夢追い人
1ヶ月程経過すると、各地に散っていた若者たちは、続々と帰還して来た。
その数は日を追う毎に増えていった。
それと並行するように、帰還して来た者たちも、櫟陽に滞在していた者たちも、次々と草案を想起してきたのだった。
その提出された提言書は、再び山のように山のように積まれていった。
孝公は景監とその近習衆に手伝わせて、山のように積まれた提言書をひとつひとつ丁寧に読み進めていった。
『成る程…。』各地の視察をさせたのはやはり正解だったようだ。
伊達に現地を視察して来た訳では無さそうである。
かなり現実に沿った、実現出来そうな案も散見された。
しかしながら、それでもまだ何処か物足り無さを感じるのは、その中から、大地に根差し生きている秦人の息吹きが感じ取れないからであろう。
孝公は各地を巡って、草案を取りまとめてくれた各人に感謝しながらも、
『これでは私の考えている国は造る事が出来ない。』
そう言う想いに自然と溜め息が漏れ出る。
だが、そんな事で挫けて居ては端緒に立った意味が無くなる。
『まだだ…。これだけの人材が集まって懸命に取り組んでくれているのだ。諦める訳には逝かぬのだ。』
孝公はそう自分に言い聞かせるかのように、気持ちを奮い立たせるのであった。
それからも、日々続々と帰還者が増え続けて、それに合わせて提言書も山のように積まれていった。
孝公は期待に胸を膨らませて、再びそのひとつひとつを大事に手に取り、丁寧に読み進めていく。
しかしながら、やはり『これだ!』と確信が得られる程の提言は見当たらない。
ひと通り目を通した結果、率直に感じる事は、櫟陽を一歩も出ていない者の提言には、中身が無く、絵空事の様に感じ取れるため、全て却下し、厚く礼を述べて、帰りの駄賃を渡すと、お引き取り願う事にした。
そして少なくとも近在の地域とはいえ、視察を経て出された提言書のうち、実現可能な物は残し、少しでも才能の豊かさを感じさせるものは、その次点としてこれも残しておく。
残念ながら実現には程遠いもの、秦国と秦人の特性を理解出来ていないものは却下とし、厚く礼を述べて、ご努力頂いた感謝の志と帰りの駄賃を渡すと、これもお引き取り願う事にした。
貧しい秦国のお家事情としては、改革のためとはいえ、これ以上実の出ぬ事に出費する事を現実が許さなかったのである。
但し、滞在中は約束した通り、破格の待遇で供与して居たのだから恥ずべき事は何もなかった。
孝公は、僅かに選び抜かれた提言書を自室に持ち運ばせると、机の上で徐に広げて、そのひとつひとつを吟味するように見つめていた。
中華広しと言えども、やはり自分と、この国の痛みを分かち合い、この大地に根を下ろして、真剣に向き合ってくれる人材は居ないのか…。
孝公は自分の理念に見合わない方針を採り入れるつもりは端から無い。
しかしながら、もしかしたら理解者を得られるかもしれないと、藁にも縋る想いで、今回の募集を実施した。
今のところ、自分のその想いに応える回答は得られていない。
そして、未だ改革の端緒にすら辿り着けていない。
孝公はそんな忸怩たる想いで、自室で広げていた提言書に再び目を通し終わるや、人を呼び、景監を至急呼びにやるよう指示した。
『まだ可能性が残っているのかどうかが、どうしても知りたい…。』
そう想っての事だった。
今回担当責任者にした景監は、孝公がまだ太子の頃から側近くに仕えている。
言葉少なく控え目な男だが、誰よりも孝公と言う人物を理解しているし、機転も効く。
そしてその優しい人柄から、皆に慕われている。
孝公が今回の募集を行うのに際して、極めて不都合の無い資格を備えている正に適格者と言えた。
ゆえに抜擢したと言って良い。
間も無く、景監がやって来た。
『我が君、景監です。お呼びでございますか?』
少し緊張で顔が強ばっている。
利発なだけに、すでに何を聴かれるのか事前に見当がついており、心なしかその顔には動揺が見て取れた。
孝公はまず、これまでの行き届いた配慮と準備を労った。
彼が居なければここまで順調に事を運べなかったと言っても過言ではないのだから…。
景監は主・孝公の労いの言葉に救われた気がした。
『我が君はとても優しい御方だ。いつも周りに対して気遣いを忘れる事が無い。私もこれまで大変良くして頂いた。』
そう想いながら、同時に気が重くなるのだ。
『確かに私の務めは…有能な若者たちが、提言書をまとめるまでの間、滞りなく、手助けして行く事であり、その中身にまでは責任が無い。しかしながら…』
そうなのだ…確かに提言をさせるまでが自分の責務である。
それは重々承知している。
客観的に観ても、受け入れから、視察道中の安全面の対策、提言書の草案想起までの準備に至るまで、考えられる限りの配慮と助力は惜しまず行って来た。
自分は任命された務めはしっかり果たしたと思っている。
にも関わらず、自分の心が晴れないのは、主・孝公の本来の目的が果たせない場合、これまでの全ての努力が何の意味も持たなくなる事が、手に取るように解っているからだった。
孝公のお側近くに仕えて、長い年月を供にして来た景監は、その研ぎ澄まされた感性に触れて来た。
それゆえ、
『何としても我が君に目的を達成させて差し上げたい!』
素直にそう思う。
その一念で不備無きよう努めて来た。
だが、見る限りでは、今のところ結果は芳しく無さそうだった。
溜め息を時折、発しているご様子であり、余り嬉しそうでも無い。
そうした主を眺めていると、景監はその心に寄り添い、抱える苦しみを少しでも自分が背負いたいと想わないでは居られないのだ。
孝公はひと呼吸置いた後、落ち着いた言葉で景監に尋ねた。
『後どれだけの参加者が残っておるか?』
景監が思っていた通りの問い掛けに、予め用意して置いた回答を伝えようとしながらも、言い澱んでしまったのは、やむ得無い事であった。
『昨日で全ての者から想起は完了しております。残念ながら、もう居りませぬ…。』
景監は動員出来る限りの勇気を振り絞ってそう応えた。
『そうか…。』
そう呟くように言うと、孝公は謝意を顕し述べた。
『景監よ、ご苦労であった…。』
孝公は考えて込んでいるようだったが、景監はこれ以上、何と声をかけてあげれば良いか解らず、黙って一礼すると、その場を退くほかなかった。
正に後ろ髪引かれる思いが募っていた。
孝公の居室を退出して間も無く、景監は、ハッと我に返った。
そう言えばひとり変わった人物が居たな…。
危うく忘れるところだった。
『国中を巡る。』
彼ははっきりそう言い切った。
『とても感じの良い人物で、変わった注文をしたっけな…。』
そうだ!民の服と丈夫な靴を求めて来たのだ。
第一印象はとても好感が持てたのだが、『国中を巡る』と言われてからは、『本当だろうか?』という疑念が先に立ち、『口だけかもしれぬ』と思い、そのまま、存在そのものを忘れてしまっていた。
『確か名前は…。』
景監は再び名簿に目を通して確認した。
『魏人 衞鞅』
そう書かれた名簿には、『未帰還』と記してある。
『私とした事が…。』
結果として、色眼鏡で見てしまったためにそのまま、黙殺してしまっていたのである。
『本当のところはどうなのだろう?』
まだ帰らぬのだから、彼の思った通りの大口叩きであり、恥じてそのまま逃げたのか…或いは…。
彼はそう思った瞬間、自然と身体が動いていた。
彼は主・孝公の居室に急いで引き返した。
久しぶりに冷や汗を掻いたが、目は輝いていた。