義父の願い
2人はしばらくの間、昔を懐かしむ様に各部屋の中を覗きながら、時を過ごした。庭先の木立の枝枝からは、時折、雪の塊がバサッバサッと落ちてきて、一面の雪に溶け込んで行く。
その音に誘われる様に、ふと庭先を眺めていた秦初は、呟く様に口をついた。
「来る時に、銀杏並木の坂道が綺麗に雪掻きされていて、とても歩き易かっただろう…」
「ええ…そう言えば、あ!そういう事ですか?」
「そうだ!(*´▽`)やっとお前も気がついたな♪恐らくは昨晩、来客が在ったに違いない…義父上は来客を迎える時や見送る前には、必ずと言って良い程、きちんと坂道を清掃させるからな…」
子規は秦初がいみじくも語った様に、そういう配慮を必ずしていた。来客を気持ち良く迎えて、送り出す…そういった細かい所に気を配る人で在った。
しかしながら、近年は来客は断っていたのだから、恐らくは不意の来客が在って、送り出す際の配慮だったのだという秦初の読みである。
「まさに仰る通りです…相変わらず鋭くていらっしゃる…」
子規であった。彼は懐かしむ様に秦初の背中を見つめながら佇んでいる。秦初はゆっくりと振り向くと、義父に向けて会釈した。そして改めて挨拶を行った。
「師傅殿!御無沙汰しております…お元気そうで何よりです♪」
秦初は胸元で両手を組むと、礼を持って義父を迎えた。子規は礼儀作法にはうるさい人であった。彼はそれを承知しているので、義父を迎える時には、必ず礼を尽くす。
趙良も主君に倣って、それに準じる様に背後でかしこまっている。2人にとっては子規は恩人であり、家族も同然であった。
「ひとまず、母屋に参りましょう!大広間にて茶でも進ぜよう。暖を取れる様に準備をさせて在ります…どうぞお出で下さい♪」
子規はそう提案すると、「ど~ぞ!」と言って手招きをする様に、道を開ける。
「恐れ入ります。では御言葉に甘えさせていただきます!趙良、いくぞ♪」
秦初は趙良に声を掛けると、子規に先導されて母屋に向かった。大広間では、何充の采配の元、すっかり準備が整っていた。
広間の中央の囲炉裏には火が入り、パチパチと時折炎が爆ぜている。その上からは吊り下げられた土瓶がグツグツと煮たっていて、その蓋が耐えきれぬ様にパタパタと踊り狂う。
上座の席に誘われた秦初はそれを固辞し、師傅である子規を座らせると、自分は下座の席に腰を掛ける。趙良は広間の入口付近に席を設けられて座っている。昨夜黒龍や景観たちが座っていた場所である。
何充は煮立った土瓶から煎れた茶を三人に振る舞うと、静かに退席した。久し振りの再会であるから何充も同席したいのは山々であるが、秦初が子規に会う時には、主人から必ず退席を促されるので、長居はしなかった。
「御無沙汰しておりました。師傅におかれましては、益々御健勝の由、何よりでございます。」
「いや何♪年寄りの冷や水で御座るよ。若君もお元気そうで何よりです!修業の方は順調ですかな?」
「ええ…お陰様で。つい先日までは斉にて稷下の学士に交まじって、政の有り様について議論を闘わせておりました。その時に出逢ったある方に頼まれて、さる人物に会うために戻って参りました。」
「左様でしたか…相変わらず精力的ですな!私もまだまだ気持ちは若いつもりですが、さすがに若の様にはいきませぬ…」
子規は自嘲気味に微笑むと然り気無く、秦初の眼を視る。彼は三人の息子が戻って来た時には、必ずそうやって、眼の中の瞳の輝きを確認していた。人は表情や言葉、そして仕草などはいくらでも演ずる事が出来るが、瞳の輝きだけは直しようがない。
此れはあくまでも子規の持論で在り、正誤は定かでは無い。只、彼としては子供たちが曲がった方向に進んでいないか確かめたいだけであった。子規なりの親心といった所であろうか。
『ほぉ~この方の瞳は曇る事を知らぬとみえる…それどころか益々輝きが増しているようだ。きっと良い生き方をされているのだな。安心した…』
子規にとっても憂い無く、落ち着いて話しが出来るのはやはり嬉しい。秦初とは約2年振りの再会である。
「さて…先程の話しですが、実は昨日突然、君主様の御訪問を受けましてな、御存知のように生憎の吹雪で、ここら一帯は閉ざされて陸の孤島です。昨夜はお泊りいただき、今朝ほど早めにお発ちになったのです。」
「そうですか、君主様がお出でになったのですか…」
「ええ…私も青天の霹靂でしたが、あの方が跡を継がれてからは、一度もお会いしていませんでしたから、却って良い機会となりました。あの方の施政方針も良く判りましたし!」
「秦国は今、改革を行おうとしているそうですね。中華の列強に負けない国造りを押し進めるとか。愉しみでもありますが、必ず改革には、生みの苦しみが伴うもの…辣腕を揮う者の姿勢に掛かっているでしょうね!」
「仰せの通りかと!私は昨夜改革の草稿を拝見致しましたが、なかなか良く出来ております。但し、若の仰有る通り、定着するかしないかは、受け手側の感じ方次第だと思いました。君主様の御威光がぶれる事無く履行される事、そしてその実行を担う衛鞅という御仁が真摯に推し進める事が出来るかでしょうね…」
「まさしく!時に師傅は衛鞅殿にはお会いになったのですか?」
「いや…会ってはおりません。あくまでも君主様を通じて聞き齧った程度ですが、それが何か?」
「実は私は昨日、その衛鞅殿にお会いしたのですよ。そうです…私がわざわざ秦に帰郷する事になったのは、彼にお逢いするためでした。勿論、ある方から頼まれたから…という理由はありましたが、私自身も話しを聞いているうちに、会ってみたくなったからです。そこで遥々戻って来たのですよ!」
「そうでしたか…それで衛鞅殿とは実際どんな方でしたか?」
子規は興味津々と目を輝かせた。
「そうですね…一口に言うと切れる男です。まだ若く気力体力共に充実しており、野心に燃えている。そういった所でしょうか?冷静で落ち着きがあり、聡明です。恐らく非情に徹し切れる御仁とみました。その位の気構えがなければ、改革など断行出来ないでしょう。古い因習に縛られる者達からはさぞや煙たがられる事でしょうな…君主様が存命中はまだしも、お亡くなりになった後は、その恨みを一身に受ける事になりましょう…」
秦初は自分で感じた人と成りを、単刀直入に表現した。
『随分と高く買っているんだな…』
子規は秦初が衛鞅という男に興味を持った事が良く判った。そもそも秦初と言い、趙良といい、そして子規の知る『あの方』といい、西夏国の人々は物言を合理的に考える。
そう言った意味では、衛鞅という御仁も似た者同士かも知れなかった。
「成る程…君主様が改革を委ねた意味が判る気がしますな!草案造りと言い、冷徹な面と言い、"餅は餅屋に任せる"という事ですか…君主様では改革を断行するには優し過ぎるというものですが、それだけ信念と野心をお持ちの方ならば、必ずや改革を為し遂げる事でしょう。それで、若君はその"ある方"から護衛でも頼まれましたかな?」
子規は割と辛辣な物言いをした。言葉にはしていないものの、一国の太子がするような事では無いと、暗に嗜めているのだ。
『流石は師傅だ!耳の痛い事でも平気でいう。まぁ、中華の暗君と言われる人物なら、怒り狂うところだろうが、生憎この私は、その師傅から教育の一旦を受けているのだからな…"良薬は口に苦し"さ!…直言される内が華というものだ!』
秦初もそこいらの機微は心得ている。
「師傅の見立て通りの事を"ある方"から頼まれましたよ…相変わらず本質を見る目は御健在ですね!お見逸れ致しました。でもご安心下さい。 私の見立てでは、そんな事は不要だと思っています。但し、彼が望むのなら、逃がしてやるくらいは朝飯前ですがね…私は自分の信念のままに、追及するのは自国の利益のみ!あくまでそこに派生する、知識と経験にしか興味はありませんよ。もし仮に利益が一致した暁には、必死に庇うかも知れませんがね!」
「それで良いのです!若君には自国の民を正しく導く責務がございます。中華の者に必要以上に情けをかけぬ事を切に願います。それは秦国の臣である私共の仕事です!!」
「肝に命じておこう!」
秦初はそう応えて頷く。子規はそんな秦初を眺めながら、『逞しく成られた…』と満足していた。『"あの方"もさぞお喜びの事だろう…』
「時に若君!本日の御訪問の主旨をまだ承っておりませぬが、何か私に聞きたい事や出来る事があるのでしたら、遠慮無く仰有って下さい!」
子規は昔から相手の不意を突くのが巧みである。だから相手にされた方は堪らない。余程、予め答えを用意していないと、言葉に詰まる。
すると、いつの間にか子規のペースに乗せられて、それ以降の交渉の主導権は、最早戻って来る事は無い。『流れを感じ取り、引き寄せる』子規は外交手腕でもピカーであった。
『やれやれ…』
秦初は想う。
『息子が久し振りに帰って来ているのだ…素直に成れんものかね…帰宅するのに理由がいるかね?』
彼は想わず苦笑いする。しかしながら、的を得ている事も確かなのだ。彼は実際、車英の問題解決を望んでいるのだから…。
『義父殿には敵わない…』
秦初は或る意味、彼の弟子なのだ。中華においての掛け引きは、ほぼ子規に学んだようなものだ。この際、子規が呼び水を浸けてくれたと考えれば、話しはしやすい。彼は素直に師傅の…否、義父の手の平に乗ってみる事にした。
「義父上、実は衛鞅殿にお会いした際に、そこで車英に会いました。義父上は当然承知されておりますね?私の見立てでは、貴方と子厳兄上のご配慮なのでしょうが、いつまで車英を放って置くおつもりなのです?義父上の腹積もりをお聴かせ願えませんか…
奴の件ではこの私にも責任があります。そろそろ、車家を復興し、彼に跡を継がせても宜しいのではないでしょうか?これから改革も始まりますし、良い機会かと!車英も国に貢献出来ぬ事が辛いと申しておりました。如何でしょう?」
子規は秦初の言葉1つ1つを真険に精査しているようだった。彼は少しの間、考え込む様に目を瞑っていたが、瞼を開くと、秦初を見つめた。
「そうですか…彼がその様な事を申しておりましたか…。思いの丈を語るのならば、私にも考えが無い訳では在りませぬ。車英は先君の御世に、出来れば復権させてやりたかったのだが、先君の急死に依って、その願いは頓挫してしまった。これは、お前も知っての通りだ。あの後、私は政務から身を引いてしまったので、今は表立っては何もしてやれぬ。子厳に任せてあるが、さすがにあいつも五大夫の身では、全てが上手く行く訳でも無いようだ。正直、今は手詰まりの状況だな。お前には成るべくこの件に関わらせたくなかったのだが、もし仮に内政干渉にならぬ策があるのならば、敢えて止めはせん。やってみるが良かろう!何か不都合があれば力になろう。責任は私が取ってやるゆえやって見せよ!」
秦初は話を聞いていて、何やら歯に挟まった物の言い方に感じた。義父にしては珍しい事だが、これも身を引いた手前、出しゃばる事が出来ぬ、忸怩たる想いというべきかも知れない。そう考えなければ、話の前後で矛盾が生じる。
『やむを得ぬだろう…』
秦初は想う。兄の子巌にしても腕っぷしには自信が在るものの、交渉に関しては口下手とまでは言わないが、得意とは言い難いのだ。
『まぁ良い!ひとまずこれで師傅の顔は立てたし、許可も頂いた。後は私のやりたい様にやるだけだ!』
彼はそう割り切る事にした。今さら過去の事を真しやかに指摘しても始まらない。
「判りました!やってみましょう♪必ずしも師傅の御意向通りに成るかは定かでは在りませんが、やってみる事にします!」
秦初は義父の想いに応える為にも、人肌脱ごうと心に決めた。




