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兄の真実

子巌は瞳の奥を視ている。秦初はそう感じた。子規がいみじくも子らの瞳の輝きを確認する様に、兄も自分の瞳の奥の正邪を確かめているのだと秦初は想った。


恐らくこの場合は、そこに信念が在るのかどうかを見極めているのだろう。そして必ずやり遂げるという気迫が底に秘められているのか…それをはっきりとさせたい様だった。


秦初は(ひる)まない。かと言って気迫を見せるでも無く、泰然自若を貫いている。心は穏やかであり、気持ちは落ち着いていた。


「ふん!一端(いっぱし)の物言いをする様になったと思ったら、お前も成長しているのだな…お前の瞳の奥には碧白(あおじろ)い静かな清輝(せいき)が宿っているが、時折その中から、琥珀(こはく)色の(ほむら)が弾け散っておる。」


口は悪いが、子巌なりにこの弟を認めている様だった。彼は一度静かに眼を(つむ)り、頭の中で(こと)()(かな)で、それに合わせる様に(しばら)くの間、(つぶや)いていたが、心が決まったらしい。ゆっくりと(まなこ)を開くと、真剣な表情をみせた。


それは秦初に対等に向き合おうとの決意の表れだった。彼は一旦机の上を振り返る様に仰ぎ観る。そしてゆっくりと黒い飾りのついた書簡と緑の飾りのついた書簡を両の手で掴むと、秦初に向かって差し出した。


既に秦初も兄が自分に対して、真剣に向き合おうとしてくれている事は肌身に感じていた。そして今正に目の前に差し出された書簡が何かを語ってくれると信じていた。彼はその二巻の書簡を受け取ると、ひとまず兄を見つめた。


「それは私の、謂わば大切に温めてきた財産である。正直、これを使う機会が訪れるのを心のどこか片隅で願っていたのだ。だが相手はかなりの難敵であり、生半可(なまはんか)な覚悟では倒す事はおろか、肉薄する事さえも難しいだろう。私も…そして父上でさえも心が決まらなかったのだ。」


子巌はまず想いの丈を妻片(つまびら)かに語った。そして一旦、口を真一文字に閉じると、秦初を見つめる。その眼は充血しており、力の及ばない自分自身に(くや)しさを(にじ)ませている様に秦初には見えた。


甘龍(かんりょう)ですか…」


秦初は少々兄の気迫に押されていた。そこには戦場でみせる兄の矜持が現れていたからである。こんな子巌の姿を観るのは久方振りの事であった。彼は思わずそう口をついていたのである。


「そうだ!!甘龍(かんりょう)だ!そしてその(はかりごと)を体現しているのは奴の手先の杜摯(とし)だろう…ここまでは父上も私も確信している。そして恐らくお前もそうだろう。だが肝心なのはここからだ!奴を追い込む為には、明らかな確証がいる。相手は腐っても秦の上大夫なのだ。しかも先君の御代に功績がある。我が国に貢献している事も確かなのだ。だから簡単では無いのだ。父上や私が手を下せずにいた訳が判ったで在ろう。」


確かに兄の(げん)は正しい。秦初でさえも未だに実行の指揮(タクト)を振るう事が出来ずにいる。実際、今日も魯粛の問いに待ったをかけていた。


危険を冒すのに十分過ぎる程の確証が無くては身動きもまま成らない。下手を打てば、逆に相手の怨嗟(えんさ)の炎を(あお)り立てて、反撃を受けかねない。そうなると子家も危うい立場に陥る。


これは恐らくだが、車英の父も甘龍を追い込もうとした節がある。そしてこれも恐らくだが、相手の急所を貫き損ねて、逆にその罠に堕ちた。それが子家の総意であり、間違いない真実だと確信している。


(とど)のつまりは、甘龍の意向に沿わない場合、何事も進まないという事になる。甘龍が秦を影から操る支配者と云われる由縁が此れであった。


「兄上の仰有る事は的を得ていると私も思います。つまりはこちらも肉を切らせて骨を断つ覚悟が無ければ成らないのだと謂う事ですね?兄上は立派な御方です。私は昔から貴方を尊敬しております。恐らく貴方は自分が刺し違える事で済むならば、既に実行していたのでしょう。けれども、子家全体の事を考える時に、一歩を踏み出せずにいた。そういう事なのですね。私は今、話を聞いていて判る気が致しました。恐らくは父上もそうだったのでしょう…」


秦初はようやく頭の中が完全に整理された気がしていた。確かに難敵の様である。


「そうだ…すまんな!私だって車家の(かたき)は討ってやりたい。妻やその一党の気持ちを無碍(むげ)に考えた事は無い。只ひとつでも手を間違えば相手に呑まれる可能性は否定出来ぬ。お前は今、子家の事を考えた時にと…そう申したが、私の相肩(そうけん)には子家だけで無く、車家の者たちの運命も懸かっているのだ。情けない事だが、私が一歩を踏み出せなかった理由がこれでお前にも判っただろう…」


子巌はとても悔しい表情を見せると口を閉じた。秦初は兄の想いが理解出来た気がしていた。


しかしながら、だからといって、決してこのままで良い訳は無い。誰かが真実を妻片(つまびら)かにして、正義の(やいば)を振るわなければ、この国自体もけして良い方向には進まないだろう。


今、秦国は改革を進めて変貌しようと(もが)いている。この際、(うみ)を出して浄化させる事が、これからの秦の行く末を明るく照らしてくれるに違いないのだ。


「兄上…私は必ずやり遂げてみせます。父上や兄上の想いは私が今後背負います。そして車英を陽の当たる場所へ!私は果たしてみせます!必ずね♪」


秦初はそう言い切ると、真剣な眼差しで兄の眼を見つめた。


「そうだな…お前なら出来るかも知れんな、司馬(しば)(りょう)殿…」


「あ!兄上…貴方知っていたのですか?」


秦初は驚いている。子巌はフフンとほくそ笑んだ。


「安心しろ!お前は上手く隠していたよ…否、この言葉は使いたくないな!お前は昔も今も私たちの弟として愛情を示してくれている。そして私達もお前を愛している。だから気にする事はないさ♪今、敢えてこの事を持ち出したのは、そういった側面を持っている者ならばひょっとしたら打開の糸口が見つかるかも知れぬ…そう思ったからさ!」


「それにしても驚きました!兄上の振る舞いからは微塵(みじん)も感じられませんでしたぞ…」


「当然だ!俺を誰だと想っている?これでもお前さんの兄上様だぞ♪確かに私は交渉事には(うと)い。自慢にもならんがね♪だが、戦場で劣勢な時には、味方を励まし、敵を(あざむ)かねば成らない時もある。知っている事を知らない振りするくらいの事で在れば、それは容易(たやす)いというというものだ。判ったかね?」


「ええ…参りました!さすが兄上!」


「おいおい!胡麻を磨るなよ…こそ葉結い。まあ種を明かすとだ!私が五大夫に為った折りに、父上に呼ばれてな、お前の出自を聞いたのだ。おっと!父上を責めるで無いぞ♪これでも私は子家の嫡子だ!父上が居なくなれば、私が子家を率いる事になる。その時に、お前を陰ながら支援(サポート)する者が必要だとの父上の御判断だ。お前も知っての通り、私は子供の頃から気が短い。その事を懸念していた父上は打ち明けようかかなり迷っておられたそうだ…だが私が激情に走らず、沈着冷静に判断して数々の武功を納めた事で、話す気になったらしい。」


子巌は"武功を納めた"と言った所で少し鼻白んだ。自慢気に言い過ぎたかなと気にした様だった。


「さて、返答がまだだったな…ではそろそろお前の問いに応えるとしようか?」


子巌はそう水を向けると、やがて語り始めた。


「まず一つ目の問いだが…我が君は登壇してまだ日が浅い。そして継承の式典に於いて、改革の方針を示された。それ以来その事に邁進されている。私は水を差したくなかった。それだけだ。それが証拠には緑の飾りのついた書簡を後で見ると良い。父上と私の陳情書がそれだ。それに我が君ご自身が気がつく事も考慮の内にある。さすがに君主の決定に甘龍も逆らいはしまいよ♪だがこちらが接触していない事が前提に無いと相手に勘繰られるからな。」


秦初にとっても、それは最終手段だと想っているので判る気はした。ぶっちゃけた話し、復権などというものは、君主の決断(けつだん)如何(いかん)だと言えるのだ。


但し、影で影響力を持つ甘龍という男の存在が、皆の口を閉ざし、事の妨げになっている事も確かだった。


「次に二つ目の問いだが、これはお前も薄々気づいているのだろう?それとも私に文官の知己が無いとでも思ったかな?承知の通り…今の文官連中は、そのほとんどが貴族の高弟たちで形成されている。ここまで言えば判るだろうが、"彼"の息が掛かって居ない者が果たして無事にやっていけるであろうか?まあ奴もさすがにやり過ぎは却って疑いを招くと判断したのか、全く影響を与えられていない文官も何人かは見つけたよ。探せばもっと増える可能性もあるだろう。文官連中に陳情を掛けない理由は、そういった所だ。但し、きちんと調べはつけている。無論、完璧では無い。こちらもやり過ぎは疑われかねないからな。これで答えになるだろうか?」


あの気が短かかった兄の子巌が、今や函谷関の防衛司令官に成っているのも必然なのだと、秦初は思った。


『慎重に成られたのだな…』


彼にとっても少々嬉しい驚きであった。兄は彼が思っていた以上に、踏み込んだ調査を行っていた。けして放置していたなどと揶揄(やゆ)されるべき状態ではない事も理解出来た。


子巌は"そうだ、忘れていた"といった呈で言葉をひとつ添えた。


「文官連中の中で奴の派閥かどうかは、ひと目で判る様にしてある。それは黒い飾りの付いた書簡を見てくれれば判るだろう。」


秦初は頷き、感謝の言葉を述べた。子巌は始めて頬を緩めると、優しく微笑んだ。子供の頃、何かにつけて庇ってくれた、穏やかな微笑みだった。


「有り難うございます。感謝します。もしほかに何か付け加える事があれば、承っておきたいのですが?」


「そうだな…三つ目の事は今までの話しで、だいたい想像はつくだろう。車家復興の妨げは、"彼"が行使せぬからと断言しても良い。これはあくまでも噂の域は出ないのだが、先君の献公様が、お亡くなりになった魏との戦に出る前に、甘龍に対して車家復興の指示を下したらしい。正しい見識を持つ者たちは皆、口々にそうこぼしていた。」


『成る程…有り得る事だが、仮にもしそうだと仮定した場合、何か矛盾を感じるな。当時は父上が相国を務めていたのだから、臣の最高位にいた筈だ。なのに献公様はなぜ父にではなく、甘龍に指示したのかな?もしかしたら、そこら辺りに謎が隠されているのかも知れない…』


秦初はそう感じていた。


「ひとまずはこんな所だ。朱・緑・黒の三つの書簡も託すゆえ、宜しく頼む。後、嬴虔様は可能な限り、敵に廻さぬ様に気をつけよ!あの方も貴族である事に変わりは無いが、甘龍の息は掛かっておらぬ。私の上司だしな。只少々変わっている事も確かだ。気難しさは私の比では無いからな。お前も会う機会があれば、くれぐれも気をつける事だ。また何かあれば、いつでも来い。私に出来る事であれば力になろう。なあに、いざとなったら、多少武力に訴えても良いぞ!但し、確証を押さえてから頼む。後は私や父上、そして嬴虔様も居るゆえ何とかなろう。まずは第一歩からだ。宜しくな!」


こうして兄・子巌との面会は終わった。


『遥々、函谷関まで来た甲斐はあったな…』


秦初はそう想いながら、馬上の人となった。手始めは、櫟陽(やくよう)から始めねば成るまい。彼は気持ちも新たに走り始めた。

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