旅立ち
ー櫟陽・人材募集受付所ー
通行証と当座の資金を得た者たちがそれぞれに散って行った後、参加受付の者たちは、食事を摂る傍ら休憩も兼ねて、一旦退席していた。
ただこれから遅れて来る募集者のためには、誰かが後に残って居てやらねばならない。
そのため、今回の責任者を拝命していた景監が、その任を引き受けて、たまたま偶然、其処に残って居たのであるが、そこにフラッと訪れた人物が居た。
その人は背が高く大柄で、白い絹の衣を身に纏っている。
髪は黒く長髪で、背中で一本に結い纏めている。
気品があるその物腰は、落ち着きを感じさせた。
彼は清ました顔で眈々と受付を済ませると、通行証と当座の資金を受け取ってから、こう言った。
『贅沢は言わないので、秦の民が着ている服を一着いただけまいか?無論、古着で構わないのだが、用意していただけるだろうか?』
景監は部下の役人たちが、不平不満を述べる参加者たちに、今まで散々に苦労させられて来たのを、その目で見ていたため、この物腰が落ち着いていて、丁寧に願い出て来たこの男にとても好感を持った。
それに好き好んで秦の民の着衣が望みだという。
『それならすぐにでも用意してやれるが、望みはそれだけかね?』
景監が尋ねると、その男は、少し考え込んだ後に、
『丈夫な靴と簡単な地図が欲しい…如何か?』
と付け加えた。
『御安い御用だ。それも用意しよう。それにしても、貴殿はいったい何処まで行くのかな?』
景監はそう応えながら、ついでに素朴な疑問を口にしてみた。
すると、男は至って真面目にこう応えた。
『無論…秦国中をこれから巡るのだ!』
景監はそれを聞いて少なからず驚いてしまった。
俄には信じられない。
確かにこちらとしてもそれだけ念入りに自国を見聞したいという姿勢を聴かされたらけして悪い気はしない。
それだけ真剣に取り組んでくれるなら、期待も出来るし、何より意気込みが嬉しいではないか?
ただ『本当なのかな?』とついつい疑ってしまう。
と言うのも口で言うだけなら簡単だからだ。
耳に心地好く響きもする。
この男が嘘を言っているとは、役目上、思いたくはないが、これまでの参加者の中にも大層、口の上手い輩は居たので、少々疑ってみたくなったのだった。
『しかし…秦国中を巡るなんて、どんだけ時間の掛かる事か…?』
景監は大層な目的をぶち挙げたこの男を不思議そうな顔で眺めた。
しかしながら、主・孝公よりのお達しでは、
『くれぐれも協力を惜しまぬように!』
と釘を挿されているためすぐに用意をしてやった。
男は軽く一礼すると、もと来た道を戻って行った。
景監は男を見送りながら、彼の言葉を反芻していた。
『秦国中を巡る』
男の意気込みには好感を持っていたが、果たしてその言葉を履行する気が本当に在るのかどうか…と考えるに連れ、信用する事が出来ないで居た。
『果たしてあの件の男も口だけなのか?』
と訝る様子でその去り行く背中を眺めていた。
そして改めて記帳された名を見返した。
そこには『魏人 衞鞅』と記されていたのだった。
ー櫟陽・参加者宿泊所ー
衞鞅は、用意されていた宿泊所に辿り着くと、
すぐに与えられた秦人の古着に着替え、丈夫な靴に履き替えた。
そして自分が身につけていた、白い衣と貴人靴はそのまま風呂敷に包み、宿の亭主にしばらく預かってくれと頼むと、すぐに立ち上がった。
今までに入国して来たたくさんの若者たちを見てきた亭主は、少々驚きながら、尋ねた。
『貴方は泊まって行かないのかね?』
すると衞鞅はキリッとした決意の顔で亭主を見た。
『すぐに出立します。』
そう応えるとニッコリ微笑みながら、歩き出した。
亭主はそれを追いかけて、慌てて引き留めた。
他の者たちは宿泊はもちろんの事、料理や酒を要求し、それに夢中になっている最中だと言うのに、この男は、来て早々なのに少しも休まず、すぐに旅立つという。
『何という違いだ…しかも何と立派な青年だろう…』
そう感じた亭主は『時間は取らせない。』と言って、彼を半ば無理に席に座らせると、取り急ぎ簡単な料理を運ばせて、青年に振る舞った。
『これはワシの志です。先は長い…腹ごしらえして行きなさい。』
と優しい眼で彼に微笑む。
衞鞅は礼を述べると、出された料理に箸をつけるや、口に次から次へと黙々と運んで行く。
亭主が驚く間も無く、あっという間に完食してしまった。
『本当は余程お腹が空いていたのだな…引き留めてでも食べさせて良かった…。』
亭主はそう感じながらも、その食いっ振りの豪快さに感心した。
『この男ならやるかも知れない…。』
亭主はそう思わずには要られないのだった。
さていよいよ改めて旅立つ際になって、
亭主は饅頭を包んで持たせてくれた。
『途中でまたお腹が空いたら食べなさい。』
そう言うと、改めて笑顔で見送ってくれた。
衞鞅は亭主の重ね重ねの振る舞いに礼を述べて、しばしの別れを告げるや出立した。
途中、竹の筒を二つ手に入れて置き、道すがらで湧き水を見つけると、その中に水をしこたま容れる。
そうして置いてから、改めて、その湧き水を手にすくい飲んでみる。
ひんやりとしていて美味しい。
これからどれだけの時間が掛かるのか、今は想像も出来ないが、衞鞅は気持ちを新たにしていた。
『現状を自分の眼で確かめて、問題点をひとつひとつ掴んで行く事こそが端緒となるのだ!』
そう自分に言い聞かせると気持ちを奮い立たせる。
『この道行きに何が待ち受けているのか…。』
そう想うとワクワクしてきて、自然と気分が高揚して来た。
気持ちの高揚のせいか、或いは、食事をしたからかは判らぬが、身体中 に気力が漲り、大地を踏みしめる足にも力強さが感じられる。
木立の隙間から射し込む陽射しが眩しい。
鳥たちのさえずりもあちらこちらから、聞こえて来る。
まるで辺り全てが衞鞅を包み込み、歓迎してくれている様に感じるのだった。
こうして衞鞅の長い道行きは始まったのである。