とある出来事
その日、魯粛は渭水に船を浮かべて漁に心血を注いでいた。当時の彼は【貴】印研究所の補償を受ける事が出来る様に為った事で、秦国の櫟陽に来て宿屋兼漁師を営み始めたばかりだった。
渭水は黄河の支流なので、黄土が潤す天然の恵みに依り、ミネラル分が豊富なので、良質の微生物を主食とする小魚が集まって来るから、その小魚を狙う魚たちも必然的に集まり、調和のある見事な食物連鎖を形成している。
渭水は櫟陽に近く、朝取れ立ての魚を朝市に持ち込むにはとても都合が良かったし、宿で捌いて客に出したり、自分の食い扶持に充てたりしていた。
「今朝は妙に引きが良いな…」
余りの調子の良さに彼は想わずそう呟いた。彼も勿論、漁師であるから捕獲用の網は持っているが釣り糸を垂れて釣るのも悪くない。特に今朝の様に引きが良い日は尚更だった。
食いついちゃあ引き、食いついちゃあ引き上げしている間に、二つも持ってきた魚籠が満杯に為ったので、櫓を漕ぎ、岸辺に戻って来る。
桟橋などという気の利いた物を使おうとすると、渡し船の邪魔になるし、それに帰り道が倍以上長くなるので、彼は舫い綱を岸辺の大木に括りつけて、魚籠を担ぐ。
担ぐといっても直接持つのじゃあ重いから、彼は必ず天秤棒を持参して来て、その両端に魚籠を縛りつけてから担いで運ぶ。だから魚籠は二つという訳だった。
彼は舫い綱を繋ぎ終わった船の上に魚籠を乗せて、ちょうど岸辺に背を向けた形で、それを一生懸命天秤棒に縛りつけて、担ぐ準備をしている時だった。彼は背後から不意に声を掛けられた。
「どうだい?よく釣れるかい?」
彼は一瞬固まったが、直後に両肩をビクッとさせると、慌てた様に振り向いた。相手は彼が相当泡を食った顔をしているものだから、然も可笑しそうに笑いながら、謝った。
「ごめんごめん!驚かせちゃったかな?」
男は頭に手を持っていって清々しい笑顔でこちらを見ている。背は高くすらっとしていて、衣類はきちんとした物を着ているから屋敷住まいなのは確かだろう。
が!折角の上衣をわざわざ両肩の所で切断してあり、その肩口から袖口までを見ると、素人観でも判る程、筋肉が発達している。
そしてその腰回りも、キルトの様な腰巻きで覆っているのでハッキリとは確認出来ないが、足の筋肉も発達しているのではないかと想えた。
魯粛は見た目や言葉尻に騙される程、経験が浅くないので、この男から直ぐに血の臭いを嗅ぎつけた。相当な人数を殺めている筈だ。但し、時は戦国時代である。戦争で殺した物かも知れない。
彼自身も人を殺めた事がない訳ではないが、腐臭を感じさせる程の血の臭いは久しく嗅いでいない。この男はごく最近まで戦場に居たか、或いは刺客か…魯粛はそう当たりをつけた。
「だんなも釣りに興味があるんですかい?それともこの"獲物"ですかね?」
魯粛はちょっと危険かも知れないが、わざと"獲物"という言葉を使って反応を観る。けれども彼は特に不自然な反応は見せない。
『手馴れているのか…或いは只の戦争帰りか?』
男は特に怪しんだ素振りも見せず、ニコニコしながら魯粛と言葉を交わす。
「どっちもかな?釣りはよくアムール川でやったのさ♪俺っちは手で鷲掴みも出来るぜ!魚は焚き火で焼くか、身を擦り潰して団子にしても旨いよな?どうかな、良ければ魚を分けてくれないかな?」
「そらぁ構わないですが…たまたま今朝は引きが良くてね♪まさに芋づる式に釣れましたから大漁です!で、旦那どのくらい欲しいんです?」
「芋づる式とは、威勢がいいな!そうだな…物にも依るが、気に入ったら全部引き取っても良い!良ければ見せてくれないかな?」
「そらぁ構わないですとも!喜んで♪」
魯粛は縛り終えていた魚籠をわざわざ親切にも外して、魚籠の紐もほぐしてやり、二つの魚籠の中身を丹念に検分させてやった。
男は魚を依りながら、嬉しそうに見ている。それだけ見ていると、まるで屈託が無く、時に子供の様に好奇心旺盛な、可愛らしい表情さえ見せた。
「おぅ~花鰱があるのかこれは良い、白鰱もあるぞ♪おやおや!鯉に鮒かぁ、鯰もいるね♪困ったなぁ、こりゃあ悩むね…どうしようかなぁ♪」
花鰱は中国特有の魚である。体色に黒みがあり、全身に黒い雲状の斑紋が広がっている。魚火鍋にすると旨い。白鰱は鱗が細かく体色は白銀である。頭が大きく眼は顔の下の方に付いている。性格はせっかちで白波を立てて飛び跳ねる習性があるらしい。小骨が多いが食感が柔らかいのが特徴だ。
彼は座り込みながら、魚籠の中を突っつき廻し、時折、実物を両手に取りながら首を捻り、真剣に吟味している。見ていて何か微笑ましい。魯粛は想わずクククッと笑いが込み上げる。
「何だ♪真剣に悩んでちゃあ、悪いかい!俺は魚には目がないんだ♪無論、肉も食うよ…体力が資本だからね!でも口に合うのは魚なのさ♪何しろ、お前さんに言うのは憚れるが、俺も元は漁師なのさ!見えないがね♪」
「へえ~そうなのかい?私はどちらかと言うと、虎刈りでもしそうに見えたけどな…まぁ人は見た目じゃあ判らないからな…然も在らん!」
魯粛は然り気無く、核心に触れる様な事をいう。勿論、警戒はしているが、警戒し過ぎても、この手の男には逆効果だ。下手に勘ぐる様な事を言わない様に用心するのも大事な事の様に思えるが、実際には、辺り障り無く、言葉にする方が却って疑惑を招き難い。
含むところが在れば、そんな話題には触れないものだ…という相手の気持ちを逆手に取って返した逆転の発想である。疑わしい事を時折、わざと混ぜる事で相手の反応も観れるし、一石二鳥なのである。
案の定、彼は一瞬、ピタッと身体を硬直させた様に止めた。勿論、ほんの刹那の事である。魯粛ほどの男で無ければ気がつかぬくらいの微細な反応である。けれども、彼は直ぐに我に返るとゲタゲタと笑い出した。
「そりゃあそうだよな!こんな格好してりゃあ、そう言われても仕方ない。高貴な生活に慣れようとはしているんだが、お里は知れる者だな…いやぁさすがは日頃から魚と駆け引きしているお兄いさんだ!目の付け所が違う…まぁ俺様といい勝負だな!」
『…?…?』
魯粛はその言葉に一瞬戦慄を覚えた。何しろ自分も彼も極端に武力に秀でた男同士である事はもはや疑うべくも無いのだ。但し、彼の想像はやがて杞憂に過ぎない事が判った。
相手の男の言葉が、単に漁師としての機微に通ずるという意味合いだと確信したからだった。それに魯粛は彼自身が常に身体の奥に秘めた猛りを抑えておけるだけの鍛練を積んで来ている事に自信を持っていたので、杞憂だと判断した次第である。
「それはどうも…旦那みたいな精悍な御方に、そこまで言われると小っ恥ずかしいですが、私も漁師ですから、少しは力自慢でも負けやせん!ま、実際はそこそこ何ですがね?」
魯粛は念のため、少し自慢げに調子に乗ってみせて、その後すぐに自虐的に振る舞ってみせた。可もなく不可もなく、的を絞らせないための工夫といえるだろう。
「まぁ漁師は力が無けりゃあ、やってられんからな…お前さんのいう事は理解出来る。それで物は相談だが、鮒と鯉を全部貰おう♪鮒は冬場のこの時期は脂が乗って旨いからな!それに俺は鯉のコリコリした歯応えが好きでね、酒の肴にはピッタリだろう?後、コクレンとハクレンを少しずつ良いかい?鍋にすると旨いからな♪」
『何だ!相談て魚の話かい(^。^;)…それにしても嫌にアッサリ話題を魚に戻したな…淡白な奴!まぁいいさ…余り突っ込み過ぎても疑いを招くからな♪』
魯粛はそう判断して、すぐに真新しい魚籠に魚を移してやった。これは彼が予備で持っている魚籠である。時折、この男の様に現地で値踏みする人がいるため、小分けするために持っている、やや小さめの魚籠である。
「へえ~、お前さん用意がいいんだねぇ~気に入った!またたまに貰いに来ても良いかな?そん時には、お前さんにいい事を教えてやるよ♪」
彼は御機嫌にそう話すと、やおら胸に手を入れて、巾着を出した。その中から金貨を二枚出して魯粛に渡す。
「これで足りるかい?」
彼はそう言うと、魯粛に目配せした。
「え~♪こんなにいいんですかい?」
魯粛は少し大仰に喜びを表して、嬉しそうに笑みを浮かべた。相手の男はその反応に然も満足そうな表情で応える。
「あぁ…取っておいてくれ!雷魚が在れば、倍は払ったが、ここいらはやっぱり雷魚は居ないのかね?アムール川なら容易く手に入るのだがな…まぁいい、それはお近づきの印だと思ってくれ!今日は有り難う♪まさかこんな機会に魚が大量に手に入るとは思っていなかった!じゃあまた会おう♪」
男はそう言うと、嬉しそうに鼻唄を歌いながら、去って行った。魯粛はやれやれと思いながら、ひとまず危機が去った事にホッとしていた。
それからというもの、この男は多い時で週に一回、少ない時でも月に二回位は少なくても顔を見せる様になっていた。その度に魚を大量に、しかも割りと高値で買い上げてくれるため、なかなか良いお得意様になっていた。
魯粛としても、漁にさえ出ればある程度のまとまったお金になるので助かるし、なかなかに面白い奴だから、個人的には気に入って来ていた。気さくで話も面白い。何より魚に詳しいので、話していて馬が合った。
但し、片時も油断はしなかった。何をいっても、彼は恐ろしい男には違いが無いし、相変わらず死臭も消えていなかったので、定期的に殺生に手を初めているのは、もはや疑いようがなかった。
彼は何度か来ている内に、大胆にも名前と身許を明かした。名前は青龍…身許は上大夫の甘龍という大貴族の家裁だという事だった。そして出身は女真族であったとも…。
『なるほどね…』
魯粛は納得がいった。彼は始めて会ってからというもの、彼の後は着けなかった。その理由としては、第一に疑われては成らないからだった。そして第二に彼がまた来ると言ったからだ。来る者を尾行る事は無い。
そして最大の理由は、その時にはまだ敵として認識していなかったからだった。敵でも無い者をひつこく追い回す必要は無いし、魯粛もそんなに暇では無い。
彼には漁だけで無く、研究者としての実験もせねば成らないし、間諜として秦国の事情を常に把握する務めも有った。彼自身の無駄な好奇心を満たすだけの行動は慎むべきと心得ていた為である。
『魯匠、この前言っていた約束を果たそう♪』
青龍はそう言うと、悪戯っ子の様な表情をして鱔魚と泥鰍の獲れる場所を教えてくれた。
タウナギは色は深緑と茶色の二種類がある。通常は40cmほどで、日中は水際の泥の奥に静かに潜み、夜に泳ぎ出て来て食べ物を捕食する。夏は這い出て来ているが、冬には泥に深く潜って冬眠する。食感はサクサクプリプリしていて、歯ごたえが強いのが特徴である。
一方、ドジョウの細長い円筒状の体は粘液で覆われていて、全長は10~15cm。口髭は五対在って鱗が無い。高い栄養価と解毒作用があるとされている。ふわふわプルプルした食感で、薬膳食材として親しまれ人気があった。
『こりゃあいいや!青龍助かるぜ!』
魯粛も気分が良い。ちなみに彼は青龍に魯匠と名乗っている。誤解しないで欲しいがけして嘘では無い。
魯粛は研究成果を魯匠として発表している。魯粛が名誉会員として、【貴】印研究所に認定されてからというもの、彼は匠の研究者として尊敬を集めていたからだった。但し、あくまで西夏国での話である。
魯粛もさすがに本名を名乗る訳にもいかなかった。彼の立ち居振舞いは、彼だけの者では無く、若君や強いては西夏国の存在その物にも影響を与える危惧が在ったからだった。
こうして青龍と知り合った魯匠は、彼と親しくなると共に、甘龍の側近に然り気無く食い込む事に成功したのだが、それはある日突然、崩壊する。
赤龍の存在がそれで在った。彼は最近の青龍の行動に疑念を感じていて、青龍の後を尾行して、魯匠の事を突き止めた。見るからに只の漁師には違いないが、彼の第六感がそれを許さなかったようだ。
赤龍は青龍に魯匠との付き合いを辞めさせた。あくまで念のためだったが、それからというもの、青龍は魯匠の所に来なくなったのだった。
ある時、少し疑問を感じた魯匠は止せば良いのに、甘龍の屋敷まで足を延ばした。彼も青龍の血生臭い臭いには常に気をつけて、あくまで少し距離を置いていた積もりだったが、全く来なくなると、さすがに気になる。
そこで魯粛は魯匠として訪ねて行ったのだが、そこで始めて赤龍という家裁に遭遇する事に成ったのである。初対面の赤龍からは、冷徹な策謀が出来る頭脳明晰さが見て取れた。
『はは~ん♪こいつの差し金か!』
魯粛はすぐにそう感じた。赤龍は冷めた口調で"立場を弁えろ!"と魯匠に応えた。
赤龍としては、調べた結果として、この漁師が只の漁師だったと結論付けている。だから魯粛に対しては、もはや疑いも掛けていないが、青龍に無駄な時間を過ごさせる訳にもいかなかった。
青龍は明らかに最近、優しい表情を見せる様に為っていて、珍しく戦利品を持ち帰る性癖も無くなっていたので、甘龍はむしろ嬉しそうにしていたが、赤龍は全く真逆の結論を出していた。
青龍は甘龍の政敵を倒すための殺人機械で在らねば成らない。にも拘わらず、漁師風情と遊びに興じており、愉しそうに笑顔を見せる。赤龍にとっても主・甘龍にとってもそれでは今後、困るのだ。
青龍は恨めしい表情を赤龍に見せたが、言葉には従った。ここに居る以上、赤龍の言葉は絶対だ。甘龍様の頭脳と云われるこの男には逆らえない。かと言って気に入らないから始末する訳にもいかない。
赤龍と仲違いしたり、殺めてしまっては、甘龍様の所には居られなくなる。彼はそこで不承不承、赤龍の言に従ったのであった。それだけいつしか青龍も魯匠と居る時間を満喫していたのだと言えた。
結局、魯粛は青龍とは切り離され、赤龍の意に反する事はしなかった。大人しく引き揚げて、それ以来、接近を避けて来た。
但し、その後、何度か彼ら二人の禍々しい程の立ち回りは見て来たので、接点が消された事には、忸怩たる想いも在るが、結果的に距離を置いて正解だったと今は思えていた。
「そうか…そんな事が在ったとは驚きだな!」
秦初は魯粛の話が終わると、そう語った。
「私は今でも青龍には他に生きる道が在ったのではないかと想っています。もはや手遅れかも知れませんがね…そして赤龍は未だ謎の多い男ですが、私の会った印象では切れ者です、かなりのね!だから用心に用心を重ねて、対応策を練らねば成らないでしょう!秦初様もくれぐれも慎重にとお願いする次第です!」
「判った!良く話してくれたな…余計な詮索や勇み足に成るような行動は慎むと約束しよう♪」
秦初はそう言うと、趙良に目配せする。趙良も兄貴と慕う魯粛の説明に真摯に頷いた。




