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わだかまりを越えて

渠梁はひとまず気持ちを落ち着かせる様に、吐息を吐く。そして心の動揺を強制的に抑え込む。その上で、兄の虔の眼を静かに見つめると、ようやく言葉を発した。


「兄上…今日はお話が在り、参りました。是非兄上のお力をお貸し願いたいのです!」


嬴虔は弟の真剣な眼差しを受け止めると、赤ら顔に微笑みを浮かべた。そして手に抱えていた剣を一旦回す様に立てると、小気味の良い音をたてて、鞘に納めた。そして弟を席に(いざな)う。


「まぁ座れ、渠梁よ!立っていては落ち着いて話も出来まい。心配するな…お前の言葉はしっかりと聞いてやるから、安心するが良いぞ♪」


彼はそう言うと自分もドカッと腰を下ろした。まぁ、ざっくばらんに話そうぜ…そんな感じだった。


ざっくばらんとは、『心をざっくり割って、ばらりと明かす』という意味だが、令和の現在は死語と成りつつあり、若い方には知らない方もいるだろうから、敢えて記しておこう。『率直に』とか『フランクに』とかそういう意味である。


渠梁は兄に勧められるまま、席に腰を下ろす。この迎賓(げいひん)折衝(せっしょう)等にも使われる今でいう所のオープンテラスは、嬴虔お気に入りの樹齢何百年にも渡る杉の大木の真下にあって、彼は常日頃からこの下で剣舞をして腕を磨いたり、書読をして過ごしていた。


「で!話しとは例の改革の事かな?」


嬴虔は時に勘が鋭く働く。戦場での駆け引きが彼にもたらした強みかも知れない。渠梁も水を向けてくれた事で、自然と話に入り易く為ったので、相槌を打つと、話し始めた。


「ええ…先頃、私が中華に広く人材を求めた話は兄上も御承知の事でしょう?」


「ああ…承知しておる。お前の眼鏡に叶った人物を得たとまでは母上から聞いた。」


「その者の名は衛鞅と申します。先の衛公の公子で、兄上も御存じのあの公叔座が可愛がっていた中庶子です!」


「何?あの公叔座か…秦に攻めて来た折りに、私が捕らえた奴だな!待てよ…そう言えば、公叔座を人質交換で解放する立ち会いの場に来ていた若い男が居たな、そうだ!思い出した。確か白貂(はくテン)の衣を(まと)った口が立つ奴だろう…私は基本的にああいう物言いをする(やから)はスカンのだが、堂々と身体を張ってこの私に対峙した。只ひとりでやって来た所にも感服したものだ…そうか奴なのか!」


衛鞅が中庶子として、まだ魏国に仕えていた頃、彼は魏の宰相・公叔座に可愛がられていた。そしてその公叔座が秦に侵攻して来た際に、彼を破り捕らえたのが嬴虔だったのである。


衛鞅はその時に、只ひとり、師である公叔座の返還交渉にやって来ていた。その際、秦の大将軍である嬴虔に対して、堂々たる物言いをして、師への面会を勝ち取ったのである。


彼は恐れる事無く、案内(あない)されるがまま、師の牢獄の中に入り、面会に及んだ。公叔座が驚き、またその忠誠心に涙したのはいうまでも無い。


後に衛鞅が魏から逃れる事になったのも、この公叔座が死の床に臥せって、もう彼の事を庇ってくれる人物が魏には居ないと知ったからである。


『逃げよ!』


公叔座は死の床でそう伝えた。魏の恵王が衛鞅を殺したがっている事を知っていたからであり、命の危険を顧みずに、自分を秦まで救いに来てくれた唯一の男…そういう想いが公叔座には在ったのかも知れない。


嬴虔は、最前線からは程遠い宮殿の中で口ばかりが達者(たっしゃ)な文官連中が嫌いである。奴らは物言いだけは御立派だが、最前線に立って戦う度胸も無い臆病者だと、公言して止まなかった。


ところがこの衛鞅という中庶子は、白貂(はくテン)の衣を(まと)った気障(キザ)な輩の癖に、戦の最前線である秦の国内に只ひとり、堂々と乗り込んで来たばかりか、嬴虔の様な見る人を震え上がらせる大丈夫の前に立って、我が身を顧みずに交渉に臨んだ。


嬴虔が衛鞅に感心した点はそこに在った。自分の前に立っても、特に恐れを抱いている訳でも無く、自然体で、肩幅が広く精悍な顔つきをしている。その口からは力強く堂々たる信念が感じられた。


彼は情けない姿勢でおろおろするばかりの文官連中にはほとほと(あき)れていたので、文官の中にもこんな偉丈夫が居るのかと、記憶の片隅に覚えていたのであった。


「そうです!それがまさしく衛鞅でしょう。私も彼を見た時には、その堂々たる姿勢とその信念に感服致しました。そしてその彼が作り上げた新法がこれです!どうか御確認下さい。」


渠梁は兄の言葉であの当時の記憶を甦らせていた。それは彼が登壇して間もない頃の事であり、渠梁自身も衛鞅にその時に逢っていた。しかしながら、兄に言われるまでその事を思い出せずにいたのである。


嬴虔は弟が差し出した書簡の紐を解き、ジャラジャラっと一気に広げて両手に持つと、眺める様に端から見ていく。彼は武人であり、難しい事は良く分からないが、秦を強国にして、他国に侮られない豊かな国にしようとする想いをそこに感じた。


そして、彼が知る衛鞅という気骨の持ち主で在れば、やれるかも知れぬ…と想い至った。彼は久し振りに、あの生意気な儒子(こぞう)に逢ってみたいと思ったのである。


「渠梁よ…ひとつ聞いても良いか?」


「はい!兄上、何でしょうか?」


「残念ながら…私には難しい事は分からぬ。だから只ひとつだけ確認しておきたい。この改革が上手く行けば、戦場で勇敢に戦った者たちは報われるのだろうか?そして生活の糧である田畑を耕す者たちは、豊かな暮らしが出来る様になるのだな?私は口ばかり達者な儒子どもは大が付く程、嫌いだ。それはお前も存じておろう。だが命令に従い命を張る者や、毎日のように朝から晩まで畑を耕し、結果を残す者には報いてやらねば成らないと常々思っておる…どうかな?それは出来るのだな?」


嬴虔という人はただ厳しいだけの人では無いようだった。彼なりにちゃんと考えて、その対価に報いたいという想いは持っていたのである。


渠梁も少々驚きでその言葉を迎えた。彼は腕っぷしだけが取り柄で、戦場では過酷な要求を強いる兄の姿勢に疑問を抱いていた。


その昔、戦評定の場では父・献公を前にして、強硬路線を望む兄と、駆け引きと交渉を望む渠梁との間で、時に激しい口論と成ったものであった。


渠梁は兄の想いの一端に触れて、ここに来た事に確かな手応えを感じ始めていた。そして彼が厳しいだけの人では無いのだという事も理解出来たのである。


嬴虔は今でも将兵にとても人気があり、尊敬されている。それは実績もさる事ながら、戦場での彼の背中や姿勢が将兵に自信と勇気を与えるからであった。


彼が猛り咆哮する時には必ず先頭に立っている。『我に続け!』そう叫ぶ兄の姿に皆、力を貰っていたのであろう。


その兄のカリスマがこの改革を端緒に持って行くに当たり、その一助に成る事は最早(もはや)疑いの余地が無い。兄も労苦に報いる事が正しい道だと理解しているのだと渠梁は思った。


「ええ…ええ!必ず出来ましょう♪そういう世の中を(つく)る事こそが我々の目指す改革です!兄上の想いは必ずや報われる事でしょう。私を信じ、そしてこの私が信頼する衛鞅という男を兄も信じて託してくれませぬか?一緒に温かく見守って下されば、それで良いのです♪そしてもし、宮中の中にそんな改革を妨害する者が在ったならば、兄の人睨(ひとにら)みで、尻込みする事でしょう。まずはこの改革を端緒に乗せる事です。どうか御協力願いたい。宜しくお願い致します!」


渠梁は兄の問いに真摯に答えた。そして信念の赴くままに、なるべく懇切丁寧に言葉を選んで説諭した。嬴虔は顎髭(あごひげ)(さす)りながら、その言葉を一言一句聞き漏らすまいと眼を閉じながら聞き入っていた。


彼はやがて眼をカッと見開くと、今一度、渠梁の真剣な眼差しを受け止めて、しばらくの間、静かに見つめていた。そしてやがて再びその赤ら顔に微笑みを浮かべると、コクりと頷いた。


「いいだろう!お前を信じよう♪そして私自身の目に焼きついている衛鞅という男を信じる事にする…」


嬴虔はそう述べると、渠梁の協力を快諾した。そして照れた様に頬を指で掻きながら、自嘲気味に笑った。


「それで…具体的には私は何をすれば良いのかな?」


「衛鞅に改革を断行させるためには、まず段階を踏まねば成りませぬ。一介の客人では事は成せませぬゆえ、彼をまず然るべき身分に着けなければ成らないでしょう。私は彼を左庶長に任命して、その上で改革の責任者として政務を取らせる所存です!その為に兄上には任命書を朝令の場で(そらん)じて頂きたいのです!兄が任命式を(つかさど)れば、他の閣僚たちも無視する訳には参りませぬ。必ずや承諾する事に成りましょう♪」


『成る程…理には叶っておるな…良し!良かろう…』


嬴虔は渠梁の言葉を信じて協力する事に決めた。そしてふとある事を思いつくと、おもむろに語り始めたのだった。


「判った!協力すると約束する。だが、ひとつ交換条件がある。それをお前が考慮してくれるのならば、この改革については無条件で手を差し伸べて助けてやる!それでどうだろうか?」


渠梁はここに来て、兄が交換条件を提示して来た事に驚きを感じている。協力してくれるのは嬉しいが、何をさせるつもりなのかと、兄の言葉を(いぶか)しげに感じていた。


しかしながら、事ここに至っては、話を聞いてやらぬ訳にもいかない。せっかくの協力を不意にされては、渠梁も甚だ困ってしまう。けれども話の中身に依っては、固持する必要もある。


何しろ交換条件という物が、この改革を成し遂げたひとつの要因という事になると、後々その神聖さが失われる事にも成りかねない。折角、国のため民のために行おうとしている事に、取り引きは持ち込みたく無かった。


『仕方ない…一度口に出したら、梃子(てこ)でも動かない、それが兄上だ!ここは一応聞く姿勢だけでも示しておかねば成るまい…但し、話に依っては断わるほか無い。』


渠梁はそう決意すると、兄の顔を見つめて、言葉を返す。


「兄上…一応お話はお聞きしましょう!ですが、私も一国の君主です。聞ける事と聞けない事が在ることは御承知でしょう?それを踏まえて聞く事にします。それで宜しければどうぞ仰有って下さい!」


渠梁は腹にグッと力を込めると、兄の言葉に細やかな抵抗をみせた。ところが、当の嬴虔は頬を緩めて、ニコニコ笑っている。そしてこう告げたのだっだ。


「お前が君主だから申しておる事だ!私が君主ならば、もうとっくにやっておる事だよ!そんな事をお前が出来ぬ筈は無かろう?それとも交換条件が気に入らなかったのかな?では交換条件で無くとも良いから、必ず履行してくれると嬉しい。」


嬴虔はそう述べると、その望みを話し始めた。


渠梁は兄が急に交換条件を取り下げた事には安堵したものの、兄でも出来る事を自分が放置していると聞いて、些か驚いた。それ所以(ゆえ)に、却って関心が沸き上がっていたのである。


さて、嬴虔は何を語るので在ろうか?それはまた次の機会に委ねる事にする。

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