心のすれ違い
渠梁は兄の虔の屋敷に到着すると、御者にいの一番に話を通して置く。黒龍と息子の駟を連れて、先に戻る様にと伝えたのだった。そして頃合いをみて、再び迎えに来る様に指示をしておく。
無論、御者は送り迎えが自分の仕事だから、嫌な顔ひとつ見せずに引き受けた。これからその眼で惨劇を見る事に為ろうとは全く考えてもみなかったのである。
渠梁と黒龍は、虔の家宰の出迎えを受けると、丁寧な挨拶を交わした。家宰は早速、『御案内いたします!』と同行を買って出てくれたが、渠梁にとっては勝手知ったる屋敷である。
兄の所在を確認すると、『恐らくこのお時間なら庭園で御座います…』との事だったので、彼はそのままひとりで向かう。
兄の嬴虔は元々献公の嫡男であるし、戦場に於いては向かう所、敵無しの大丈夫であったから、その武功は並大抵の物では無く、戦場に出る度に益々加増されて、今では広大な屋敷に住まう身分に為っていた。
けして比較論が必要な訳でも無いが、参考までに伝えるとすれば、彼の屋敷は君主である渠梁の離宮依りも倍は広かった。
渠梁は今でこそ櫟陽の君主の宮殿に住んでいるが、私有地としての彼の土地は、褒められる程、広くは無かったのである。そして彼は自分の私有地をこれ以上広げる気持ちも微塵も無かったのだ。
秦は現在貧困に喘いでいる。民の声に真剣に、耳を傾けるのならば、怨嗟の声が上がっているのが分かるだろう。それは表面的には未だ声無き声であったが、静かなる無言のやる方無い憤懣であった。
にも関わらず一部の既得権益を持った貴族たちは、それを意識的に黙殺して、のうのうと自らの権利に胡座をかいている始末であった。
それは地方に行けば行く程、顕著で在った。中央の監視の目が届かぬ事をいい事に、貴族は自領の中でやりたい放題やった。民は酷使され、文句をいう者は酷い仕打ちを受けていたのである。
民も血の通った人である筈なのに、貴族たちに取っては、自分の持ち物と同じ感覚で在った。単なる自分の持ち物である筈の者たちが逆らえば容赦しないという訳である。
なぜそんな事に為ったので在ろうか?
それと言うのも秦では貴族の専横に依り、君主が殺されたり、横死したりと受難が続き、成人したまともな君主がその座で辣腕を奮う機会に恵まれなかったので、その間、政はおなざりにされ、隣国からは攻め込まれるなど、内憂外患の極みに墜ちており、そんな貴族たちの横暴な振る舞いに、歯止めを掛けられる者がいなかったからだと謂えた。
その間、苦しみに喘ぐ民の事は顧みられず、国力はどんどん下降の一途を辿った。先の献公の御代にようやくその下降に一旦、歯止めをかけ、これからだという時に、秦はまたもや『君主の戦死』という悲劇に見舞われた。
そう言った意味では、跡を継いだ嬴渠梁という若き君主の双肩には、重い責任がのし掛かっていたで在ろう。彼は衛鞅という俊才を得て、改革に依る復興と、強国への道筋を模索し始めたばかりであった。
渠梁は改めて初心に返る様にそんな国の有り様を頭に描きながら兄との会見に望もうと、必死に考えている。子規の助言に推される形で兄に会いに来た彼であったが、元々兄の事は頼りにしていた。
彼は、兄の広大な屋敷の西側に敷き詰められた石畳を、ゆっくりと進んで行く。石畳の先には虔兄お気に入りの庭園があって、晴れた日には書読に興じたり、茶を傾けながら、客と語らったり出来る様な、雑談所が設けられていた。
『恐らく主はそこにいらっしゃいます…』
そう家宰が教えてくれたので、渠梁は今、そこに向かって歩いていた。何でもここ最近の日課としては、午後の一時は必ずそこで過ごし、駟に教鞭を取っているという。
『兄は想いのほか子煩悩らしい…戦場では兄ほど頼りになる人は他に居らぬが、そんな一面もあるのだな!兄の意外な側面をみた気がする。私もここのところ、繁忙を極めているから正直助かる。いっその事、これを機会に、兄を三公の位のひとつである大傅にでもしてみようか?』
渠梁は苦笑しながら、直ぐに思い直す。
『剣に人生のほぼ全てを捧げて生きて来た人に、今さら突然に、剣を置け!、そして今後は教えを説け!…というのは些か無理があるか…』
そんな事を、まるでひとり言の様に呟きながら、彼は想わずほくそ笑んでしまう。兄の武人の極みと代名詞される様な、精悍な表情が仏頂面に変わる所を想像してしまったからであった。
渠梁はひとり歩きながら、頭の中では、そんな思案に興じていたので、注意はかなり散漫になっていた。そのため、その直前まで気がつかなかったのも仕方がなかったと謂えた。
ふと気がついて前を見ると、何やら前方の死角から突然、小さな男の子がフラフラっと斜行して来る。そしてその足はとても覚束無いとみえて、千鳥足になり、右によれたり、左によれたりしながら、こちらに向かって来る。
そんな状態ではあるが、本人は到って真険に、そして必死に、まるで何かから逃がれる様に踠いている。踠いているのだが、心ここに在らずとみえて、その努力の甲斐無く、その全てが空回りする様に、たどたどしく見えた。
そして殊更、眼を凝らしてみた途端に、それが在ろう事か自分の息子である事に気づいて、渠梁は驚きながらも、慌てて駆け寄った。息子はすんでの所で足が捻れて倒れそうになったが、幸いにも無事に、彼の懐に飛び込む形となって、抱き留める事が出来たのである。
渠梁は懐に倒れ込んだ息子の姿を観て、さらに驚く。駟は放心しているらしく、呆けた表情で精気が無い。その顔は血だらけで、服のあちらこちらにも血が付いている。そしてその手には血糊の付いた懐剣と鞘を強く握り締めていた。
渠梁は驚きの余り、想わず息子を強く抱き締めた。そしてその身体を揺すりながら、問う。
「駟よ!お前、いったいどうしたのだ!何があった??」
駟は身体を支えられながら、語り掛けてくる声に反射的に反応すると、やがてその男の人の顔を見上げた。ところがそれは在ろう事か、自分の父親だったので、彼は驚愕の余り、「ギャッ!」と短い叫び声を上げた。
子供心に自分が酷い事をやってしまったと自覚しているので、きっとお叱りを受けるだろう、そして非難されるに違いないと思い込んでいたから、その怖さと自分の後悔の念とが入り雑じって、再び「ギャッ」と短い叫び声を上げると、想わず父の腕を振りほどいて、突然走り出してしまっていた。
渠梁は渠梁で突然の想わぬ出来事に、こちらも驚愕しており、反射的に振り返ったものの、待て…と手を差し出しただけで、それは声には成らなかった。彼はその場で立ち尽くしたまま、息子の走り去る背中を追うように眺めるほか無かった。




