幼き頃の思い出
秦初は余りの美しさに見惚れて、ボ~っとしてしまっていた。けれども彼には大切な使命があるので、我に返ると相手の女人に話し掛けた。
「もし、そこのお嬢さん!貴女はこちらの宮殿の方でしょうか?」
彼は彼女に話し掛けるが、反応が無い…。
秦初は少々困ってしまった。話し掛けた以上そのまま素通りする事もまま成らない。門に一応、衛兵は居るが、何も見ていないといった呈で、口を真一文字に結び、正面を向いたまま微動だにしない。
『(^。^;)こりは何かおかしくないか?』
秦初は想う。普通ならば、女人が高貴な身分の女性だった場合には、助けに入る所だろう。
自分も確かに一国の太子では在るが、身分は隠しているのだし、例え子規の息子としての立場で在ろうが、一介の衛兵が顔を知っている筈は無いのだから、この場合あくまでも通り掛かりの見知らぬ人物という事に成る。
『ひょっとして…この女性に関わりを持ちたくないのかしら?』
彼は今一度女人を観るが、やはり美しい。こんな可愛らしい女性に関わりを持ちたくない人なんているのだろうか…彼は不思議そうな顔をしながら、見惚れていた。
するとようやくその女性は我に返ったらしい。自分が男の顔をまじまじと見つめていた事を自覚するに至り、少し顔を赤らめて恥じ入る様子を見せた。
その表情がまた可愛らしいので、秦初は想わずドキリとする。胸に手を充てると鼓動が激しくなっていた。
「あら?御免なさい…私ったらボォ~っとしてしまって!貴方はどなた?何か御用かしら…」
蘭玉は少し照れ隠しをする様にそう尋ねる。自分が明らかに彼を見つめていた意識はあるので、少し恥ずかしかったのだ。
秦初も照れはあるのだが、やはり使命が先に立つのでここはしくじる事は出来ないと、慎重に言葉を選んでそれに答えた。
「私は秦初と申しまして、先の相国・子規の三男です。本日は火急の要件にて、大后様に謁見したいと罷り越しました。失礼ですが、お嬢さんはこちらの関係者の御方でしょうか?」
『あらっ?子規様の御子息なのね…そう言えば三人男の子だと、叔父様が仰有っていたわね。子巌様は虔兄上様の配下だったし、今もたまにお会いするけれど、子良様は国外に出たっ切りだし、この方は初めてお会いするわ…それに御名前がおひとりだけ違うのね。大丈夫かしら?』
蘭玉も宗室の公主なので、多少の警戒感は持ち合わせている。それに剣にも覚えがあるし、そこらの手合いには負ける気はしない。更に言えば櫟陽宮の門の前で、事を起こそうなどという者は未だかつて居なかった。
但し、自分が余所者を宮殿の中に引き入れる事に成ると甚だ具合が悪い。そこで念のため、確認する事にした。
「ええ…私は宮殿の者ですけど、貴方が叔父様の御子息という証明は出来ますの?」
蘭玉は相手の殿方に好意は抱いている。この方が子規の子息で在っても可笑しくは無いのだが、私的な感情と公主の立場での判断は、公私の別をつけねば為らなかった。
秦初はその返事を聞いていて、少々お可笑くなってしまった。明らかに警戒しているので、名前はまだ明さないが、想わず"叔父様"と言ってしまっている。
義父の子規の事を"叔父"と呼ぶ女性は、この櫟陽宮ではひとりしかいない。
「ああ…それで判りました。貴女が渠梁様の妹御の蘭玉様ですね!道理でお綺麗な筈です。実は私は子規の養子でしてね。昔、秦に来たばかりの頃に、幼かった貴女にお逢いした事があるのですよ!私の顔は覚えていなくても、この両耳に付けている耳飾りについては記憶があるのではありませんか?貴女はこれが気に入って、何度も指でシャランシャランと鳴らされていた。ね!これ好きだったでしょう?」
秦初は長い髪の毛を、左手の人指し指で少しずらす様にして、耳朶を見せた。そこには黄金の耳飾りが、揺れている。
蘭玉は"お綺麗"と褒められた所で、少し俯いてもじもじした。頬を朱色に染めている。そこに不意に耳飾りの話しをされたものだから、一瞬ドキリとしてしまった。
そしてその事が切っ掛けとなって、幼い頃の淡い想い出が甦って来る。確かに記憶の片隅には、その黄金に輝く耳飾りの記憶があった。そして女性の様に美しい白い肌に黒髪の長髪、そして可愛らしい端整な顔立ち…。
蘭玉は幼心に仄かな恋心を抱いていたのだ。彼女はその事が判ると、黄金の耳飾りは元より、相手の姿を今一度見返してみた。
『何で気がつかなかったのかしら?』
そうなのだ。秦初は今でも背が高い事を除けば、黒い長髪だし、その髪は腰の辺りまである。そして、今でこそ男らしい顔になっているが、端整な顔立ちはそのままに、白い肌をしていて、引き締った体躯をしていた。昔の面影が垣間見られる。
『ああ…あの方が今ここに居らっしゃるお方なのね…』
蘭玉は全てが繋がった事で、感慨に耽っていた。秦初はまたまた彼女が考え事をしてしまったので、想わず苦笑する。
『記憶は良い方のようだから、助かったが、少しばかり自分の世界に入り込む癖が御有りの様だな…仕方無い、少々待つのも一興というものだ!』
彼はそう想いながら、考え事に夢中になっているお姫様の表情を優しく見守る様に眺めていた。
するとしばらく経って、夢の中から戻って来た彼女は、こちらを眺めながら、のんびりと優しい表情で見守る秦初に気がついて、顔をカァ~っと赤らめるとドキリと胸の鼓動が鳴ったのを自覚した。そして、それを慌てて覆い隠す様に言葉を返した。
「あら、私ったら御免なさい。でも貴方も悪いのですよ!昔の事を想い出させようとするものだから、私もついつい記憶が甦ってしまって…そうですの、貴方があの可愛らしい長髪のお坊ちゃまなのですね…」
蘭玉は、日頃から直線的な物言いをするので、ここでも単刀直入に過ぎた。しかもそれは、彼女なりに記憶が多少、美化されていると言えた。
それをのんびりと聞いていた秦初も、想わず照れが先に立つ。10歳の頃の彼は、確かに"おとぎの国"から抜け出した王子様などと、揶揄されて、とても恥ずかしい想いをした時期が在ったから、それを彼も今さらに想い出さされて困ってしまったのである。
しかしながら、ここで挫けてしまっては、話しがいつまでも進まない。
(^。^;)小説の筋も先に進まない…(笑)
そこで彼は話しをとっとと進める事にした。
「蘭玉殿!これで私の身元は御承知いただけたと思うが、大后様は御都合が悪いでしょうか?もしそうなのであれば、また日を改めたいと思っています…」
秦初はそう伝えて、話しを前進させる努力を行った。そもそも彼自身も、秦国の大后様に突然押し掛けて、直ぐに御会い出来るとは思っていなかった。
蘭玉もそれを受けて、少し顔を強張らせると、申し訳無さそうにこう応えた。
「秦初様、御免なさい…日頃ならばそんなに御面倒は掛けないのですが、今日は久し振りに甥の"駟"が虔兄様のところから戻って来る予定なのです!だから、母上も顔を見たいでしょうし…この気持ち、お判り頂けると宜しいのですが…」
確かに大后様にとっては孫であるから、久し振りという事であれば、遠慮するのが筋というものだ。
「勿論、判りますとも!ではまた後日、改めて参ります。貴女にもまたお会い出来ると良いのですが…」
秦初は最後に然り気無く、そう確認した。すると蘭玉も、頬を朱色に染めて、「ええ…もちろんですわ!お待ちしております…」そう答えたのだった。
本来で在れば、話しの筋としてはここでちょうど区切りが良いところなのだが、この時それを許さない、ある出来事が不意に起こった。そう…それは突然の馬の嘶き声で始まったので在る。




