激動の一日
渠梁は兄の虔の屋敷を退出する際に、家宰の見送りを受けた。彼は突然の不幸が振りかかった君主に申し訳がたたず、頭を垂れている。
「気に病む事は無い…お前のせいではないのだ。心配致すな!お前はこれからも兄に尽くしてくれればそれで良い!」
渠梁は家宰を励まして門を出た。家宰はそれでも平身低頭に頭を下げ、見送ってくれた。
門を出ると、既に馬車が迎えに来ている。渠梁は御者の孫沢にも労いの言葉を掛けようと、歩み寄る。彼も大変な状況に出会っただろうから、一言声を掛けようと気を遣ったのだった。
「孫沢…お前にも迷惑を掛けた。申し訳ない。息子は無事に帰宅したのだろうか?」
「はい!坊ちゃんは既に黒龍様が宮殿に連れ帰られました。私はこちらに向かいましたので、詳しくは存じませぬ。」
孫沢は既にシャキッとした顔をしていて、全く気にしていないといった顔をしているが、妙な事にその両頬は不自然な程、真っ赤に腫れていて、見るからに痛々しい。
確かにもう夕暮れ時であるから、寒さが厳しくなりつつは在るが、それにしてもそれはまるで激しく叩かれた様な後に見える。渠梁もそれに気づき、心配そうに尋ねた。
「お前のその頬はどうしたのだ?まさか暴れた駟に殴られたのでは在るまいな?」
「否…これは…」
孫沢は恥ずかしそうに手を頬にやると、ようやく応えた。
「…私がビビって、放馬しそうだと感じた蘭玉様に目を覚まさせて頂いたもので、お気に為さりません様に!」
ノ(^。^;)孫沢は、もうその事には触れないで…といった仕草をみせて、「御送りします…どうぞ!」と渠梁を車内に誘った。
それは心の中で既に折り合いを着けた忖度された表情だった。
『(´▽`;)…全く蘭玉には困ったものだ!』
渠梁は馬車に乗り込むと、「出してくれ!」と声を掛けた。馬車はその掛け声と共に、一目散に宮殿を目指して走り出した。
兄の協力は得た。しかしながら、息子・駟の虚ろな眼を想うと、晴れやかな気持ちに為る事が出来ない渠梁で在った。
秦初は大后様に挨拶を述べて、黒龍と共に引き上げようとした時に、蘭玉に声をかけられた。
「秦初様…私が御送り致しますわ♪」
蘭玉はとても嬉しそうに満面の笑顔である。
「否、蘭玉殿、それには及びませぬ!貴女は大后様に着いていてあげて下さい!」
秦初のその言葉に、彼女は母親の方を振り返る。大后は呆れた表情で想わず嘆息する。
「全く貴女と言う娘は…秦初殿の方が余程、親愛の情が有りますよ!もっとしっかりとしなくてはね…彼に嫌われてしまいますよ♪」
大后はやんわりと娘を嗜め、その意識を秦初に向けた。それは娘に礼節の大切さを教え込むための大后なりの優さだった。彼女は娘のそわそわと落ち着かない態度や仕草で、その恋心を知った。
そのため、『ちゃんとしなくては嫌われるわよ!』と言葉を掛ける事で、『少しは女らしくしなくてはね!』と自覚を促したのだった。
「もう~お母様ぁ~♪♪」
蘭玉は恥しさと嬉しさが入り混った様な猫撫で声になる。『ウフフ…』大后は困った娘ね…という顔をすると、「心配しないでも彼はまたいらっしゃるわよ、ね!秦初殿♪」大后は娘に左手を差し出すと身体を支えて貰いながら、声を掛けた。
「ええ…勿論!少し御相談に乗って頂きたく、また日を改めましてお伺い致します!」
「そう…判ったわ。今日は本当に有り難う。助かりました…」
大后は蘭玉と共にそこで秦初を送り、彼が礼の後に背を向けて歩き出すと、娘に支えられながら、居室に戻った。
「秦初様、危い所を救って頂き、本日は有り難うございました。貴方が居てくれて坊ちゃんも救われ、私も助かりました。」
黒龍は秦初と並んで歩きながら、頭を下げた。
「気にするな…人として当たり前の事をしただけだ!それにしても、今日は何度も色々な人から頭を下げられる…。だが人を助けるという事は、なかなか嬉しいものだな!」
秦初はそう言うと、櫟陽宮の門を出る。すると、それを待ち詫びたように、衛兵が馬を引いて来てくれた。
「管仲♪ 待たせたね、あ!君、有り難う♪」
彼は衛兵に礼を述べると、愛馬に跨った。
「黒龍、ではまた会おう!じゃあな…」
秦初は、頷く黒龍に手を振り、手綱を軽く揮るうと、管仲は気持ち良く、走り出した。
『まさか、今日秦初様にお会い出来るとはな…」
黒龍は久し振りに再会した秦初の成長振りに、感じ入っていた。そして正にあの瞬間に、彼を遣してくれた幸運に感謝していた。
秦初が走り去ってから、然程の間も無く、渠梁が乗った馬車が戻って来た。黒龍は君主が馬車から降りて来るのを出迎えた。
「我が君!お帰りなさいませ…」
彼は頭を下げる。渠梁は軽く会釈を返すと、直ぐに黒龍の痛々しい左手に気がつき、声を掛けた。
「黒龍!お前、これはどうしたのだ…」
彼は『どうせ後で判る事だ…』と事の顛末を正直に話した。渠梁はその痛々しい左手の様子に顔を顰め、「骨は折れておらんのだな…」と問うた。
そして幸いにも骨に損傷が無いと判ると、ホッとした表情をみせた後に『すまなかった…有り難う』と感謝を示した。
「勿体無い!」
黒龍は渠梁の優しい気遣いに心が熱くなった渠梁を先頭に、少し後ろから付き従い黒龍が歩みを進める。二人は渠梁の居室まで戻って来ると、床机を挟んで座った。
「我が君!坊ちゃんのお見舞いは宜しいのですか?」
「ああ…後でゆっくりと見舞う事にする。折角寝ついているのなら、今はそっとして置くとしよう。心の病は厄介だからな…」
「はい!それで虔様の方は如何相成りましたか?」
「それだがな…協力して下さるそうだ!自分の出来る事なら何でもすると約束してくれた♪」
「それは良う御座いましたな!首尾は上々という所ですな…ところで虔様は、駟様の事は何だと?」
黒龍も大体の状況は把握出来ているので、くどいとは感じたものの、自然の流れで話しはその方向に向いた。
「戦士の心を植えつけるために、お命じになったそうだ。御本人が認められた。"良くやった"と褒めておいたと言っておられた…」
渠梁は"やる瀬無い"という表情で黒龍を見つめた。彼も主人の気持ちは痛い程に判るので、「そうですか…」と溜め息混じりに応えるほか無かった。
駟の容態や不在中の出来事を問う中で、黒龍の口から『秦初』という名前が飛び出すと、渠梁は驚きの声を挙げた。
「何!秦初殿が来られていたのか?」
渠梁も子規の屋敷でその名前を耳にした時から、一度会ってみたいと念じていたので、つい大きな声になった。
「それで…うんうん、彼が助けてくれたのか…これは驚いたな!ふんふん、何!母上に会いに来たのか?で!何、また来るのだな…それで、私が戻る直前に帰られたのか…何と!」
…それは惜しい事をしたと渠梁は思ったのだろう…非常に残念という仕草を見せた。
「判った!是非、私も一度会ってみたいから、またやって来たら直ぐに知らせよ、良いな!!」
彼はそう言うと、黒龍を下がらせた。
「養生して早く直せ!お大事にな…」
「はい!それでは…」
黒龍も痛みを堪えていたのだろう…ホッとした表情をすると、引き上げて行った。
渠梁はその足で、息子の様子を見に出掛けた。彼は兄の屋敷で在らん限りの精魂を使い果たしていたが、疲れた身体に鞭打ち、その精神力で身体その物を引き摺る様に、駟の部屋まで辿り着くと、その姿を眺めた。
駟は寝台に横たわり、その寝顔は安心した様に穏やかで、スヤスヤと寝息を立てている。渠梁はしばらくの間、寝台の側の壁にもたれ掛かりながら、その寝顔を優しい表情で見守っていた。
やがて、彼も安心したのか、そのまま居室に戻ると、一旦は書簡を手に取る素振りをみせたが、やおら額に手をやると、眩暈を感じたのか、書簡を放り出して、奥の寝室に消えた。
彼はそのまま寝台に倒れ込む様に、深い眠りについた。彼ら皆にとって、その日は激動の一日と成ったのである。




