嬴虔という人
その日、渠梁は朝早く目覚めると、食事を済ませた後に黒龍を呼んだ。
「今日は午後から兄上のところに行く。お前も着いて来なさい。」
「はい!ところで景監様は如何致しますか?」
「昨日の今日だからな…無理はさせたくない。私とお前だけで良い。兄とは二人で話したいと思っているのでな。余り大勢で押し掛けて、妙に刺激してもいかん!」
「そうですな…我が君の仰有る通りかと!ではまた午後一番に参ります!」
「うむ…頼む♪」
渠梁は午前中は溜まった職務に追われる羽目に成った。一昨日から昨日早朝まで、子規の館で想定外の吹雪のせいで、ずっと閉じ込められたためである。無事に帰宅したのは良かったが、昨日は夕方には起きるつもりが、疲労困憊で敵わなかったのだ。
『苦労は買ってでもするもの、またこれ愉しからずや…だな♪』
彼は子規との邂逅に想いを馳せていた。無理にでもお会いして良かった…彼は会見の中で沢山の事を学んだ気がしていた。
お昼前には黒龍がやって来たので、昼食を共にする。その後、二人は連れ立って門の前まで歩いて行った。すると既に一台の馬車が用意されて待機しており、御者が二人を迎えた。
ところが気もそぞろで、落ち着かない様子である。渠梁は「どうした?何があったのか?」と想わず口にする。御者がそれに応えようとしたその刹那の事である。
「あ!兄上様だ…」と車内から声が聞えたかと思うと、直垂が開き、何と蘭玉が顔を出してニコニコ笑いながら、手招きしている。
これには渠梁も黒龍も呆気に採られた様に絶句するほかなかった。御者が困ってしまう訳である。
そんな事はお構いなしに、当の蘭玉は、相変わらず嬉しそうに微笑んでいて、渠梁に語り掛けてくる。
「兄上、これから虔兄様のところにおいでになるのでしょう。私も参りますわ♪久し振りにお会いするから、今からとても愉しみですわ♪」
そう屈託無く笑う彼女は、とても可愛らしく見える。わざわざこの日のために取って置いた髪飾りに付け変えて、『見せるのが今から愉しみ♪』と言った所だろうか。
渠梁は呆れてしまって物が言えない。なんて天然な妹なのかと思わぬでも無いが、これでは甚だ都合が悪い。
これから兄の説得に向かうところなのだ。遊びでは無い。真険な男同士の差し向かいに、しゃしゃり出て来られてはとても具合が悪かった。
「悪いが蘭玉!今日はお前を連れて行く事は出来ないのだ。早く馬車から降りて来れ!」
渠梁はなるべく傷つけない様に優しく言葉を掛けたつもりであったが、その反応は意外にも薄すかった。
蘭玉は、全く理解出来ていないばかりか、何かの冗談だと思ったらしく、口許を袖で隠すように覆ったかと思うと、突如ケラケラと笑い出してしまった。
「またぁ~兄上ったらお上手なんだから♪」
彼女は本心から冗談なのだと思い込んでいる。これにはさすがの渠梁も困ってしまった。しかしながら、蘭玉を連れて行ってしまっては、虔兄上に足許を見られて、直ぐに煙に巻かれてしまい、真険な話し合いには成らないだろう。
渠梁は仕方無く黒龍に指示すると、蘭玉を馬車から半ば無理矢理に降ろしてしまった。
「兄上!何をするのです。失礼にも程が在りますわっ!」
蘭玉は勘気を起こして、プリプリしながら抗義している。渠梁は最早、取り合う事なく、御者に「出して来れ!」と命じた。
御者も迷到事には付き合いたく無いので、即座に馬に鞭を入れると、四頭立ての馬車は跳ぶように走り出して、やがては見えなくなった。
可哀相な蘭玉は唯一人、門の前に取り残されてしまった。彼女は両腕を男前にも胸許で組んだまま、怒りをぶつける相手も居らず、慣ったまま泣きそうになっている。
そんな所に運悪く通り掛かった者がいた。何て間の悪い御仁なのだろう。けれども当の本人は、そんな事とは露知らず、ちょうどうまい具合に、城の関係者と思われる人が、今正に城門の前に唯一人佇んでいるので、これ幸いと声を掛けた。
綺麗に着飾った女性だから、さぞかし身分の高い方に違いない。
「もし!そこのお嬢さん♪少々教えて頂きたいのだが、宜しいか?」
男は馬からヒラリと跳び降りると、鄭重に頭を下げて、声を掛けたのだが、相手のお嬢さんは、その声で振り向くと、こちらをまじまじと見つめながら、呆けている。
そして声を掛けた筈の男の方も、彼女が振り向いた瞬間に衝撃波でも受けた様に、立ち尽くして、身動ぎもしない。
『何て美しく可憐な方なんだろう…』
彼はそう思っていた。
そして彼女の方も…
「何て凛々しい殿方なんでしょう♪まるで白馬の王子様のようだわ♪♪」
そう思って見とれていた。
これが秦初と蘭玉の出逢いである。その後、最初に我に返った秦初が、蘭玉に声を掛ける事になるのだが、この話の続きはまた後日に譲る事にして、ここは、馬車の行方に話しを戻す事にする。
さて、蘭玉を放り出して馬上の人となった渠梁であるが、黒龍からある報告を伝えられると、眼を皿のように見返した。
「何?駟が兄上の屋敷に居るのか…」
「どうもその様ですな…私も出掛けに大后様に呼ばれて、知ったばかりでして…。何でも一昨日の吹雪で帰れなくなり、雪が落ち着いたら送り届けると、嬴虔様より伝者が来たそうです。『ところがまだ戻らぬ。ついては、次いでで申し訳無いが、渠梁が虔に面会した後、連れて帰って来てはくれぬか?』との事でした。大后様はかなり心配の御様子なのです!」
「判った!兄上からは面会の承諾は得ているから、その時にでも私の口から伝えよう。お前は兄上の屋敷についたら、駟を探し出して、先に連れて戻るように!どうせ長い話しになるやも知れぬから、御者が往復するには十分過ぎる程であろう。すまぬが戻ったら、御者だけで良いから、再度寄こしてくれないか?宜しく頼む!」
「はい!承知しました!」
黒龍がそう応えると、その後しばらくの間は静かな時になる。渠梁はこれから話す事を反芻する様に、頭の中で整理を始めた。
その頃、嬴虔は朝から駟の相手をしてやっていた。駟とは渠梁の嫡子であり、御歳は5歳である。彼は虔が預かる時には、必ず君主となる時のための英才教育を施されていた。
今日も朝から庭先に出て、伯父の訓示を受けている。そして虔は家宰に、檻に入れた野兎を持って来させると、それを駟に与えた。
何て甥想いの優しい伯父だろう。皆、さぞかしそう思うに違いない。駟もそう感じたのか、嬉しそうに、野兎と一緒にしばらくの間、戯れていた。
その日の嬴虔はとても御機嫌だったのか、はたまた、それだけ甥を強く愛していたからなのかは判らない。けれども気前良くまた物を与えると言うのだ。
「駟よ!お前には私の大切にしているこの宝剣を与えよう♪」
勿論、駟も子供心に次々に御褒美をくれる伯父の事が好きになる。特にその宝剣は懐剣ではあるが、鞘に宝石が散りばめられた、見るからにキラキラ輝く代物だったので、駟はもはや野兎などそっちのけで、懐剣を掴むと手に取って小躍りしている。
まだ幼子とは言え、さすがは国主の嫡子だ。それに元々男の子は皆、英雄ゴッコが好きなものだと、いつの時代も相場が決まっている。彼は何の疑いも持たずに、意気揚々と伯父の真似をして遊んでいた。
ところがである…嬴虔は突然、何を思ったのか、駟に向かってこう命じたのであった。
『その懐剣であの野兎を刺し殺しなさい!』
突然そんな事を言われれば、駟で無くとも、拒否反応を示すだろう。当たり前である。それに彼はまだ5歳なのだ。当然可愛い物を殺すのは嫌だ!
駟は黙ったまま大きく首を横に振る。僕は嫌だ、そんな事はしたくない!…彼はそう言っているのだ。
ところが、そんな彼を嬴虔はジロッと睨みつけると、彼の身体を抱き抱える様にして、野兎の檻の前に連れて来ると、「やれ!!」といきなり怒鳴りつけた。
この嬴虔という人は、戦場で敵を震え上がらせる程の咆哮を放つ事が出来るのだ。そんな大人が、恐ろしい顔をして目の前で叫んでいるのだ!5歳の子供なんて一溜りも無い。
彼はその激しい勢いに圧されて、その反動に依り、泣く泣く野兎を刺し殺してしまっていた。彼は恐ろしかったのだ。無意識に刺し貫いたとはいえ、その感触は当然残る。
そして当然、幼い心に傷を負う事に為った。ましてや、返り血も浴びるのだから、顔は勿論の事、服の折り目や袖口なども飛び散った血で染まる。
彼は放心状態となって死んだ野兎を見つめていた。その琥珀色の眼は精気が無い筈なのに、彼には自分を怨んでいる様に見えたのだ。
そんな中、伯父の嬴虔は嬉しそうにこう叫んだ!
「駟よ!でかした♪秦人は戦場で戦える勇敢な男に成らねばいかん!お前は上官の言葉に従い、見事に獲物を仕留めたのだ。良くやった!褒めて取らすぞ♪」
相手はまだ5歳の幼子なのだ。まだ人を愛する事も知らぬ赤子同然の愛すべき甥っ子に、大の大人がやらせる事では無い。
この嬴虔という人は、そこら辺の良識に欠けている節が在り、恐らくはその辺りの非情さが父・献公をして太子候補から外す判断と為ったので在ろう。
駟は未だ放心状態から抜け出せぬまま、呆けた顔で突然走り出してしまっていた。彼は自分が殺した兎があの恐ろしい眼で睨んだまま、追い掛けて来るのではないかと、時折、後ろを振り返っては確認しながら逃げ出していた。
そんな訳だから、伯父の褒め言葉など頭に入って来なかったし、血糊の付いた懐剣と鞘を両手に持ったまま、必死に見えない"何か"から逃げていたのである。
彼は後ろをまた振り向き確認する。そして、再び前を向いた瞬間に、余所見から、誰か大きな懐を持った大人の男の人にぶつかってしまったのだ!
駟は身体を支えられながら、反射的にその男の人の顔を見上げた。それは在ろう事か、自分の父親だったので在る。彼はお叱りを受ける怖さや非難を怖れる様に「ギャッ」と短い叫び声を上げると、父の腕を振りほどいて、走り出していた。




