関係なのかも知れないと、念のため黒龍様にだけは相談したのだが、黙っている様に釘を刺されてしまったとの事だった。
「そうか…で黒龍殿の見立ては聞いたのかい?」
魯粛は間諜の存在を既に黒龍が気づいている事に取り敢えず安堵していた。恐らく近々にでも対処するのに違いない。ところが買蔣の反応はそうではなかった。
「ううん…何もしないって!しばらく放っておけって事だった。黒龍様が何れなんとかするから、お前は係わるな!知らぬ振りをしておけってさ!」
そうこうしている間に、宮殿の門に辿り着いてしまった。
「じゃあね!久し振りに子敬に会えて楽しかったよ、つなぎは黒龍様の手の者が伝えに行くと思う。またね!」
そういうと、彼は門の方へと走り去ってしまった。魯粛はさりげなく、踵を返すと、元来た道を戻り始めた。無論、尾行には気を配っている。彼は考え込んでいた。
『黒龍殿が何もしない、放っておけと指示したとすれば、彼は恐らく女官を見張らせつつ、泳がせるつもりなのだろう…。慎重な黒龍殿の事だ。他にも仲間が居ないかどうか、この際、焙り出すつもりなのだろうな…?」
彼はそう思いながら、今一度、背後の気配を窺う。幸いな事に尾行は無い様だ。当初、彼は宮殿内に潜り込む予定だったが、全て今の動きで済んでしまった。
面会予定は取りつけて、先方が内々に連絡をくれるし、間謀の件も片づいたも同然だ。要は面会に当たって先方がその存在を遠ざけてくれさえすれば、何の問題も無くなる。
彼は想わぬ偶然が重なり、無事に目的が果たされた事に満足していた。帰って若君に報告するのが愉しみだと、気分は軽やかだった。




