心の傷
その嘶きは馬車のもので、真っしぐらにやって来ると、秦初や蘭玉の前で突如停止する。秦初は咄嗟に蘭玉を抱き留める様にして、身を挺して庇った。
蘭玉はまた頬を赤らめる。けれども事が事だけに、次の瞬間には、馬車の方を振り向いた。日頃の蘭玉ならば、直ぐにでも文句を垂れるところであるが、今は秦初の前なので、想わず口に手を当てると、淑女の仮面を被る。
ところがである…。
良く見るとそれは宮殿の馬車なのだ。つい半刻程前に出発した筈のあの馬車である。
「あれ?おかしいわ…」
想わず彼女は呟く。秦初は傍でそれを聞いて『どうした?』と蘭玉に目線をやって、尋ねる様な素振りを見せた。
彼女もそれに気がつくと、
「半刻前…兄が乗って行った馬車なのよ…こんな早く戻る筈無い…」
そう言って不思議そうな顔をしている。
彼女も咄嗟に口にしたのだろう。ここまでの説明では話しが良く見えなかった。兄というのは、ここから出掛けたとすると、君主・渠梁様であろう。
そしてその彼を、恐らくこの妹御はお見送りしたのだが、行く先で時間を要する案件があるのを知っていたから、そういう表現になったのかも知れない。
いずれにしても、彼らにこれ以上考えている余地は無かった。
それと言うのも、急に停車した馬車の中から、「おい!孫沢、早く来てくれ!若君が痙攣を起こして、舌を噛みそうなのだ!早くしろ!」と凄く鼻筋の通った声が聞こえて来たからである。
孫沢は、完全にびびってしまっており、足が竦んで馬車の鞍の上で、手綱をギュッと握り締めたまま、動けないでいた。
彼は駟様の血だらけの様子や、何かに取り憑かれた様なその姿を目の当たりにした瞬間から衝撃を受けて居たのである。
「黒龍だ!」「黒龍ね?」と秦初と蘭玉は同時に叫び、互いに顔を見合わせる。
蘭玉は直ぐ様、後方の車内の方へ近寄ろうとしたが、「駄目だ!!」と 秦初が一喝して、「私に任せよ!貴女は馬亭を頼む、あのままじゃあ、いつ馬が駆け出すか判らないぞ!!」そう言って蘭玉には、馬車の処置を委ねる。
秦初はすぐに、馬車の直垂を託し上げると、黒龍と眼が合った。「秦初様…」黒龍は驚きの声を挙げた。秦初は黒龍の先の一言で、「癲癇かも知れぬ…」と想っていたので、急ぎの対処が必要だと感じていた。
「黒龍、話しは後だ!!な?!…お前と言う奴は、自分の指を入れたのか!馬鹿め…」
秦初は主人の嫡男を助けるために、自分の指をその口に突っ込み、舌を噛ませない様にしている黒龍の気持ちに感動していた。
しかしながら、これでは彼の指が下手をすれば千切れてしまう。秦初は駟の口を思い切り抉じ開けると、黒龍の指を除けて、直ぐ様、それに替わる物として、自分の懐剣の鞘を口に噛ませた。
彼は咄嗟の機点で、鞘に布を被せてから、口に噛ませてあるので、その布の先を首の後ろの方にそのまま持って行って強く縛る。そしてそのまま、駟を放り出すと、「見せてみろ!」と言って、黒龍の指を確認した。左手の指が五本とも血だらけになっている。
「私は構いませんから坊ちゃまをお願いします!」
そう黒龍は頼み込むが、取り敢えず、利かん坊はもう舌を噛めぬであろうから、黒龍の処置が先である。
「大丈夫だ!もう舌は噛めぬ。暫く放っておこう…このまま気絶してくれた方が運びやすい。しかし、お前も無茶をする。まあ、気持ちは判るがな!幸い骨に異常は無さそうだ。お前、運がいいぞ!五本同時に突っ込んだのが功を奏したな?血止めの薬材と化膿止めも塗り込んでおいた。今、布で巻いてやる。ほら、出来たぞ!後は薬をやるから、毎日塗って布で巻いておけ!私がたまたまこの塗り薬を持っていたから良いものを…まぁ、安静にな!この坊主は私が運んでやるから案内してくれ!」
「承知しました。秦初様、暫く見ぬうちにご立派に成られて…この黒龍、感無量です!」
「まあ、亀の甲だな!経験の為せる技さ!」
秦初はそう言うと、ニコリと笑った。そこへ馬亭を正気に戻した蘭玉が戻って来て合流する。蘭玉は黒龍の血だらけの指を見て驚き、さらには甥の駟が猿轡を咬まされた状態で馬車の腰掛けの上に放り出されているのを見て驚いている。
「これはいったいどういう事なのか説明して下さい!酷過ぎるわ!」
蘭玉は事情を知らないので驚いても不思議は無い。秦初も容態は理解しているものの、事情は知らなかったので、二人は必然的に黒龍の顔を見つめる事になった。
「嬴虔様のところで、坊ちゃんは恐ろしい目に在ったらしいのです…事情は私も判りかねますが、虔様の家宰の話を総合すると…」
黒龍は家宰の話を端的に話してくれた。
「ふんふん…野兎を…それで?…うんうん宝剣をね…で?ホォ~血糊の着いた剣と鞘かぁ…」
秦初はそれを聞いていて、ほぼ状況が理解出来てしまった。黒龍はやはり彼なりの推測はあるものの、口が裂けても言えないという表情をしている。
秦初は恐らく黒龍の推測と自分の推理は同じだと確信が持てた。只ひとり、蘭玉だけは同じ話を聞いていたのに、未だに良く理解出来ていないようだった。
「で!…いったいどういう事なんですの!」
蘭玉はついつい今まで抑えていた本性の一端が出てしまっていた。黒龍はお嬢様…はしたないと困った風である。
秦初は含み笑いをしながら、またまた自分の推理が当たった事を感じていた。彼は蘭玉が男勝りの御方だと、既に見抜いていた。けれども、彼は多少成りとも、気の強い所にこそ惹かれていたのである。
彼はまず、最初の問いに答えた。
「蘭玉殿!恐らくですが、嬴虔様は、駟様に兎を剣で殺す様に命じて、無理矢理殺させたのです。無論、駟様は反動で刺してお仕舞いに成られただけですが、かなりのショックを受けられたのでしょう。それが証拠に彼は与えられたと想われる宝剣を持っていますし、返り血を浴びております。自分のした事に、心の中で恐らく折り合いが着かなかったのですな!だから痙攣が起きて、癲癇を発症されたのです…恐らくはしばらく精神的に不安定になるかも知れませんから、優しく心のケアをしてあげて下さい。私の推測は以上です!恐らく黒龍の意見も同じでしょう!」
秦初の言葉を聴いた蘭玉はかなりショックを受けた様だった。そして駟の事を見つめた。彼は踠き疲れたのか、意識を失っていて、その身体には秦初の言う通り、返り血がまだ惨たらしく残っていた。
「あの子は大丈夫なのですか?虔兄は、なぜそんな惨たらしい事をさせたのです?」
「恐らくは…これは推測の域を出ませんが、たぶん戦士の心を植え付けたかったのでしょう!私も兄の子巌から嬴虔様の事は聞いておりますが、恐らく悪意は無いかと!只どうも5才の子にさせる事では在りませんがね…そういう事なのでしょう。因みに駟様は意識を失っているだけですから、しばらくは起こさぬ方が良いでしょうな!先程、申した通り、心のケアをしてやる事です!」
秦初は説明を終えると、嘆息して駟の方を心配そうに眺めていた。蘭玉は黒龍の方を振り返ると、秦初の推測に対しての意見を求めたが、黒龍はそれに同意する様に、コクりと頷いただけであった。
蘭玉は秦初の説明を聞いていて、何となくその結論が正しいのだと思えてしまった自分が居た。確かに虔兄は変わっていて、そのくらいの事はやりかねないと蘭玉も感じていたからである。
蘭玉は秦初の方を振り返ると、申し訳無さそうに言葉を掛けた。
「秦初様…妙な事に巻き込んでしまい申し訳在りません。でも黒龍も手を怪我している事ですし、駟をこのままにもしておけませんからあの子を運んで頂いても構いませんか?」
秦初は優しい顔であった。そしてこう応えた。
「蘭玉殿!今さっき黒龍にもそう申し出て居たところです♪喜んでお手伝いしますよ!」
彼は駟の元に歩み寄ると、彼を優しく抱き留めて、黒龍に案内を頼む。蘭玉は正気を取り戻した孫沢に兄・渠梁を再び迎えに行く様に命じた。
孫沢は先程の不徳を恥じていたので、気持ちを取り直すと、笑顔を取り戻して、馬車を再び嬴虔宅に向け走らせた。
秦初は駟を抱き抱えて、黒龍の案内の元、櫟陽宮の中を進む。蘭玉も甥を心配そうに見守りながら、彼らに続いた。




